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大江戸転生主従利土パロ 手を離す8


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縦書き
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 視察の折り返し日、土井は山あいの村に入った。
 小さな集落内を、村の庄屋に案内されて田畑を見て回る。今年の作柄と年貢の見通しについて話を聞くと、土は痩せているが水には恵まれており悪くない見通しだという。村人は勤勉で、庄屋の治めぶりも悪くない。
 帰り道で庄屋と別れ、街道に出たところで、前方から笛と太鼓の音が聞こえてきた。提灯を掲げた男が先頭を歩き、横笛を吹く老人が続く。その後ろに角隠しの花嫁が俯いて歩いている。花嫁行列だ。
 花嫁の傍には年嵩の女が付き添い、後方には両家の親族らしい者たちが続いた。行列の脇を子供たちが走り回り、道端に出てきた村人たちが手を振っている。
 この村の者ならば今日が若君の視察であることを知っている。婚礼があるとすれば話に上がったはずだが、庄屋が話題に出さなかったということはこの村の婚儀ではないのだろう。こんなところで父の威光を笠に着る必要はない。供の者に目配せをし、土井は道の端に寄って行列をやり過ごした。
 花嫁が目の前を通り過ぎる時、角隠しの下から微かに頬が見えた。まだ若く、十六か七くらいの娘だ。後ろからついてきた親族らしい少女たちが、あねさはくっつき合いなのだと囁き合う。くっつき合い──想う相手の元に嫁ぐ。花嫁の頬が赤く染まっていたのは、化粧のせいばかりではないのだろう。
(幸せそうだ)
 行列が遠ざかっていく。笛の音が次第に小さくなり、子供たちの歓声も薄れていった。
 土井は道の端に立ったまま、しばらく動けなかった。



 添い遂げたい相手など、百年も前から決まっていた。
 前世で利吉と出会い、共に過ごし、いずれこの戦が終わったら同じ碌の下で暮らそうと、いい歳をしてそんな他愛もない子供のような約束をした。それでも、あの時の自分には迷いがなかった。ずっと共に在りたいと。利吉もそれを望んでくれているのだと、多くを語らずともそう信じていた。
 けれども約束が果たされることはなかった。利吉は死んだ。去り行く春と共に、花が散り落ちるかのように手のひらからこぼれ落ちて、あの日から土井の時間はずっとどこかが止まったままだ。
 自分は孤児院の子供たちを育て、やがて歳を取り、穏やかに死んだ。傍から見れば十分に幸福な後半生だっただろう。けれども土井の胸の中にはずっと一人の影があった。朝目覚めるたびに隣にいないことを思い出し、夜眠る前にあの笑顔を思い出した。それを何千日と繰り返して、やがて自分が悲しんでいるのか、単に懐かしんでいるのか、ただ習慣としてあの男のことを考えているだけなのか、それすらも分からなくなっていった。
 死ぬ時は静かだった。熱もなく苦しみもなく、ただ身体が動かなくなっていくのを布団の中で感じていた。子供たちが泣いているのが遠くに聞こえた。彼の名を、譫言のように呟いたかどうかは覚えていない。
 ──そして気がつけば、自分は再び生まれていた。
 前世の記憶を丸ごと抱えて。

(なぜ私は……生まれ変わったのだろう)
 その問いは幾度となく自分に向けたものだった。答えは出ない。出ないまま二十八年が過ぎた。元服を間近に控えたある日、七つになったばかりの小さな利吉が屋敷に上がってきた日のことを土井は鮮明に覚えている。同じ顔。同じ目。利吉は前世の記憶などないくせにひどく澄んだ目で、父の隣で土井を見上げて「山田利吉と申します」と誇らしげに名乗った。
 あの瞬間、巡り逢えたと思ったのだ。やっと出逢えた──と。
 覚えていなくてもいいと思っていた。出逢えただけでも奇跡のようなものなのだから、それ以上を望んではいけない。そう自分に言い聞かせてきた。けれどもそれが欺瞞だということは、土井自身が一番よく分かっていた。
