大江戸転生主従パロ利土 手を離す6
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翌日、利吉は再び蔵に入った。
朝のうちに鍵を開け、昨日の続きから取りかかる。明かり取りの窓から差し込む光は、午前のうちなら奥の棚にも届く。
昨日気になっていた奥の小さな箱の列。同じ村の名が箱に墨書されている。最も手前の箱を持ち上げると思いのほか軽かった。織物や漆器の箱と比べて、明らかに中身が小さい。
蓋を開けると、布に包まれた品が一つ。中から現れたのは──櫛だった。飾り気のない、素朴な造りの木の櫛。歯の一本一本が丁寧に削り出されており、職人の実直な仕事が伝わってくる。次の箱を開けると、それもやはり櫛だった。
利吉は箱を一つずつ開けていった。その次も、その次も、村の櫛は年を追うごとに変わっていった。繊細な彫りが加わり、次第に彫刻が深くなり意匠も複雑になっていく。漆が塗られるようになり、最も新しい櫛には螺鈿の細工まで施されていた。
同じ村の、同じ職人の系譜。父から子へ、子から孫へ。代を重ねるごとに腕を磨き、より美しいものを作り上げていく。その歩みがこの箱の並びにそのまま刻まれている。
利吉は更に奥の箱に手を伸ばした。
最も古い箱だ。木肌は黒ずみ、角が僅かに欠けている。墨書された村名も薄れかけていた。蓋を開けると布の色は褪せて元が何色だったのかも分からない。けれども品は丁寧に包まれていた。
布を開くと、そこに入っていたのは簡素な黄楊の櫛だった。他の古い櫛と同じく飾り気のない造りで、その表面に蛇と稲穂の彫刻が施されている。互いに絡み合うように配された素朴な意匠。蛇は緩やかにうねり、稲穂はその身に沿って穂先を垂れている。線は拙いが一彫り一彫りに込められた丁寧さが伝わってくる。この村の櫛細工の最も初めの意匠なのだろう。後の代で洗練されていく蛇と稲穂の文様の原型がここにあった。
(どこかで……見たような)
利吉の手が止まった。この櫛を、以前どこかで見た気がする。いつ──どこで。思い出せない。利吉は布を持ち上げ、櫛を両手で包むように持った。胸の奥で何かが揺れている。切なさとも懐かしさとも違う、もっと深い場所にある名前のつかない感情。手を伸ばすと指の間からこぼれ落ちて、霧のように散ってしまう。
誰かに──。
そう思った。
この櫛を、誰かに渡そうとしていた。
誰に。なぜ。分からない。けれども掌の中の櫛がそう訴えている気がした。渡したかった。届けたかった。届けられなかった。利吉は自分の感情に戸惑った。献上品の櫛に、こんな想いを抱く理由がない。初めて見る品のはずだ。それなのにこの胸の痛みは何だ。
(気のせいだ。大方どこかの小間物屋で見たことがあるんだろう)
利吉は静かに息を吐いた。櫛を布に包み直し、箱に戻して蓋を閉じる。動作は丁寧だったが指先が僅かに震えた。掌に、黄楊の手触りが残っている。
利吉は台帳に記録を書き込み、筆を置いた。蔵を出て扉を閉め、錠をかける。
外は昼を過ぎた頃だった。陽射しが明るく、蔵の中の薄暗さが嘘のようだ。風が頬を撫でる。利吉はしばらく、蔵の扉を振り返って立っていた。
あの櫛のことが、頭から離れなかった。
***
その夜、利吉はまた夢を見た。
暮れかけた街道を、男が歩いている。旅装束に腰には刀。歩き慣れた足取りで、けれどもどこか急いているようにも見える。
男の懐には何か小さなものが仕舞われていた。時折無意識のように懐に手を当てる。中の品が確かにあることを確かめるように。
男は気づいていた。自分の身体が──以前ほど動かなくなってきていることに。
跳躍の高さが落ちた。走り続けられる距離が縮んだ。刀を振る腕に、僅かな遅れが出るようになった。忍稼業で酷使し続けた身体が少しずつ軋み始めている。けれども忍をやめるわけにはいかなかった。もう少しだけ。あと少しだけ、稼がなければならない。
──先生に、迷惑はかけられない。
その想いが、衰えた体を突き動かしていた。
場面が変わった。
