(利土)鈴
土井半助は木漏れ日の差す山道を登っていた。秋の初めの澄んだ空気が肺を満たし、足元では落ち葉が乾いた音を立てる。目指すは峠の向こうにある古刹。かつて世話になった僧侶の墓参りという、年に一度の習慣だった。
「おや」
道の脇に、人影があった。粗末な法衣をまとった老人が、木の根に腰を下ろしている。杖を傍らに置き、目を閉じて動かない。土井は足を止め、そっと近づいた。
「大丈夫ですか」
法師は目を開けた。濁りのない、不思議に澄んだ瞳だった。
「ああ、すまんね。少し休んでおっただけじゃ」
「どちらへ? この先の寺ならまだ二刻はかかりますよ」
「いや、もう少し先じゃ」
法師は立ち上がろうとして、よろめいた。土井は咄嗟に腕を差し出し、その体を支える。思ったより軽い。まるで中身がないかのように。
「肩をお貸しします」
「そうかね。では、ひとつ甘えようか」
法師を支えながら、土井は山道を進んだ。老人は時折咳き込みながらも、不思議と足取りは確かだった。やがて道が二つに分かれる場所に出ると、法師は土井の腕からするりと抜けた。
「ここでいい。世話になったね」
「いえ、お気をつけて」
土井が頭を下げると、法師は懐から何かを取り出した。古びた鈴だった。随分と年代物だ。神社に置かれているような。
「親切なお方に、ひとつお礼をな」
法師は笑った。子供のような無垢な笑み。鈴を軽く振ると、シャラン、と澄んだ音が山間に響いた。
「これでおまえさんは、ひとつ変えられる」
「……は?」
問い返す間もなく、法師は木々の間へ消えていった。まるで霞に溶けるように。
土井は暫くその場に立ち尽くしていた。耳の奥で、まだ鈴の音が響いている気がした。
忍術学園に戻ると、門の前に見慣れた姿があった。
「土井先生。お帰りなさい」
山田利吉が、いつもの穏やかな笑みを浮かべて立っている。肩には荷を担ぎ、父への届け物という体裁を整えていた。
「利吉くん。来てたのか」
「ええ、母からの差し入れがありまして。ついでに、先生のお顔も見たくなったものですから」
さりげない。けれどそこに確かに込められた意味を、土井は気づかないふりで受け流した。
「山田先生なら職員室にいらっしゃるはずだよ。私はこれから報告があるから」
「そうですか。では、また後ほど」
利吉は微笑んだまま頭を下げた。その視線が、ほんの一瞬だけ土井の横顔を追う。土井はそれを背中で感じながら、足早に校舎へ向かった。
月に一度、時にはそれ以上の頻度で、利吉は忍術学園を訪れる。父への届け物。母からの差し入れ。理由は毎回違う。けれど本当の理由を、土井は知っていた。知っていて、知らないふりをしていた。あの子は──いや、もう子供ではない。十八になった利吉は、立派な忍として名を上げつつある。けれど土井にとって、彼はいつまでも氷ノ山で出会った少年だった。自分を兄のように慕う、山田家の大切な一人息子。
それ以上には、なれない。
土井は職員室への廊下を歩きながら、無意識に胸元に手を当てた。あの法師の言葉が、なぜか頭から離れなかった。
──ひとつ、変えられる
何を変えるというのだろう。変えたいものなど、何もないというのに。
それから数日後のことだった。
女装実習の授業で、土井は数人の生徒を連れて学園の外へ出ていた。実地訓練──町中での振る舞いを学ばせるためである。生徒たちは慣れない女物の着物に四苦八苦しながらも、それなりに様になってきていた。
「先生、この帯の結び方で合ってますか」
「もう少し高い位置で。そう、そのへんだな」
穏やかな午後だった。商家が立ち並ぶ通りを歩き、町人に紛れて歩く練習。何事もなく終わるはずだった。
異変が起きたのは、帰路についた頃だった。遠くで喚声が上がった。土井は咄嗟に生徒たちを建物の陰に隠し、周囲を窺った。街道の向こうから、武装した兵たちが押し寄せてくる。
「戦……?」
近隣の領主同士の小競り合いが、にわかに激化したらしい。土井たちは逃げ場を失い、戦場の真ん中に取り残された。
「先生、どうしますか」
生徒の一人が、押し殺した声で尋ねる。土井は素早く周囲を見回した。
「あの蔵の裏を抜ける。私がおとりになるから、合図があったら走れ」
「でも先生」
「いいから。おまえたちは必ず学園に戻るんだ」
土井は女物の着物のまま、路地へ飛び出した。兵の注意を引きつけ、生徒たちの逃げ道を作る。それが教師としての務めだった。背後で足音が散る。生徒たちが逃げ始めた。土井はそれを確認し、更に深く路地へ入った。
「そこの女! 止まれ!」
兵の怒号が追いかけてくる。土井は身を翻し、塀を越えようとした。その時──横合いから槍が突き出された。避けきれなかった。脇腹を掠め、鋭い痛みが走る。土井は体勢を崩し、石畳に膝をついた。
「くの一か? 捕らえろ!」