 利吉と再び交歓できる歓びの裏側には、常に冷たく昏いものがべったりと張りついていた。自分は二十年をかけて利吉を育て、傍に置き、護衛として仕えさせた。その全ての時間の底に、彼への想いを手放せないまま百年を越えてきた執着がある。
 利吉はそれを知らない。土井が本当は何者で、なぜ自分を傍に置こうとするのか、彼には何一つ分からない。分からないまま仕え、分からないままに確かに慕ってくれている。その親わしさが前世の残響なのか今生のものなのか、それすらも土井には判断がつかない。
 気づけば花嫁行列の笛の音は、もう聞こえなくなっていた。
 あの花嫁は今夜から新しい家で暮らし始める。隣にいる人間を選び、選ばれ、それを周囲に祝福される。単純で、真っ当で、生きている者同士の営みだ。それに引き換え、自分はどうだろうか。
 百年も昔に死んだ男の記憶を抱えたまま、その男の生まれ変わりを傍に置き、今生でも同じ想いを募らせている。前世の自分が手放せなかったものを、今の自分もまた手放せずにいる。
(まるで、幽鬼だな)
 土井は思った。自分は半分、死者なのだ。前世で死にきれなかった想いが魂ごと今生に流れ込んでいる。生きている者の顔をして、死者の想いで利吉を縛っている。
 ならば──。
 なぜ生まれ変わったのかという問いに、一つだけ筋の通る答えがある。
(今度こそ……きちんと手放すためなのかもしれないな)
 あの時できなかったことを、やり直すために。利吉を失った後も続く人生を、今度は執着なく生きるために。百年前に止まった時間を、ようやく動かすために。
 出逢うために生まれ変わったのではない。別れるために生まれ変わったのだと──そう考えれば、この胸の軋みすらもそれでいいのだと思えた。利吉との距離を置こうとしている今の自分は、正しい方角を向いている。母と兄に諫められたことも、利吉に縁談を勧めさせたことも、視察に連れてこなかったことも。全ては手放すための段取りだ。
 ──そのはずだ。
 街道の先に村の屋根が見える。夕日が山の端にかかり始めていた。明日にはもう一つ村を回り、明後日には江戸に戻る。戻れば利吉に会う。会ってしまえば、きっとまたこの胸は痛むのだろう。
 懐の中に櫛がある。視察の帰りに買った、蛇と稲穂の螺鈿の櫛。手放すために生まれ変わったのなら、なぜこんなものを買ったのか。
(……馬鹿だな、私は)
 夕風が街道を吹き抜けた。花嫁行列を見送った後の道には、踏まれた野辺の花が散らばっていた。



***



 永楽屋の奥座敷に幼馴染たちが揃うのは久しぶりだった。
 留三郎と伊作、文次郎に加えて、今日は立花仙蔵が顔を出している。歌舞伎の千両役者にして六人の寺子屋仲間の中でもひときわ華のある男だ。長い黒髪を高い位置で結い、涼しげな切れ長の目元には舞台を離れてもなお人目を引く色気がある。着流しの着こなしも隙がなく、永楽屋の薄暗い奥座敷にいてさえ座った位置だけが明るく見えた。
「珍しいな、仙蔵が来るのは」
 留三郎が茶を啜りながら言った。長次はまだ来ていない。小平太も今夜は詰めがあるらしく、後から合流するかもしれないと文次郎が言っていた。
「まあな。だが芝居が跳ねた日に旧友の顔を見に来るくらい、罰は当たるまい」
 仙蔵は扇を開いて口元を隠しながら答えた。とはいえその目は笑っていない。今日の芝居が流れたのは芝居小屋の近くで付け火騒ぎがあったせいだ。放火の話を聞きに来たのだということは、この場にいる全員が分かっていた。
「すまんな、待たせた。これを見てほしくて集まってもらったんだ」
 文次郎が帳場から出てきて、持ってきた大きな紙を畳に広げた。見ればそれは江戸の町の略図で、火事の起きた場所に墨で丸が打ってあるようだ。以前長次が持ち込んだ出火地点の一覧に、その後の火事を書き足したものだった。
「ここまでは前に話した通りだ。自身番の近く、奉行所の管轄が重なる場所に集中しているな」
 文次郎が指で地図をなぞりながら言う。
「だが、直近の二件は違う」
