咲きて見られぬ花の咲く
利吉の恋は、最初から片恋と決まっていたようなものだった。
土井は利吉にいつも兄の顔で接したし、利吉も弟分の枠から出るつもりはなかった。それでも忍術学園に顔を出し、土井の横顔をひと目見るだけでその日は胸が軽くなる。だからと言って想いを口にするつもりもなく──これは忍ぶ恋でいいのだと、利吉はそう思っていた。
学園を訪れていた時、利吉に声を掛ける者があった。
「利吉さん、これ、土井先生に渡してください」
声の主は、上級生のくのたまだった。頬を上気させ、小さな封を胸に抱いている。
「土井先生に?」
「はい。その……お手隙のときにでも」
「君の名前は?」
「誰かから──としていただければ」
くのたまはそう言って文を差し出した。文には差出人が記されていない。おそらく中を読んでもそうなのだろう。けれども学園の中など狭いものだ。人の噂で誰からの文なのかは自然と先生の耳に届くはずだ。
(差出人をあえて書かず、噂で名を届ける、か……)
利吉は、くのたまなりの奥ゆかしい戦術だと内心思いながらも封を受け取った。
夕刻、土井の部屋に立ち寄ると、机の上には書類と、なにやら予算を計算しているらしい算盤がひろがっていた。急がしがる様子を邪魔するのも悪いと思いながらも、利吉は土井に声をかける。
「土井先生、これ、預かりものです」
「私に?」
「ええ。差出人は……まあ、学園の誰かですね」
差出人不明の文に土井は苦笑するような顔をしたが、礼を言ってそれを机の端に置いた。きっと彼にとっては、それほど珍しいことでもないのだろう。
数日後、利吉はふと、あの文のことを思い出した。
中身を読んだ訳ではないが、あれはくノ一の淡い恋を告げる恋文だろう。返事がどうなったかまでは知る由もない。けれどもふと──胸の奥に小さな火が灯った。自分の告げられない想いの欠片も。あのような文であれば、あの人のところに届けることができるのではないか。
くノ一の真似をするのは、簡単な芸当だった。筆致を変え、言葉遣いを変え、紙も焚く香りも若い娘らしいものを選ぶだけ。利吉は紙の前に座り、何度もためらってからようやく筆をとった。先生の健康を気遣い、 「すれ違った折に見上げた空の色が忘れられません」と、あくまで学園の誰かの視点に偽装して綴る。
末尾には、短い歌を添えた。
──しのぶぐさ君影草のおもかげを
我忘れなば誰か知るらむ
差出人の名は書かない。代わりに差出人の欄に小さく花の印を描いた。
***
最初の一通を受け取った日のことを、土井はよく覚えている。
差出人不明の文。不審に思いながら開いてみると、筆致は端正で言葉は慎み深く、それでありながら添えられた歌は燃えるように熱い。にも関わらずその想いを、既に諦めている様子の風情のあるものだった。
(……これは、なかなか)
先日も同じように差出人不明の文をもらったが、それとは別の人物だろう。くのたまのものにしては出来が良い。そうかと言ってくノ一の先生がこのような文を今更寄越すだろうかと、土井は一度は眉をひそめた。けれどもすぐに口元を緩める。差出人が不明なので、返事の書きようがない。教師として教え子からの恋文に応じるわけにはいかないし、名前があれば頭を悩ませるはずのものがそうではない。ある意味気楽な扱いのできるその文は、単純に土井の興に入った。
文の主がどんな人で、どんな目で世界を見ているのか、想像してしまう自分がいた。忍草も君影草も山の花だ。山かげの花の歌に、その花を知る者だろうと胸のどこかが確かに反応する。美しい筆運びは美しい人を思わせて、土井はひそかにもう一通くらい来ないだろうかと考えた。
それから文は月に一度。二通、三通、四通と届いた。
どれも丁寧で、無理に情を迫らず、それでいて土井の日々の小さな所作をどこかで見ている者にしか書けない言葉をさりげなく滲ませてくる。そして、必ず花の話題が添えられていた。