視界が霞む。出血が思ったより酷い。意識が遠のいていく中で、土井は生徒たちの無事だけを祈りながら身を隠せる場所を探した。
頼む、逃げてくれ──。
「動くな」
低い、しかし聞き覚えのある声が、子供たちの耳に届いた。
失血に気を失った土井を取り巻くようにして物陰に隠れていた生徒たちは息を呑んだ。目の前に立つ男──交戦中の忍装束を纏っているが、その声には子供たちも覚えがあった。
「利吉……さん?」
一人が掠れた声で呼びかける。利吉は片手を上げ、静かにするよう促した。
「やっぱり君たちか。今、この辺りを兵が探し回っている。敵のくの一がいるかもしれないと」
「土井先生が……先生が怪我を……」
「分かっている」
利吉の声は、いつもの穏やかさとは違う、張り詰めた響きを帯びていた。
「先生は私が運ぶ。君たちは、あの林を抜けて東へ向かえ。街道に出たら、南に下れば学園に戻れる」
「利吉さんは?」
「私は大丈夫だ」
利吉は微笑んだ。いつもの、穏やかな笑み。けれどその目の奥に、子供たちには読み取れない何かが宿っていた。
「行きなさい。先生のことは、任せてくれ」
子供たちは顔を見合わせた。迷いがあった。けれど利吉の声には、逆らえない何かがあった。
「……はい」
一人が頷き、他の者もそれに続いた。林の方へ駆け出そうとした時、利吉が呼び止めた。
「──待って」
振り返る。利吉は真っ直ぐに子供たちを見つめていた。
「今日、ここで私に会ったことは、誰にも言ってはいけない。先生にも、学園の誰にも」
「……どうしてですか」
「いいから。約束してくれ」
利吉の目が、一人一人を射抜くように見据える。その眼差しには、有無を言わせぬ強さがあった。
幸いだったと──利吉は心の中で思った。この子たちなら、口止めは可能だろう。土井先生の教え子の中でも、特に口の堅い者たちだ。あの賑やかな三人組がいなかったのは、不幸中の幸いだった。
「……分かりました」
子供たちは頷いた。納得したわけではない。けれど、今はそれしかできなかった。
「ありがとう。さあ、行って」
「利吉さん」
背を向けた利吉を、誰かが呼んだ。利吉は振り返らなかった。
「先生を……よろしくお願いします」
「ああ」
それだけ答えて、利吉は駆けていった。この付近の兵を陽動するのだろう。
子供たちは走った。振り返りたい衝動を抑えながら、林を抜け、街道を目指した。背後で何が起きているのか、知る術はなかった。
土井が目を開けると、見慣れた天井があった。忍術学園の医務室だ。窓から差し込む光の角度から、夕刻近いことが分かる。
「気がつかれましたか」
新野先生の声がした。土井はゆっくりと首を動かした。
「私は……」
「大事ありません。傷は深かったですが、もう峠は越えました」
記憶が断片的に蘇る。戦場。兵たち。生徒を逃がそうとして……。
「子供たちは?」
「無事です。全員、学園に戻っています」
土井は安堵の息を吐いた。脇腹に鈍い痛みが走るが、それよりも生徒たちの無事が嬉しかった。
「どうやって……私は、どうやって戻ってきたんですか」
新野先生は、一瞬だけ言葉を濁した。
「生徒たちが、先生が動けなくなっていると報せてくれたそうですよ。立派なものです」
何かがおかしいと、土井は直感した。あの子たちだけであの難局をどうやって切り抜けたと言うのか。けれど新野先生の表情が、それ以上の追及を拒んでいた。
「……そうですか」
土井は目を閉じた。痛みと疲労が、また意識を遠くへ連れ去ろうとしていた。最後に見たのは、何だっただろう。倒れる直前、誰かの影が視界の隅を過った気がした──見慣れた、懐かしい誰かの。
いや、気のせいだ。
土井は深い眠りに落ちていった。
あれから、利吉が来なくなった。
最初は気にも留めなかった。仕事が忙しいのだろう。フリーの忍は依頼に追われる日々だ。月に一度の訪問が、二月になり、三月になり、やがて半年が過ぎた。
「利吉くん、最近来ませんね」
何気なく呟いた言葉に、伝蔵は答えなかった。いつもならば息子の話題に目を細める男が、押し黙ったまま湯呑みを傾けている。
「山田先生。何かあったんですか」
「……いや、なんでもない」
嘘だ。そう思ったけれど、土井にはそれ以上問うことができなかった。
季節が巡った。春が過ぎ、夏が来て、また秋が訪れ、一年が経とうとしていた。
土井は、ようやく理解し始めていた。利吉はもう来ない。何があったのかは分からない。けれど、もう二度と、あの穏やかな笑みを見ることはないのだと。それは諦めに似ていた。けれど、どこかで諦めきれない自分がいた。
年に一度の墓参りの日、土井はあの峠道を歩きながら、無意識に利吉の名を思い浮かべていた。
(利吉くん)
あの子は、私に何を求めていたのだろう。そして私は、何を恐れていたのだろう。