山中の少し開けた場所で、男は囲まれていた。五人か、六人か。闇の中に気配が散り、じりじりと距離を詰めてくる。
隠密の任だった。どこで気取られたのか。だがそんなことはもう考えても仕方がない。
男は刀を抜いた。
一人目の懐に飛び込み、喉を裂く。返す刃で二人目の腕を断つ。三人目が背後から襲いかかり、男は身を捻って躱した。だが──躱しきれなかった。脇腹を浅く斬られる。以前ならあの程度の太刀筋は見切れていた。痛みを耐えて四人目を斬り伏せ、五人目と刃を交えた。
身体が重い。息が上がる。腕が言うことを聞かない。幾度か避けきれず、幾度か斬られた。それでも男は斬った。最後の一人を地に伏せた時、男の身体からも力が抜けた。
倒れ込んだ場所は、満開の桜の木の下だった。
夜の闇の中で、桜の花弁だけが細い月に照らされて仄白く浮かんでいる。風が吹くたびに花びらが散り、男の頬に、肩に、血に濡れた手の甲に降りかかった。
──ここまでか。
男は悟った。
いくつか内腑を傷める傷を負った。立ち上がる力がもう残っていない。血が流れている。例えここから脱したとしても、どのみちこの腹では長くは持つまい。男は仰向けに転がり、桜を見上げた。花の頃には戻ると告げて出てきた人のことをふと思い出して、懐に手を入れて滑らかな木の感触を手繰り寄せた。簡素な黄楊の櫛だ。蛇と稲穂の彫刻の、あの市で買った櫛。
──渡したかった。
胸の奥から、悔いが込み上げた。
形に残るものを、最後まで渡せなかった。いつも忍務ばかりで、彼の傍に忍としてしかいられなかった。あの人の傍に何者でもない自分として在ることを、最後の最後まで自分は許せなかった。
男は櫛を胸に抱いた。桜が散っている。このままなら獣か烏に食い荒らされて跡形も残らず終われる。忍としてはそうあるべきだろうと思ったが、きっとあの人は探すだろう。見つからなければ、きっとずっと探させてしまう。それは申し訳ないと男は思った。
懐から、もう一つ包みを取り出す。毒だった。身体に回れば鳥獣が内腑を喰らうことを忌避するであろう毒。最後の力を振り絞って男はそれを飲み込んだ。最期くらい、忍としてでなく彼に何かを遺したかった。
花びらが降り積もり、男の身体を覆っていく。視界が次第に白く霞んでいく。
──先生。
最後に浮かんだのは、父の顔でも母の顔でもなく、彼が笑っている顔だった。
縁側で、子供たちに囲まれて、穏やかに笑っている。自分がいなくてもあの人はきっと笑っていてくれるだろう。それだけが男にとって救いだった。
──どうか、末長く──。
男の意識は、そこで途切れた。
利吉は目を覚ました。
暗い天井が見えて、自分の部屋だと一拍遅れて理解する。江戸屋敷の、いつもの部屋だ。息が荒い。全身に汗をかいている。心の臓が、肋の内側を叩くように脈打っていた。
(──夢か……)
夢だ。ただの夢だ。そう自分に言い聞かせるのに、身体が震えていた。右の掌が熱い。まるで今まで何かを握りしめていたかのように熱かった。
利吉は掌を見つめた。何もない。夢の中で握っていたものが現にあるはずがないのは当たり前なのに、夢の中で櫛を握ったあの感触が消えない。滑らかな木の温もり。掌にぴたりと収まる、あの重さ。
(蔵にあった櫛と……同じだった)
昼間、あの古い櫛を手に取った時の感覚が夢の中の感覚と重なった。利吉は布団の上に座ったまま、しばらく動くこともできずに息を整えていた。
いつもの夢だった。繰り返し場面を変えて見るいつもの夢。夢の中の男は自分だった。夢で見た男の最期の想いが、利吉の胸の奥にこびりついて離れない。
──先生。
そう呼んで男が最期に思い浮かべたひとは、若と同じ顔をしていた。
***
朝、伊作は診療所を開ける前に一つ寄り道をした。
先日言っていた通り、土井先生の様子伺いに行こうと思ったのだ。
『土井先生』の寺子屋は本所の裏通りにある。表通りから一本入った静かな路地で、両脇を長屋に挟まれた奥まった場所だ。あの先生はどうも浮世離れしたところがある。近所付き合いもあまりしていないようだから噂が届いていないかもしれない。永楽屋で皆に言ったこともあり、火事の多い地域が近いことを伝えておきたかった。