──この前学園の片隅で忘れ草をご覧になっておられたので、その花を羨ましく思いました。
そんな一文を見たとき、土井は思わず背後の気配を探った。誰もいない部屋で、ひとり苦笑する。
(見られていたのか……いや、見られていて困るようなことはしていないが)
不快感は不思議となかった。日常の何気ない仕草を自分を想う誰かが見ていたという事実が、胸の奥をじんわりと温める。
(私も、年を取ったということかな)
いつのまにか次の文がまた来ないかと心のどこかで待っている自分がいて、土井は思わずため息をついた。淡い恋──と言うほどのものですらない。ただ、まだ見ぬ差出人に「会ってみたい」と、ほんの少しだけ思うようになっていた。
利吉は、その温度を知っていた。いつしか文に詠んだ花を土井がぼんやりと眺める姿が見られるようになり、少し離れた場所からそれを見ていたからだ。
その日も学園の庭の片隅で、歌に詠まれた花が風に揺れていた。夏も深まり、山梔子の花の白と忘れ草の赤橙色のコントラストが美しく景色を彩っている。
土井は授業の合間に、教本を脇に抱えたまましばらくその花を見つめている。目に映っているのは花だろうか。それとも、先日届いたであろう文の言葉だろうか。
利吉は近づいて、いつもの調子で声を掛けた。
「先生、どうかなさいましたか?」
「……ああ、利吉くんか」
一瞬、土井は何かを言いかけた。差出人不明の文のことを話そうとしたのかもしれない。けれども、すぐにその表情を引っ込める。
「いや、何でもないよ。次の授業のことを考えていただけだ」
「そうですか」
利吉はそれ以上、何も問わなかった。問えば土井はきっと答える。誰かから届いた差出人の分からない文の話を、少し困ったように、少し嬉しそうに。そしてその柔らかな温度の中に自分の影がないことも利吉には分かっていた。だからそれを聞く勇気はさすがになかった。
土井がもう一度花に目を向け、ふと遠くを見るような顔をする。その横顔だけで、利吉には十分だった。
(あの文を、好ましく思ってくれている)
差出人に会ってみたいと……少しだけでも、思ってくれている。
それだけで、自分の中の告げられない想いの欠片が、確かに届いたような気がした。
もちろん本当は満足などしていない。満足どころか、胸の奥はどうしようもなく軋んでいる。それでも──おのれが偽った顔でしか触れられない場所に土井の心が少しずつ傾いていくのを、自分はじっと見ていることしかできない。
利吉は静かに息を吐き、いつもの調子で言った。
「花、もうすぐ終わってしまいますね」
「ああ。だから、よく見ておこうと思ってね」
「先生にしては、珍しい」
「忘れ草だから……忘れないように」
振り向いた土井は少し面映ゆげに笑った。ふたりの間を涼しい風が通り抜け、風に煽られた山梔子の花びらがひとひら土井の背に触れる。利吉はそれを払おうと一瞬手を伸ばしかけて、やめた。その仕草ひとつ分の距離を、今日もまた保つ。
「では、そろそろ私は失礼します」
「ああ、またおいで」
背を向けて歩き出しながら、利吉はふと、先程の土井の言葉を思い出していた。
──忘れ草だから、忘れないように。
差出人不明の文は、きっとまた届く。そのたびに土井は今日のように少しだけ嬉しそうに眉を和らげるだろう。それを思い浮かべながら、彼に見てもらうこともない恋の花を、利吉はそっと笑いに紛らせた。
註釈
『しのぶぐさ君影草のおもかげを我忘れなば誰か知るらむ』
忍草は忘れ草(ヤブカンゾウ)の別名であり、偲ぶ種(ぐさ)とかけて思い慕う原因となるものを示すこともある言葉。君影草は鈴蘭の別名。どちらも夏の山の花。歌意は『人知れず思い慕う種となるあなたの影を私が忘れてしまったら、この想いを誰が知ることがありましょう』