powered by 「arei」

君がため

 春の夜のことだった。桜の季節も終わりに近づき、花びらが風に舞い散る頃。土井は疲れ果てて眠りについていた。忍術学園での教鞭、学園長の思いつき、裏で動く様々な出張忍務。全てが重なり、心身ともに悲鳴を上げていた。
 深い夢の中で、土井は広い野原に立っていた。見渡す限りの草原で、風が優しく吹いている。空は青く澄み渡り、どこか懐かしい景色だった。土井がぼんやりと立っていると、遠くから小さな影が駆けてくるのが見えた。十を超えたくらいの、小さな少年。その姿を見た瞬間、土井の胸は温かくなった。
「お兄ちゃん!」
 少年が声を上げた。利吉だった。土井が山田家に世話になっていた時の、あの小さな利吉。少年は息を切らせながら土井の前まで走ってきて、両手いっぱいの花を差し出した。野の花だった。氷ノ山に咲く、白や黄色や紫の素朴な花々。少年の小さな手には余るほどの量で、それでも一生懸命に抱えている。
「きれいでしょう?」
 利吉が嬉しそうに言った。その笑顔は屈託がなく、ただ純粋に土井に見せたいという気持ちで溢れていた。土井は思わず膝をついて、利吉と目線を合わせた。
「ああ、きれいだね」
 土井が微笑むと、利吉はもっと嬉しそうに笑った。その笑顔が眩しくて土井は目を細めた。利吉は花を土井の前に広げて、一つ一つの花の名前を教えてくれた。土井はそれを聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。あの頃のこの子は、こんなに無邪気だったのか。こんなに素直に喜びを表現していたのか。
 やがて、幼い利吉の姿が霞んでいった。土井は立ち上がって、周りを見渡した。野原は相変わらず広がっていたが、さっきまでいた利吉の姿はどこにもなかった。土井は少し寂しくなって、その場に立ち尽くした。

 すると、また遠くから人影が近づいてくるのが見えた。今度は先ほどよりも背が高い。元服を済ませた頃の少年だろうか。それはやはり利吉だった。十五、六歳の頃の利吉。凛とした表情で、けれどまだどこか少年らしさの残る顔立ち。その利吉が、やはり両手いっぱいの花を持ってやってきた。
「土井先生」
 利吉が呼びかけた。その声は先ほどよりも低く、落ち着いていた。利吉は土井の前に立ち、花を差し出した。今度の花は様々な地域の花々だった。山野草だけでなく、里に咲くような花や、観賞用の花も混じっている。利吉は静かに微笑んで言った。
「美しいですよね」
 その言葉には、先ほどの幼い利吉にはなかった、何か深い意味が込められているように感じられた。土井は花を見つめた。確かに美しかった。けれどそれ以上に、花を持つ利吉の姿が美しかった。凛々しく成長した利吉は、けれども、まだ少年の面影を残している。
「ああ……美しいね」
 土井が答えると、利吉は少し照れたような表情を見せた。その表情が可愛らしく、土井は思わず笑みを浮かべる。利吉は花を一輪ずつ土井に見せながら、それぞれの花について語った。どこで咲いていたか、どんな香りがするか、どんな意味があるか。土井はその話を聞きながら、利吉の成長を感じていた。
 やがて、その利吉の姿もまた霞んでいった。土井は手を伸ばしたが、届かなかった。利吉の姿は消え、またもや土井は一人残された。野原は静かで、風だけが吹いている。土井は深く息をついた。

 三度目の人影が現れた。先程よりも更に背が高く、堂々とした歩みで近づいてくる。その姿を見た瞬間、土井の心臓は小さく跳ねた。利吉だった。土井が見知っている、十八歳の利吉。凛とした顔立ちで、自信に満ちた表情をしている。利吉は土井の前まで来ると立ち止まり、やはり両手いっぱいの花を差し出した。
「あなたに見せたかったので」
 利吉が静かに言った。その声は穏やかで、けれど確かな想いが込められていた。土井は花を見た。今度の花は、これまでで一番美しかった。見事に整えられた花、珍しい花々。それらが丁寧に束ねられていて、誰かに贈るためのものであることが一目でわかる。土井は利吉の顔を見上げた。利吉は微笑んでいた。その笑顔は優しくて、けれどもどこか寂しげだった。
「どうして、いつも持ってきてくれるの」
 土井が思わず尋ねると、利吉は少し笑って両の手の花を土井に近付けた。土井の視界いっぱいに美しい花々が広がり、その向こうに利吉の顔が見える。
「お兄ちゃんの手は一杯のようなので……せめて私がお見せしようかと」
 土井は唇を引き結んだ。そうだ、土井の手はいつも何かで埋まっていた。子供たちを守るために、生徒たちを導くために。土井の手は常に働いていて、何かを掴み、何かを支え、何かを守っていた。その手で花を摘む余裕など土井にはなかった。美しいものを愛でる余裕も、静かに立ち止まる時間も、土井には残っていなかった。
「だから──私が持ってきます」
 利吉が続けた。
「あなたが見られないものを、私が見せます。あなたが手にできないものを、私が届けます。それが私にできることですから」
 土井は何も言えなくなった。利吉はずっとそう思っていたのだろうか。土井のために花を探し、花を摘み、花を届けてくれていたのだろうか。土井が見られない美しいものを、土井に見せるために。
「利吉くん……」
 土井が名前を呼んだ時、利吉の姿が揺らいだ。土井は慌てて手を伸ばしたが、利吉の身体は霞のように薄くなっていった。

 いつの間にか利吉の姿は消え、あとには一輪の花が残された。土井は膝をついてその花を拾い上げた。小さな白い花だった。名前は知らない。けれどもその花からは甘く切ない香りがした。土井はその花を大切に手のひらに乗せ、そっと香りを吸い込んだ。

















さにつらふ両の手満ちし君がため
この手の花を愛しと見せむ

   さにつらふ:赤く照り映え美しいこと。
   「色」「君」「妹」「紅葉」などにかかる。