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大江戸転生主従パロ 手を放す 11 ~土井家出火~


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 土井家の嫡男である若殿が蔵に入ったのは、夕餉が終わった頃のことだった。
 利吉は廊下の向こうから、若殿が供の者を一人連れて蔵筋に向かうのを見た。手には書付の束を抱えている。蔵の帳面を確かめに行くのだろう。
 当代は江戸屋敷の蔵のことには無頓着な性質で、少し前までここの蔵は江戸屋敷付きの家老に一任されていた。次の藩主となる若殿は几帳面な性格で、長年放置されていた蔵の中身を改めるべく動いている様子だった。利吉は声をかけるか一瞬迷ってやめた。若殿に対して蔵の警備を進言する立場には自分はない。家老に退けられた以上、同じ話を若殿に持ち込めば越権どころでは済まなくなる。
 若は明日戻る。奥方からはそのように聞いている。視察の日程通りなら明日の午後には屋敷に入るだろう。あと一日。この屋敷に若がいない最後の夜だ。進言はそれからでも遅くはない。
 若殿の背中が渡り廊下の向こうに消えた。蔵の重い扉を開く音が、遠くに響いた。

 利吉は自室に戻り、夜の見回りの支度をした。着替えを済ませ、帯を締め直す。懐に短刀を差し、足元は足袋だけにした。草鞋では音が立つ。忍の出で立ちだ。誰のための──と、考えかけて、またやめる。
 窓の外を見た。空は曇っていて、今夜は月が出ないだろう。闇に紛れて動くには都合がいい。それは犯人にとっても同じ筈だ。



 亥の刻を過ぎた頃、利吉は蔵筋の外縁を歩いていた。
 屋敷の中は既に静まり返っている。夜番の者が二刻に一度巡回するが、次の巡回まではまだ少々間がある。
 利吉は足音を殺して蔵筋の塀に沿って歩いた。蔵筋の入口は二箇所ある。北の入口からは奥の蔵に、西の入口からは手前の蔵に通じている。利吉が棚卸しをした蔵は手前の方だ。帳面と衣装箱を収めた古い蔵で、若殿が夕餉のあとに入ったのもそちらだった。戻ったかどうかは確かめていない。奥方の部屋に灯りが見えたから若殿もとうに自室に戻っているだろうとは思ったが、確証はなかった。
 利吉はまず、西の入口から手前の蔵を確かめた。漆喰の白壁が闇の中にぼんやりと浮かんでいる。扉は閉まっており、錠に手を触れるとしっかりと掛かっていた。異常はない。そう判じかけた時だった。
 ──風が変わった。
 それまで無風だった夜気に、微かな流れが生まれた。敷地の外側から吹き込んでくる風に乗って、利吉の鼻にかすかな匂いが届いた。
(油……?)
 灯明の油ではない。もっと重く粘りのある匂いだ。そしてその奥に──甘い匂いが混じっている。利吉は足を止めた。この甘さを知っている。白檀と丁子。家老からもらった匂い袋の香り。あの薄紫の絹に包まれた小さな袋を懐に仕舞った日から何度も嗅いだ匂いだ。町でも流行っているらしいと家老は言っていた。けれども今、この匂いは懐からではなく風に乗って届いている。屋敷の外から。油の匂いと共に。
 ふと、昼間の伊作の言葉が蘇った。白檀や丁子は防虫にも使われ、樟脳と混ぜれば上等な防虫香になるのだと。そしてその香は地方によって配合が違う。江戸っ子に馴染みがない香り。他所の土地の調合かもしれないと言っていた。他所の土地。それは、土井家の藩にも言えるのではないか。
 利吉の思考は加速した。蔵の棚卸しの時に微かに嗅いだ匂い。家老は「蔵の樟脳が衣に移っている」と言ってその匂いを消すためにと匂い袋を寄越した。蔵の香りは微かで、利吉自身も蔵の匂いに鼻が慣れてしまっていてあの時は気付かなかったが、あの匂い袋の調合は蔵の防虫香と──。
(──同じだ)
 同じ匂いなのだ。匂い袋と蔵の防虫香が。白檀と丁子に樟脳を加えた調合は一つしかない。あれは蔵の中にある防虫香と同じものだった。それをなぜ家老は匂い消しだと言って利吉に渡したのか。そしてその匂いが今、油と一緒に風に乗って届いているのは何故なのか。理由は分からない。分からないが、火消しの留三郎が言っていた。犯人は蔵を狙っている。扉際を焼く。火事場の混乱に紛れて中身を持ち出す。犯行現場に残されていたのは甘い油の匂い。もしかしたら、この匂いがそうなのではないのか。
(今夜だ)
 利吉は蔵筋に向かって走り出した。