 新しく加わった丸は二つ。一つは深川、もう一つは四谷で、どちらも奉行所からは離れている。
「確かに……奉行所狙いだとしたら、離れた場所で火を出す理由が分からんな」
 留三郎が地図に顔を寄せて言った。
「ああ。離れた場所で出すことに意味があるのか──それとも警戒が増して奉行所近辺では動きにくくなったから場所を変えたのか」
 文次郎が眉間に皺を寄せて言うのに、留三郎が地図の丸を一つずつ見て呟く。
「どちらにしても、長次の瓦版で作った『奉行所狙い』の空気も、このままだと持たんな」
 新たに起こった付け火の場所はばらばらだが、留三郎は別のことが気にかかっていた。火事場で見てきた焼け跡の記憶と地図の上の点が、頭の中で重なっていく。
「……文次郎、この地図にもう少し書き足していいか」
「何をだ」
「焼けた建物の種類だ」
 留三郎は文次郎の筆を借りて、丸の横に小さく文字を書き添えていった。長屋、町家、物置、納屋、──蔵。
「場所には規則性がないが、建物はどうだ。最初の数件は長屋や町家だった。次に物置と納屋が入ってくる。直近は蔵だ。それと、どの現場でも焼かれているのは扉際か壁際──建物の出入りに関わる部分だけだ」
「お前、現場を見てそこまで分かるのか?」
 文次郎が少し驚いた顔をするのに、留三郎は筆の先で地図を指しながら言った。
「誰が建ててると思ってやがる。江戸の街のことなら俺たちが一番見てる」
 留三郎は当然のように言った。鳶は家を建て、火事場では火消しとして家を壊す。木の組み方、壁の塗り方、扉の造り。正常な状態を知っているからこそ、異常がより目に入るのだ。
「長屋の壁際を焼くのと、蔵の扉際を焼くのでは意味が違う。長屋は練習、蔵が本番だとしたら──犯人は蔵を狙っている」
「蔵を……?」
 二人のやり取りに、伊作が首を傾げた。
「ああ。先日の納め蔵を見た時に分かったんだが、あの火事は隣の物置から蔵に火が移ったように見せかけてあった。実際には蔵の扉際に直接油を引いた跡がある。物置の火は目くらましだ」
「……つまり、蔵を狙ったことを隠しているのか」
 文次郎の声が低くなった。
「そうだ。だが、あの蔵を本気で全焼させる気なら扉際に油を引いた程度じゃ足りん。犯人もそれは分かっているはずだ。もし扉を焼くのが目的だとすると、狙いは蔵を灰にすることじゃなく、火事場の混乱だろう。火事場泥棒に紛れて中身を持ち出すか、焼けたことにして中身の紛失を誤魔化すか」
「金目のものが目的か、もしくは証拠隠滅か、ってことか」
「まだ断定はできない。だが、そういう手口を試しているとしたら──次は、もっと大きな蔵が来る」
「犯人はどういう輩なんだろうな……」
 文次郎の呟きに、伊作が帳面を開いた。
「そう言えば、こちらの方も少し進んだよ」
 全員の視線が集まり、伊作は帳面を指差して続ける。
「火傷の患者からの証言を並べると、毎回、油と甘い匂いがセットで出てくる。表現はばらばらだけど、共通しているのは『お香のような』『上等な』『焚くもの』という印象だ。それから直近の証言では『あまり嗅いだことのない匂い』とも言っていた」
「嗅いだことがない?」
 留三郎が眉を上げた。
「馴染みのある匂いではないらしいよ。出回っている調香──線香や仏壇の香とは違う系統のものみたいだ」
 伊作は帳面を持ち上げ、頁を捲った。
「それで香の原料について少し調べてみたんだけど、蔵で言えばお香に使う原料で防虫にも使われるものがある。樟脳、白檀、丁子あたりだ。特に樟脳は蔵や箪笥の防虫に広く使われている」
「樟脳?」
 留三郎が声を上げた。
「蔵の防虫香の匂いってことか? 蔵の話と繋がるのか」
「けど、さっきも言ったように樟脳はよく使われる防虫香だ。これだけだと馴染みがない匂いと言うと違和感がある。可能性があるとすると白檀なんかの高級な香の配合だ。白檀や丁子の調合は地方によって配合が違うから、江戸っ子が嗅ぎ慣れない匂いだとすれば、他所の土地の調合かもしれない」
 伊作の言葉に、留三郎が目を細めた。
「他所の土地……江戸の人間じゃないかもしれないってことか」