路地に入って程なく、見覚えのある建物が見えた。小さな寺の境内に隣接した木造の屋敷で、入口に「寺子屋」と書かれた看板が下がっている。元々はこの寺の住職が近隣の子供たちのために始めた寺子屋だが、寺が立ち行かなくなった際に土井が出資する代わりに時折教鞭を取るようになったと聞いている。以前は寺も別の場所にあったそうだが、土井が管理するこの屋敷に移り住んだのだと言う。そのためか、小さな寺子屋にしてはずいぶんしっかりした造りの建物だった。
格子戸は閉まっていた。声をかけても返事がない。伊作の声を聞き付けたらしく、寺から墨染めの衣を着た住職が顔を出した。以前伊作が土井に薬を届けに来た時にも、この僧侶とは顔を合わせている。
「ああ、お医者様ですな。以前もいらしたことがある」
「はい。土井先生はいらっしゃいますか」
「先生は数日お出かけですよ。商いの用だとか」
「そうですか。いつ頃お戻りでしょう」
「さて、はっきりとは聞いておりませんが。何か急な御用向きでしょうか」
「いえ、急ぎではないのですが……火事が増えているのでお気をつけくださいと伝えたくて」
「それはご丁寧に。先生が戻りましたら伝えておきましょう」
「ありがとうございます」
伊作は礼を言って引き返しかけ、ふと足を止めた。屋敷の脇に細い通路があり、その奥に小さな庭が見えた。手入れの行き届いた植木と打ち水をした石畳。前に来た時も同じことを思ったが、この建物は造りが良すぎる。柱に使われている材は上等で、格子の意匠もどこか武家屋敷の造作に似ている。この屋敷について土井は『ご縁があってお借りしている』と言っていたが、誰の持ち物かは分からなかった。
(思えば不思議な人だ)
伊作は路地を歩きながら考えた。土井は住職には商家の四男と名乗っているらしいが、医者である伊作のところにはありとあらゆる噂話が入ってくる。噂によると商家の四男というのは世を忍ぶ仮の姿で、実のところは西の藩のご家中らしい。なぜ江戸屋敷に勤めるご家中が身分を偽って江戸で寺子屋に出資しているのか、詳しいことは誰も知らない。土井がどこに住んでいるか、彼は聞かれても笑って曖昧にするだけだったし、近所の人も彼の私生活についてはほとんど知らないらしい。そもそも土井の下の名すらも教えてもらっていないのだ。穏やかで教養があり子供たちに慕われているが、土井が時おり見せる眼差しにはどこか底の知れないものが宿っていた。何かを隠しているというよりも、多くを抱えて生きている人の静けさのような。
とはいえ伊作も深く詮索するつもりはなかった。誰にでも人に言えないことの一つや二つはある。伊作は医者だ。患者の事情には踏み込まず、目の前の傷だけを診る。頼まれてもいない他人の内側を覗き込むものではない。留三郎のようなぐいと手を差し伸べる人情味は自分にはないな、と伊作は少々苦笑した。
朝の光の中を歩きながら、伊作は診療所へ急いだ。今日もまた火傷の患者が来るだろう。それを診るのが自分の使命だ。
伊作の診療所にまた火傷の患者が運ばれてきたのは、その日の昼過ぎのことだった。
日本橋の裏通りで前夜に起きた小火は消し止められたが、その近くに住む老人が近所の者に担がれてやってきた。煙を吸って倒れ、腕に軽い火傷を負ったという。伊作の診療所は最寄りというわけではなかったが、今は江戸じゅうの医者が火傷の手当てに追われている。かかりつけの医者の手が空かないのだという。
伊作自身、ここ数日は診療所を離れられずにいた。本音を言えば火事場へ出向いて怪我人を診たいのだが、ひっきりなしに運ばれてくる患者を置いて出るわけにもいかない。
「先生、すまないねえ。こんなに混んでいるのに」
「いいえ。さあ、腕を見せてください」
伊作は穏やかに微笑んで老人の袖をそっと捲った。火傷は浅く、薬を塗って清潔な布で巻けば数日で治るだろう。伊作は手当てをしながらさりげなく尋ねた。
「おじいさん、火が出た時のことを覚えていますか」