***


 同じ頃、小平太は土井家の江戸屋敷から二丁ほど離れた辻に立っていた。
 同心の装束ではない。着流しに編笠を目深に被り、夜の町に溶け込んでいる。長次から「屋敷町が騒がしい」と聞き、小平太は仕事の合間を縫って夜の見回りを続けていた。奉行所の命令ではない。自分自身の判断だった。
 同心の管轄は町方であり、武家の敷地には入れない。大名屋敷の塀の内側は別の世界だ。けれども塀の外から見えるものはある。人の出入り、灯りの動き、夜半の物音。それらを拾い集めて控えに残す。いずれ証を形にする時のために。
 その夜は風がない日だった。曇り空で月も出ていない。放火には好都合な夜だ。
 小平太は辻に背を預けて闇を見つめた。屋敷町は静まり返っている。だがその静けさの底に、何かが澱んでいるような気がした。根拠はない。同心としての勘のようなものだ。
「……嫌な夜だな」
 小平太は帳面を懐に確かめ、塀沿いをもう一巡りすることにした。



 一方その頃、長次は永楽屋の裏手にいた。
 文次郎の店はとうに閉まっていたが、裏口の鍵は幼なじみたちのために開けてある。長次は裏手の土間に腰を下ろし、闇の中で目を閉じていた。
 今日一日かけて集めた情報を頭の中で並べ直す。屋敷町での不審な動き。昼間に出入りした荷の数。番所の詰め替え。それらは瓦版にすることはできないものだ。武家の内情に踏み込む記事は書けない。けれども書けないながらもできることはある。
 長次は懐から紙を出し、墨をつけずに筆を握った。書くのではなく、書く内容を頭の中で組み立てる。もし今夜何かが起きたら、明朝一番で留三郎に渡すためだ。記事ではなく口伝として。瓦版屋の名前は出せないが、ただの町の噂として、必要な者の耳に届けるために。
 土間の外で風が動いた。長次は目を開け、ふと呟いた。
「……嫌な夜だ」
 小平太と同じ言葉を、同じ夜に。


