埋み火(利⇐土から始まりそうなつどい)
月のない夜だった。夜霧が立ち込める中、孤児院の門前に一人の男が立っていた。手には小さな包みを抱き、その包みからは時折、か細い鳴き声が聞こえてくる。
土井半助は縁側でその姿を見つけた時、一瞬自分の目を疑った。数年ぶりに見る利吉の姿は、記憶にある凛々しい青年のそれとはまるで違っていた。頬はこけ、目には深い影が宿り、背中には重い何かを背負っているかのような疲労の色が滲んでいる。
「利吉くん……?」
土井の声に、利吉はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、土井は息を呑んだ。利吉の瞳に宿るのは、かつて見たことのない絶望と、そして何かに対する深い決意だった。
「……先生」
利吉の声は掠れていた。数年ぶりの再会にも関わらず、声は深く沈んで、そこには昔のような明るさのかけらもない。代わりにあるのは深い疲労と、何かを必死に堪えているような緊張だった。
「どうしたんだ、こんな夜遅くに……」
土井が近付こうとした時、利吉の腕の中の包みから再び小さな泣き声が上がった。土井の動きが止まる。
「赤子……?」
「……はい……」
利吉は短く答えると、包みの中の赤子を少し持ち上げた。まだ生まれて一年にもならないであろうその小さな命は、利吉の腕の中で安らかな寝息を立てている。
「先生……この子を、ここで預かってもらえないでしょうか」
利吉の言葉に、土井は静かに眉を寄せた。利吉の様子、そして赤子の存在。風の噂で聞いていた利吉の荒れた生活が、土井の脳裏をよぎる。
「……まず中に入りなさい。話はそれからでいいよ」
囲炉裏の温かな光の中で、利吉はじっと火を見つめていた。赤子は土井が用意した小さな布団の上で、穏やかに眠っている。土井はただならぬ様子の利吉にそれでも優しく声をかけた。
「水を持ってこようか」
「いえ……その前に。聞いてほしいことがあります」
利吉は深く頭を下げた。その姿は何かを詫びるかのようで、かつての誇り高い忍のものではなかった。罪を背負い続けた男の姿。ただ救いを求めるような背中だった。
「私は……怨みを買いました。仕事で」
土井の背筋が強張る。怨みなど、忍稼業をしていれば当たり前に買うものだ。それをあえて口にすると言うことは──。
「どれほどの怨み?」
「妻を殺されました」
その言葉は、落ち葉を踏み砕くように乾いた音で響いた。土井は言葉を失った。利吉の細くなった肩が、小さく震える。
「……妻、だって?」
「はい。……雇い主に嵌められた時のことは先生もご存知でしょう。あの後、私は色々な仕事を請け負いました。汚い仕事も、人の道に外れるような仕事も。彼女とは、最初は忍務の中で出会って。気持ちなんて……ありませんでした」
利吉は唇を噛んだ。
「関係して、子ができて。わかった時は、迷惑でしかなかった。でも──」
利吉の指が、赤子の布越しにそっと触れた。
「……彼女は、私を責めもせず、怒りもせず、ただ、子を産むと言って」
土井は黙って聞いていた。利吉の声が震え、ところどころ途切れる。
「子が生まれて、一度、私は逃げようとしました。でも彼女は引き止めずにただ笑って……『あなたがもう来なくても、この子は私が育てます』と」
「……利吉くん」
「それが、心に残って」
利吉は一度言葉を切り、眠る赤子を見つめた。その表情に、初めて優しさが宿る。
「彼女は強く優しい人でした。どれほど辛い状況でも人を恨まず、私のようなどうしようもない男を支えてくれた。いつの間にか、私は」
土井は利吉の表情の中、憎悪と絶望に支配されていた顔に、一瞬だけ暖かな光が差したのを見た。なにか遠い、幻を追うような表情。
「……祝言を挙げたのは、三月前のことでした。ささやかな式でしたが……幸せでした」
利吉の声が震える。土井は何も言わず、ただ静かに聞いていた。
「それから一月後に、彼女は殺されました。私への復讐として。私が仕事に出ている間に家に忍び込まれて……戻った時には、この子が殺される寸前でした」
利吉の拳が固く握られた。土井はその怒りと悲しみが混じり合った感情を痛いほど感じ取った。利吉は淡々と続ける。
「相手は始末しました。でも、きっとまた誰かが狙ってくる。私と一緒にいる限り、この子は危険なんです」
土井は利吉の言葉を受け止めながら、眠る赤子を見つめた。小さな命が穏やかな寝息を立てている。利吉の血を引くこの子は、父親の複雑な運命を背負うには余りにも無垢だった。
「利吉くん……」
「この子はみなしごとして育てて下さい。私の子だとは誰にも知らせず、ただの孤児として。そうすれば……先生のもとであれば、この子は普通の人生を送れる」
利吉の願いには、父親としての愛情が確かにあった。自分の存在が子を危険に晒すと知っていて、この子の幸せを願って彼はここへ来たのだ。土井は視線を赤子から利吉に移して言った。
「……分かった。この子は私が預からせてもらう」
土井の返事に、利吉の肩の力が抜けた。安堵の表情を浮かべる一方で、深い悲しみも同時に顔に現れる。
「ありがとうございます……先生」
「でも、約束してほしい。一月か二月に一度くらいはここに来ることを」
利吉は困惑したような表情を見せた。
「それは……ここの子供たちも危険に晒す可能性が」
「君はそんなに忍として三流になったの?」
土井の口調は柔らかだったが、その言葉には利吉への確かな信頼が込められていた。利吉ははっとした表情を見せ、やがて小さく頷いた。
「──分かりました」
利吉は立ち上がると、眠る赤子の前にひざまずいた。そっと小さな頬に触れ、静かに囁く。
「お前の母さんは、強い人だった。お前にも、その強さが宿ることを祈っている」
土井は利吉の横顔を見つめていた。その表情には、父親としての愛情と、子を手放さねばならない悲しみ、そして妻を失った痛みが入り混じっていた。
「利吉くん、君はどうするつもりなんだ」
「まだ、復讐を狙う者がいるかもしれません。私は……しばらく遠く離れて、もう少し慎重に仕事を選んでいこうと思います」
利吉は一度言葉を切り、土井の方を向いた。その瞳には、新しい決意が宿っていた。
「先生、あの頃のように……少しでも己を誇れるような仕事をしていきたいんです」
土井は微笑んだ。それは昔、山田家で過ごした日々を思い出させる、懐かしい笑顔だった。
「そうか。それなら、いつでもここに帰っておいで。君の居場所は、ここに置いておくから」
利吉は深く頭を下げた。そして最後にもう一度、眠る息子を見つめると、静かに孤児院を後にした。
夜霧の中に消えていく利吉の後ろ姿を見送った土井は、そっと赤子を抱き上げた。小さな身体が腕の中で温かく感じられる。
「よし、よし……いい子だね」
土井は優しく赤子をあやしながら、そっと囁いた。囲炉裏のあかりに照らされた小さな顔は、確かに利吉の面影を宿している。
「……利吉くんに似てる」
土井は細く息を吐いた。そして誰にも聞かれないよう、声を殺して静かに泣いた。利吉の痛み、この小さな命の運命、そして自分の心に宿る複雑な感情に包まれながら。