「ああ、覚えてるとも。夜中に目が覚めてな、表が騒がしいから見に出たら、もう煙が上がっていた」
「においはしましたか。何かいつもと違うにおいとか」
老人は少し考え込むように目を細めた。
「……におい、ねえ」
「無理にとは言いません。覚えていれば、で構いませんよ」
「いや、それがな」
老人は片方の鼻を指で押さえるような仕草をした。
「油臭かったのは間違いない。だがそれだけじゃなかったな」
「それだけじゃない?」
「なんつうかな……甘い匂いが混じっていた。油の臭さの奥にふわりと。焦げた匂いが広がる前にほんの一瞬だけ鼻に届いたんだ。ああこういう匂いは知ってるな……と思ったんだが、何だったか思い出せないねえ」
伊作の手が一瞬止まる。
──油だけではない、甘い匂い。先日聞いた証言では『べったりした油の臭い』だった。行灯の油の臭いとは違う、そのべったりとした感覚が甘さ由来のものだとしたら。
「おじいさん、その甘い匂いは花のようでしたか。それとも、もっと……お香のような?」
「ああ、そうだ。お香だ」
老人は膝を打った。
「寺で焚いてるような、あの匂い。あれに似ていた。いや、寺のよりはもう少し上等な感じだったかな。お武家の奥方が焚くような」
「……なるほど」
伊作は帳面に書き留めた。油に加えて、お香に似た上等な甘い香り。
患者を送り出してから帳面を広げ、先日からの証言を並べ直す。黒い影、油の臭い、そして今日加わった甘い匂い。情報が増えるにつれ犯人の輪郭がおぼろげに浮かんでくる。油を使って火を点け、影のように闇を動き、上等な香の匂いを纏っている者。
(ただの町人ではないのかもしれないな……)
この情報は留三郎たちに伝えなくてはならない。本来なら自分の足で持っていきたいところだが、夕方にもまた患者が来る約束があるので今日は出られない。伊作は帳面を閉じ、溜め息を一つ吐いて薬棚の整理に戻った。
***
同じ日の午後、永楽屋の帳場に中在家長次が音もなく現れた。
幼なじみ六人の中で最も寡黙なこの男は、町の情報を集めて回り、瓦版の版元に出入りして記事を書く仕事をしている。表向きは瓦版を売り歩く『読み売り』だが、その情報網は江戸の隅々にまで張り巡らされていた。
背が高く痩身で顔の左側に古傷があり、表情の変化に乏しいため初対面の者はたいてい薄気味悪さを覚える。けれども幼なじみたちはこの男が寡黙ではあるものの誰よりも信頼に足る人間であることを知っていた。
長次は帳場の文次郎の前に一枚の紙を置いた。
「……もそ」
それだけ言って腕を組む。
「何だこれは」
文次郎が紙を取り上げる。見ると出火の地点と時刻が箇条書きで記されていた。走り書きだが日付と場所は正確で、この一月に江戸で起きた火事を長次が自分の足で裏取りして纏めたものと知れる。
「お前がまとめたのか?」
「……もそ」
「瓦版に出すつもりか」
「……そうだ」
長次の細い目が文次郎をじっと見つめた。文次郎は一瞬黙ってから紙に目を落とした。出火の地点を追うとある傾向が見えてくる。自身番の近く、奉行所の管轄が重なる場所、番所の目が届く範囲。
「……奉行所狙いだと書くつもりだな」
「……」
長次は小さく頷いた。
「お前のところの瓦版でそう煽れば、町中がそう思い込む」
「……」
文次郎は眉間に皺を寄せた。この男はただ事実を羅列しに来たのではない。小平太から話を聞いたのだろう。犯人を泳がせるために世間の目を「奉行所狙い」に固定し、本来の狙いが見えるのを待つ。そのための瓦版だ。
「……まあ嘘は書かないんだろうが」
「もそ」
長次は否定しなかった。嘘は書かない。だが事実の並べ方で印象を操作することはできる。瓦版屋とはそういう商売だ。
「小平太の入れ知恵か?」
長次は首を微かに傾けた。肯定とも否定ともつかない仕草だったが、文次郎にはそれで十分だった。
「まあいい。留三郎にも見せてやれ。あいつが現場で拾った話と突き合わせればもう少し絵が見えるかもしれん」
「……もそ」
長次は紙を回収し、来た時と同じように音もなく帳場を出ていった。