***


 利吉は走っていた。
 蔵筋の塀に沿って裏手に回り込み、角を曲がると奥の蔵が見えた。思った通り、扉の下端に火が這っている。帯状に広がる炎は扉際に沿って燃えており、壁や屋根にはまだ回っていない。外から油を引いて点けた火だ。連続放火と同じ手口。けれども利吉は同時に別のことに気づいた。
 煙の匂いがおかしい。
 扉際の火は油の匂いを放っている。だがそれとは別に、もう一つの煙の匂いが背後から届いていた。焦げた紙と木の匂い。そしてその奥に、あの甘い匂い──防虫香の匂いが混じっている。この香りは、この蔵からしているものではない。
 利吉は背後を振り返った。西の方角。手前の蔵がある方だ。
 目を凝らすと、西の入口の向こうにも薄い煙が漂っていた。けれども扉際から出ているのではない。蔵の壁の上部にある通気口から漏れ出ている。
「中から燃えている……?」
 おかしい。放火にしては何もかもがおかしい。外から火をつけたのではなく、蔵の中で火が起きている。紙と木が焦げる匂い。帳面だ。帳面が燃えている。そう思い立ったとき、利吉の思考は一瞬で組み変わった。
 北の蔵は囮だ。外から火をつけて連続放火犯の仕業に見せかけている。本当の狙いは西の蔵──手前の蔵だ。中から火を放って帳面を燃やしている。中に入れる者がやった。内部の人間だ。
「誰か来てくれ!! 付け火だ!!」
 叫ぶやいなや、利吉は西の蔵に向かって走り出した。若殿が、まだ中にいるかもしれない。夕方供と一緒に蔵に入るのを見た。戻ったかどうかは確かめていない。もしもこの付け火が計画的犯行で、他でもない若殿をねらったものだとしたら。
 屋敷の奥から悲鳴が上がった。母屋の方でも火の手が上がっている。複数箇所の同時出火だ。家人たちが起き出し、慌ただしく走り回る足音が夜気を裂いた。誰も蔵筋には来ない。母屋と渡り廊下の火に気を取られ、敷地の奥の蔵のことなど頭にないのだろう。
「くそ……!」
 だがまずは西の蔵だ。北の蔵の出火はあのままであれば小火で済む。そう思って利吉は地を蹴った。
 蔵の前に着くと、通気口から煙が漏れ続けていた。中の火はすでに相当広がっているはずだ。扉を見ると、錠が掛かっている。だが異常はそれだけではなかった。先程は気付かなかったが、框の隙間に小さな楔が打ち込まれている。ぱっと目は気付かない程度の大きさだが、確かに上下に二本。扉を内側から押しても開かないようにする細工だ。
(中に人がいるのに、外から封じている……?)
 その時、中から鈍い打撃音がした。扉を叩いている音だ。
「──開けてくれ! 誰か! 誰かいないか!!」
 若殿の供の声だった。
 利吉は迷うことなく楔に手をかけた。食い込みが深く素手では抜けない。短刀を抜き、刃を楔と框の隙間にねじ込んで打ち付ける。一本目が弾け飛び、二本目にも刃を当て体重を乗せてこじ開けた。楔が外れた瞬間、扉を引き開けると中から熱風と煙が噴き出した。
 同時に、人の体が倒れ込んできた。供の男だ。腕と顔に火傷を負い、煤だらけの顔を利吉に向けて掠れた声を絞り出す。ほとんど意識を失いながら、それでも主人のために声を張り上げ続けた男は、焼け爛れた喉でそれでも言った。
「……若殿様が……まだ中に……」
 利吉は供の身体を扉の外に引きずり出し、広場の地面に横たえるとすぐに蔵の中に踏み込んだ。水を被っている暇もない。入るなり全身に熱が走る。火の粉が袖にかかり焦げた臭いがしたが、振り払う間も惜しんで奥へと進んだ。
 蔵の中は既に視界がなかった。煙が充満しており目を開けていられない。床の方がまだましだ。利吉は身を屈め、床を這うようにして進んだ。帳面の棚が燃えている。紙が燃える独特の匂いと、防虫香の甘い匂いが混じり合って鼻を刺した。
 その時──手が何かに触れた。人の腕だ。
 若殿は帳面棚の手前で倒れていた。煙を吸って意識がない。利吉は若殿の身体の下に腕を差し込んで引きずり起こした。右腕が軋む。火傷の熱さが腕の奥まで食い込んでいたが、構っている暇はなかった。若殿を肩に担ぎ上げて来た道を戻る。扉の周辺にも火が回り始めていたが、利吉が開けた隙間からはまだ通れた。火の中を駆け抜けて外に出ると、ようやく夜気が肺を満たした。
 蔵筋の広場に若殿を下ろす。供の男はまだ地面に横たわっていたが、目はぼんやりと開いており意識はある様子だった。
「若殿。お気を確かに」
 返事はない。けれども胸は動いているし、息もある。利吉は若殿をその場に残して立ち上がった。悲鳴がまだ聞こえている。母屋の方角を見ると、渡り廊下の火は家人たちが消しにかかっているが奥方の居室がある棟にも煙が流れ込んでいる。あちらこちらで出火しており男手は手一杯の様子だ。そもそも若殿の姿が見えないことで探しに手を取られている者もいるのだろう。利吉は母屋へ向けて走った。