「断言はできない。もしそうだとしても、わざわざ香りを残す理由までは分からないし」
「……町人の蔵にも防虫香は入れるが、白檀や丁子を混ぜるのは上等な品だ。商家か武家かの蔵に出入りできる人間、という線が強まるな」
 文次郎が腕を組んで言うのに、それまで黙っていた仙蔵が扇を動かす手を止めた。本当に一瞬のことだ。切れ長の目が僅かに見開かれ、すぐに伏せられる。けれども扇を畳む指先に力が入ったのを文次郎は見逃さなかった。自分を見る視線に気付き、仙蔵は扇子の親骨をとんと手のひらに当てた。
「──武家の蔵か。贔屓筋にも蔵持ちは多いが……最近は変わった話は聞いていないな」
 仙蔵の声は平静だった。けれどもその平静さが、文次郎には少し引っかかった。この男は何も知らない時は『つまらん話だな』と切り捨てる。知っているからこそ、こうして穏やかに流す癖がある。
「……お前、何か心当たりがあるんじゃないか」
「ないさ。あれば言っている」
 仙蔵は茶を一口含んで、話題を変えた。
「それより文次郎、燃えかすの鑑定はどうなったんだ」
 文次郎は仙蔵の顔をもう一度見たが、それ以上は追わなかった。仙蔵が黙る時は黙るだけの理由がある時だ。それは長い付き合いで知っている。
「荒物屋に見せてみたんだがな」
 文次郎はため息を一つ吐いて、燃えかすの束を帳場から持ってきた。油の染みた板片、縄の切れ端、焦げた油紙、木栓の欠片。留三郎がこれまでの現場で回収したものだ。
「縄の結び方に癖があるそうだ。商家の荷を括る結びとは違う、もう少し丁寧な──」
 文次郎は言いかけて止めた。仙蔵が片眉を上げる。
「……もう少し何だ」
「それが、上物には間違いないがそれ以上は分からんと言われた。麻問屋に持ち込めば繊維の産地まで辿れるかもしれんと言うから、明日当たってみる」
 文次郎が少しばかり苦々しい顔をする。本人としてももう少し進展が欲しかったのだろう。上物か、と留三郎が呟いたその時──表から足音が聞こえた。障子が開き、長次が音もなく入ってくる。
「……遅くなった」
 珍しく『もそ』ではない。長次は座敷の隅に腰を下ろし、懐から一枚の紙を取り出して文次郎の地図の横に置いた。出火地点の最新版らしい。長次の情報網で拾った直近の火事が三件追加されている。
「……組屋敷の近くでも出ている」
 長次が短く言うのに、留三郎が紙を覗き込んだ。新しい三件のうち一つが組屋敷──下級武士の長屋が並ぶ一帯──の近辺で起きている。
「組屋敷か。町家でも商家でもないな」
 留三郎は地図に丸を書き足した。
「とうとう武家の近くまで来たか」
 座敷が静まる。仙蔵が扇を開き直した。その手がほんの僅かに強張っているのに気づいたのは、向かいに座っていた伊作だけだった。伊作は仙蔵の顔を見たが、仙蔵は視線を返さなかった。
「──長次」
 文次郎が声をかけた。
「瓦版はどうする。奉行所狙いの線を続けるか」
「……少し揺らす」
 長次は目を伏せたまま答えた。仙蔵がそれがいい、と言葉を繋ぐ。
「犯人もここまで目立つことをしているんだ。話題になることを狙っているんだろう。奉行所だけじゃない、武家も狙われているかもしれないと含みを持たせれば、大胆な行動に出るかもしれん。──匙加減は難しいが」
「もそ」
 長次は小さく頷いた。
 五人はしばらく地図を眺めていた。点々と散らばった火事の跡。その中に浮かび上がる規則性。長屋から物置へ、物置から蔵へ、そして蔵から武家の近辺へ──。犯人は確実に何かに向かって手口を磨いている。
 沈黙を切り上げて、仙蔵が最初に立ち上がった。
「今日はここまでだな。私は芝居の稽古がある」
「もう帰るのか?」
「千両役者は忙しいのさ」
 文次郎が声をかけるのに、仙蔵は軽く笑って座敷を出ていった。その足取りはいつもより速く、文次郎にはそれが気になった。
(あいつ──何か掴んでるな)
 けれども追いかけて問い詰めたところで何も話さないだろう。仙蔵は話す時は話す。それを待つしかなかった。
 文次郎は窓の外を見た。表の夜風は生ぬるい初夏の空気を帯びている。遠くの空に、また薄い煙が見えた気がした。