文次郎は腕を組んで先刻見た紙面の内容を反芻した。出火地点の偏り、時刻の規則性、自身番との距離。それらの情報が頭の中で地図の上に並んでいく。留三郎が先日持ってきた燃えかす──油の染みた板片と縄の切れ端──は、やはり付け火の証拠と見て間違いなかったが、まだ他に見せたい先が残っていた。
「……何かが引っかかるんだがな」
文次郎は独り言のように呟いた。長次の一覧と留三郎の燃えかす。二つを並べれば何かが見えそうな気配はあるのだが、まだ形にはならなかった。
***
その日の夕刻。留三郎は日本橋の火事場に立っていた。昼間に鎮火した現場の検分で、小火のため被害は小さかったが留三郎は前回と同じように焼け跡を丹念に見て回った。
焼けた建物は通りに面した小さな物置で、人の住む長屋ではなく商家の裏手にある納屋のような造りだった。火は物置の中だけで収まっており、隣の建物には延焼していない。留三郎は物置の入口を覗き込んだ。
床が焦げて壁の下半分が黒く煤けているが、上半分と天井はほとんど無傷だった。火は低い位置で燃えたまま上には回らなかったのだろう。
「……入口だけだな」
火の起点は入口の近くにあり奥には届いていない。留三郎はしゃがみ込んで焦げた床を調べた。油の痕は前回と同様に壁際に沿って帯状に続いている。だがそれとは別に、床の一角に焦げた紙の断片があった。油を染み込ませた紙を丸めて着火材にしたらしく、大半は燃え尽きていたが端の部分がわずかに残っている。
留三郎はそれを慎重に拾い上げた。油紙の質は粗く、どこの店でも手に入るありふれた品だ。特徴がないということは足がつきにくいということでもあり、犯人がそこまで考えて選んでいるのだとすれば手慣れている。
次に扉の框の下に目を留めた。小さな木の欠片が落ちている。焼け焦げてはいるが円筒形の形状をとどめており、油を入れた容器を塞ぐための木栓の一部と見てよさそうだった。容器から抜け落ちたのか、あるいは意図的に残されたのか。
留三郎は油紙と木栓の欠片を布に包んで懐に仕舞った。前回の板片と縄に加えて四種の燃えかすが手元に揃ったことになる。
立ち上がって物置の全体を改めて見渡した。扉際に集中した焼け跡、低い位置から上に回らなかった火勢、壁際に沿う油の帯、着火材の油紙、容器の木栓。手口は前回と同一と見てまず間違いないが、少しずつ違っている。やはりわざと小さく抑えているように見える。
だがなんのために。明らかに何らかの意図を感じるのに動機が見えない。物置を燃やして何になる。中の品を狙ったのでもなく人を殺そうとしたのでもなく、ただ扉際を──。
その時、背後に足音がして留三郎は振り返った。見ると長次が立っていた。音もなく忍び寄る、無口な男だ。
「……もそ」
差し出されたのは一枚の刷り物だ。まだ刷りたてらしく墨の匂いが鼻に届いた。瓦版だ。江戸で続く不審な小火について、出火地点が奉行所や自身番の近辺に集中していることを指摘し、「奉行所を狙った威嚇か」という論調で纏められている。町の人々の不安を煽るでもなく、かといって鎮めるでもなく、絶妙な匙加減で世間の関心を「奉行所狙い」に向ける仕上がりだった。
「お前が書いたのか」
「……もそ」
「これを読んだ奴は、犯人が奉行所に恨みがあると思うだろうな」
「……」
長次は無言で留三郎を見つめた。その沈黙の意味は長年の付き合いで分かる。何も言わずに見つめてくる時は「お前なら分かるだろう」と言っているのだ。
「目くらましか。犯人が安心して動けるように」
長次は僅かに顎を引いた。
「小平太と示し合わせたな」
「……もそ」
肯定だ。留三郎は瓦版を折り畳んで懐に入れた。
「こっちも新しい証拠が出た。犯人が油断している間に、尻尾を掴んで追い詰めよう」
布に包んだ油紙と木栓を見せると長次の細い目が僅かに動き、欠片をじっと見てから留三郎の顔に視線を戻した。
「俺はこれを文次郎のところに持っていく。お前も引き続き情報を集めてくれ」
長次は頷いて踵を返した。留三郎は懐の燃えかすを確かめ、文次郎の店へと向かった。