 奥方の居室に飛び込むと、侍女が奥方の肩を揺すっていた。奥方は目を開けてはいるが焦点が定まらず、煙を吸って咳き込みながら壁に手をついている。膝が折れかけているのを侍女が懸命に支えていた。
「ここは私が。裏庭に出て、奥方様を寝かせる場所の確保をしてくれ」
 侍女に言い置いて、利吉は奥方の腕を肩に回した。火傷の右腕に体重がかかり、視界の端が白く弾ける。歯を食いしばってそのまま立ち上がらせる。
 奥方の目がふと利吉の顔を捉えた。朦朧としながらも、誰に支えられているのかは分かったらしい。
「……山田、殿……」
「喋らないでください。煙を吸います」
 廊下は煙の通り道になっていた。天井に近いほど濃く、腰を落とせばまだ呼吸ができる。利吉は奥方を抱えたまま壁伝いに低く進んだ。奥方の足は辛うじて動いているが、体重のほとんどは利吉の肩にかかっている。右腕の感覚が遠のいていく。利吉は代わりに左腕で奥方を支え直し、一歩ずつ裏庭に向かった。
 やがて引き戸の影が煙の向こうに見えた。あと五歩──そのとき、頭上が軋んだ。
 考えるよりも先に身体が動く。奥方の頭を自分の胸に抱え込み、背中を天井に向けて屈む。次の瞬間、渡り廊下の梁が焼け落ちた。火を纏った木材が利吉の背と肩を直撃し、衝撃で膝が畳に沈む。着物の背に火が移る熱さは一瞬で、その後は何も感じなくなった。
 腕の中で奥方が息を呑んだ。利吉の背が燃えているのを、至近で見ている。利吉は梁を振り払って立ち上がった。奥方を抱えたまま引き戸に体当たりするようにして開け放ち、裏庭の冷たい空気の中へ二人で転がり出た。
 先に出ていた侍女が悲鳴を上げて駆け寄ってきた。利吉は奥方を侍女の腕に渡し、二人が無事であることを目で確かめた。
 ──間に合った。
 それだけを確かめて、利吉の意識は遠退いた。身体から力が抜け、引き戸の框に肩をぶつけてそのままずるずると膝から崩れ落ちる。右腕が焦げた匂いを放っている。背中には何の感覚もなく、感じない理由は分かっていたがもう考えることもできなかった。
 指先から順に冷たくなっていく身体の中で、視界だけはまだあった。夜空は見えず、月も星もない。それでも煙に覆われた闇の中に一つだけ顔が浮かんだ。──穏やかに笑うあの人の顔。
(若……)
 利吉の意識は、そこで途切れた。




 家人たちが蔵筋に駆けつけた時、全ては終わっていた。
 手前の蔵は帳面棚を中心に焼けたが、漆喰の壁が持ちこたえたため全焼は免れている。奥の蔵は扉際だけが焦げ、中はほぼ無傷だった。蔵筋の広場には若殿と供の男が横たわっていた。若殿は煙を吸って当初は意識がなかったがじきに目覚め、供の男も腕と顔に火傷を負っているが大事はない様子だった。
 利吉は裏庭の引き戸の前で倒れていた。着物は半ば焼け焦げ、右腕と背中に酷い火傷を負い意識不明の状態だった。供の男は後に「誰かが扉を開けてくれた」と語ったが、煙と火傷で朦朧としており、開けた者の顔は見ていないという。倒れ込んだ後、誰かが自分を外に引きずり出して地面に寝かせたことは覚えていたが、その者が蔵の中に戻ったかどうかまでは分からなかった。若殿は意識がなく、何も覚えていなかった。
 利吉が蔵に入り若殿を担ぎ出したと明確に証言できる者は、どこにもいなかった。