──ひとつ、変えられる
あの法師の言葉が、不意に蘇った。
変えられるものなど、何もない。過去は変えられない。失われたものは戻らない。分かっている。──分かっているのに。
土井は足を止めた。道の脇に、見覚えのない小さな塚があった。新しい。去年の秋に来た時にはなかった。周囲には閑散とした野原が広がり、風に揺れる魔除けの鈴がシャラン、シャランと乾いた音を立てている。
なぜだろう。胸騒ぎがした。
塚のことが、頭から離れなかった。
忍術学園に戻っても、授業に集中できない。生徒たちの顔を見ていても、どこか上の空になる。
そして土井は、気づいてしまった。
あの日以来、何人かの生徒が、定期的にどこかへ出かけている。人目を避けるようにこっそりと。問い質しても、答えない。目を伏せ唇を引き結び、頑なに沈黙を守る。何かを隠している。それは確かだった。けれど何を隠しているのかが分からない。
土井は調べ始めた。生徒たちが向かう先をそっと尾行した。峠道を越え、あの野原へ。そしてあの塚の前で子供たちは手を合わせ、じっと俯いていた。塚に刻まれた文字は読み取れなかった。けれどその佇まいが、何かを物語っていた。
近くの村で聞き込みをした。領主の館に仕える女中が世間話のように教えてくれた。
「ああ、あの塚ですか。去年の秋のあの戦で、若い忍が捕まってねえ」
土井は黙って聞いていた。
「やたら美丈夫の若い男だったそうですよ。敵の女と子供を逃がしたって言うんで、裏切り者だって」
心臓が、一拍止まった気がした。
「首を刎ねたそうなんですけどね、その前に壮絶な拷問を受けたそうで。それでも最後まで口を割らなかったって。逃がした相手が誰なのか、どこへ逃げたのか、何一つ喋らなかったそうですよ」
土井の手が、無意識に拳を握りしめた。
「あそこの領主様は残忍な方でねえ……。二十にもならない若い男だったそうなのに、かわいそうに。でも、その最期が立派だったんで、塚を作ることだけは許されたんですって」
二十にもならない、美丈夫の若い忍。
(利吉くん)
土井は立ち上がった。足が震えていた。走り出した。どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。
気がつくと、あの塚の前にいた。
膝をついた。鈴がシャラン、シャランと鳴っている。風もないのに、鳴り続けている。
「……利吉くん」
声が震えた。涙が頬を伝った。あの日、私を助けてくれたのは。あの子たちを逃がしてくれたのは。そして、口を割らなかったのは。私の素性を──最後まで言わなかったのは。
「どうして……」
利吉くん、どうして
あの子は、私に何を求めていたのだろう。『お兄ちゃん』と、そう呼ぶ声が耳の奥に蘇る。幼かった頃の、まだあどけなさの残る声。そして成長してからの、どこか切なげな響きを帯びた声。
自分はずっと逃げていた。あの子の想いから。自分の心から。
『兄弟みたいに、だけではもう足りないんです』
いつか、そう言われる日が来るのを恐れていた。分かっている。本当は、ずっと分かっていた。あの子を特別に思っていたのは、自分も同じだった。
「……ごめん」
言葉が、嗚咽に紛れた。
「ごめん、利吉くん」
謝っても、届かない。もう、どこにも届かない。
──シャラン。
ふと、風もないのに鈴が鳴った。
「おまえさんか」
声がした。土井が顔を上げると、目の前に法師が立っていた。あの日山道で助けた、あの不思議な法師。
景色が変わっていた。
塚はない。野原もない。ここは山の中だ。秋の初めの澄んだ空気に、梢が風に揺れている。
「……どういう、ことですか」
「言ったじゃろう」
法師はシャラン、とまた鈴を鳴らした。
「ひとつ、変えられる」
土井は息を呑んだ。
「これがおまえさんへの礼じゃ」
法師は笑った。あの日と同じ、子供のような無垢な笑み。
──シャラン
鈴が最後にまた一度だけ鳴って、法師の姿は消えた。
忍術学園の門が見えた。
土井は走った。心臓が早鐘を打っている。夢だったのか。幻だったのか。それとも。
門の前に、人影があった。
見慣れた姿。肩に荷を担ぎ、穏やかな笑みを浮かべた若者。
「土井先生。お帰りなさい」
山田利吉が、そこにいた。
「母からの差し入れがありまして。ついでに、先生のお顔も見たくなったものですから」
いつもの言葉。いつもの笑み。いつもの──さりげない想い。
土井の目から、涙が溢れた。
「……先生?」
利吉が驚いたように目を丸くする。土井は答えなかった。答える代わりに、駆け出した。
「せ、先生? どうしたんですか、急に──」
利吉の言葉は、途中で途切れた。土井が利吉を抱き締めたからだ。強く。強く。二度と離さないとでも言うように。
遠くで、鈴の音が聞こえた気がした。