***


 伊作が駆けつけたのは寅の刻を回った頃だった。
 火事の報せを聞いて薬箱を掴み、西の空の赤みを目指して走った。土井家の屋敷に近い通りに着くと、火消したちが塀越しに水をかけていた。裏門が開いている。屋敷の者が怪我人を運び出していた。御殿医もいるが、手が回っていない。伊作は駆け寄った。
「医者です。怪我人を診せてください」
 運び出されたのは利吉だった。右腕は赤黒く爛れ、背中にも広い火傷がある。意識はなかったが脈は打っている。まだ──まだ死んでいない。
 伊作は手当てを始めた。火傷の範囲を確かめ、清潔な布で覆い、薬を塗る。
「利吉さん、大丈夫です。命は取らせません」
 伊作は利吉を担ぎ上げようとした。診療所に運べば薬も道具も揃っている。ここでの応急処置だけでは火傷の深さに対応しきれない。
「待ちなさい」
 けれども、背後から声がかかった。振り返ると年嵩の男が立っていた。白髪交じりの小柄な老人で、火事場の混乱の中にあっても背筋がすっと伸びている。屋敷の留守居役だろうと伊作は見当をつけた。
「その者は当家の者です。手当ては御殿医がいたします。お気遣いは無用に願います」
「ですが、この火傷は相当深い様子です。御殿医の先生はいま他の怪我人を──」
「御殿医が診ます」
 家老の声は穏やかだったが、譲る気配がなかった。
「当家のことは当家で処しますゆえ。町方の医者殿にご迷惑をおかけするわけには参りません」
 伊作は利吉の火傷を見た。腕と背中にこれだけの面積の火傷を負った患者を待たせれば、刻一刻と壊死が進む。裏門の向こうでは家人たちが消火に走り回り、怪我人が何人も地面に横たわっている。御殿医の手が足りていないことは一目で分かった。足りていないのに外の医者を断るのは何故だ。何かがおかしい。おかしいが──大名家の留守居役に町医者が食い下がれる道理はなかった。
「……承知いたしました。ですが、せめてこの応急処置だけでも」
「それも結構です。では、これにて」
 家老は利吉の方を一度も見なかった。視線は伊作の顔に据えたまま、利吉の容態には一切触れない。怪我人を目の前にした人間の反応ではなかった。
 伊作が言葉を失っていると、裏庭の方から侍女に支えられた女性が歩いてきた。煤で汚れた夜着の上に上等な羽織を掛けており、足元はおぼつかないが顔つきはしっかりしている。屋敷の奥方だろうか。家老が振り返った。
「奥方様。こちらは危のうございます。どうぞ奥へ──」
「この者が」
 奥方の声は掠れていたが、はっきりとしていた。利吉の傍に歩み寄り、焼け焦げた着物と爛れた右腕を見下ろして痛ましげな顔をする。
「この者が、私を運び出してくれました。背中で梁を受けて……私を庇って」
 家老の表情が僅かに動いた。
「奥方様、それは」
「町のお医者様がいらしているのでしょう。この者をお任せしなさい。御殿医は他の者たちを診るので手一杯のはずです」
 家老は口を開きかけ、閉じた。留守居役がどれほど実務を握っていようと、奥方の意に逆らうことはできない。
「……承知いたしました」
 家老が一礼して下がる、その横顔を伊作は見ていた。従順に引き下がったが、その目が利吉の上を一瞬走る。利吉の容態を心配する目ではない。損傷具合を確かめるような目だ。伊作は浮かんだ疑心を悟られぬよう、奥方に深く頭を下げた。
「お口添えありがとうございます。お預かりいたします。必ず」
「お願いいたします」
 奥方は利吉を見下ろしたまま、小さく頷いた。その目には、煙に巻かれ朦朧とした中でも消えなかった記憶が残っているようだった。


 伊作が利吉を運び出す準備をしていると、板を持った留三郎が走ってきた。利吉を慎重に板に載せ、無言で通りに運び出す。しばらく歩くと、留三郎が低い声で言った。家中に聞かれないよう気を遣ったのだろう。
「さっき揉めてたな。何があった」
「利吉さんをうちに運ぼうとしたら、屋敷の留守居役に止められたんだ。外に出すなと」
「止めた? この火傷を見てか」
「うん。御殿医が診ると言って譲らなかった。御殿医の手が足りていないのは見れば分かるのに」
 留三郎は黙って利吉を見下ろし、それから屋敷の方を一度だけ振り返った。
「──利吉さんを外に出したくなかった、ってことか」
「…………」
 伊作は答えなかった。考えなければならないことは山ほどあったが、今は利吉の命が先だった。


***


 長次は永楽屋の土間で夜明けを迎えた。
 西の空の煙を見て、懐から紙を出す。先程小平太が帰ったばかりだった。夜の間に組み立てておいた情報に、小平太が実際に見たものを書き足していく。出火の時刻。煙の方角。複数箇所から上がった煙の位置関係。どれも瓦版にはできない情報だ。
 武家の屋敷の火事を詳しく書けば筋からの圧がかかるのは明らかで、けれども書けないことと伝えないことは違う。筆を動かしていると、文次郎が裏口から顔を出した。手には麻縄の燃えかすが握られている。
「長次。昨晩も火事だったらしいな」
「……もそ」
「武家屋敷か」
「……もそ」
 長次は立ち上がった。朝のうちに留三郎を呼ぶ。仙蔵にも連絡を取る。伊作のところに怪我人が運ばれているかもしれない。
 全ての断片を集める時が来ていた。

 その日の午前、土井家の江戸屋敷は門を閉ざした。出入りの者は厳しく制限され、火事の詳細は屋敷の外に漏らさないよう家中に箝口令が敷かれた。
 情報統制が始まっていた。