軍師天鬼、利土を描く(9)
横書き
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縦書き
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利鬼が天鬼の私室へ呼ばれなくなって、五日が過ぎた。
最初の二日は、たまたま多忙なのだろうと思っていた。三日目には、何か気に障ることを言っただろうかと昨夜までのやり取りを反芻した。四日目には、廊下を通るついでに戸の前で足を止めるようになり、五日目の今日にはとうとう、用もないのに庭掃除を買って出て天鬼の私室の見える位置まで回り込んでいた。
あれほど毎夜のように「利鬼」と呼ばれ、灯明を挟んで膝を突き合わせていたのに、ぱたりと途切れた。
「……一体何が」
箒の柄に顎を乗せて利吉は呟いた。呟いてから、我ながら未練がましいと気づいて咳払いをする。
別に、毎晩呼ばれたいわけではない。あれは潜入任務の一環であり、天鬼の懐に入り込むための方便に過ぎない。ただ、切れた糸の端が急に手の中で軽くなったような、落ち着かなさがあるだけだ。
「利鬼様、お掃除ですか」
振り向くと、洗い物の桶を抱えた女中が立っていた。この城でただ一人、利吉の正体をなんとなく察していそうな節のある女である。
「ああ。ところで、天鬼殿は近ごろ何をしておられるか知っているか」
「ネームですよ」
「ねえむ」
「あら、ご存じない?」
「……最近はとんと呼ばれないもので」
我ながら恨みがましい言い方になった気がしたが、女中は桶を抱え直して、さも当然という顔で頷いた。
「まあ、苦しんでいらっしゃるんでしょうねえ」
「苦しむ?」
「天鬼様がお手本になさっているのは『ドクタケ忍者隊』でしょう。あれ、城下でも指折りの絵師に描かせた品ですからね。絵巻としてはそりゃあ立派なものです。ああいうのを最初の一本で目指そうとするのは、初心者にはなかなか荷が重いんですよ」
「ねえむとは、そんなに大それた作業なのですか」
「人にもよりますけど、漫画を描く作業の中では一番籠る方が多いかもしれませんね。何せ言語野と視覚野を総動員しないといけませんので。プロットよりしんどいかも」
「げんごや」
聞き慣れぬ言葉だが、この女中が口にする横文字と謎語のたぐいには、もう慣れた。要するに、頭の中のまるきり違う場所を二つ同時に酷使するということらしい。利吉は素直に感心した。
「つまり、絵を考えながら言葉も考えると」
「そうですそうです。台詞の位置、目線の流れ、どの瞬間を絵にするか。全部を決めなきゃいけないんです。しかも下手に決めると話そのものが死ぬので」
「……戦場の采配のようですね」
「近いかもしれません。しかも自軍も敵軍も自分で動かす一人遊びなので終わりもないと言う」
「なるほど」
利吉は本気で唸った。忍としては、そういう作業の重さは想像がつく。相手の動きを読みながら自分の手も打ち、なおかつ全体の絵も崩せない。一つ誤れば全部が台無しになる。
「特に天鬼様は拘りが強くていらっしゃるので、大変だと思いますよ」
女中は桶の中でちゃぷりと水を揺らした。
「ああいう方は、納得いくまで一枚も先へ進めませんから。たまには息抜きが必要かもしれませんね」
「……息抜き」
「お茶でも差し上げてはいかがです? どうせ飲まず食わずで唸っていらっしゃるでしょうし」
言うだけ言って、女中はさっさと井戸の方へ行ってしまった。
利吉はしばらく箒を握ったまま立っていたが、やがて箒を壁に立てかけた。
ほんの数日で、心配になるあたりが自分でも情けない。けれど、記憶があろうとなかろうと、あの人が飯も食わずに一つのことへのめり込む性質なのは変わらないのだ。それを知っていて放っておけるほど、利吉は器用ではなかった。
***
湯を沸かし、盆に湯呑みと干し柿を二つ載せて、利吉は天鬼の私室の前に立った。
「天鬼殿。利鬼でございます」
返事がない。
「お茶をお持ちしました」
やはり返事がない。中からは紙を繰る音と、押し殺した呻き声だけが漏れてくる。利吉は一つ息を吐いて戸に手をかけた。
「失礼いたします」
開けた瞬間、利吉は思わず足を止めた。
部屋が、紙で埋まっていた。
丸めた反古紙が板敷きの上に山と積まれ、隅の方では雪崩を起こしかけている。文机の周りにも広げたまま放置された紙が幾重にも重なり、墨の匂いが濃く沈んでいた。その量たるや、忍として数々の陣所を見てきた利吉ですら、一瞬経費の心配をしたほどだった。紙は高い。城の勘定方が見たら卒倒するだろう。
その紙の海の隅に、天鬼はいた。
壁に背を預け、膝を立て、筆を握ったまま低く唸っている。目の下には濃い隈があり、指も袖口も墨で汚れていた。手元の紙には四角い枠らしきものが引かれては消され、引かれては消されている。
「……天鬼殿」
「…………」
「天鬼殿。お茶を」
天鬼の目がゆっくりと利吉を捉えた。それから、はっとしたように身を起こす。
「──出ていけ」
「は」
「今は誰も通すなと言ったはずだ。見るな。散らかっている」
「言われておりませんが。それに、散らかっているのは見ればわかります」
「見るなと言っている!」
天鬼は紙の山を袖で隠そうとしたが、隠しきれるはずもなく、逆に一山崩して足元に雪崩れ込ませた。丸めた紙が利吉の草履の先まで転がってくる。
利吉は盆を置いて、それを拾い上げた。
「随分と使われましたね」
「……仕方あるまい。どう割っても、間が合わんのだ」
「間?」
「頁を割ったところで、こう……絵の運びが死ぬ。同じ場面なのに、切る位置を変えるだけで、まるで別物になる」
天鬼は忌々しげに筆の尻で紙を叩いた。
「近くから描けば顔ばかりになり、遠くから描けば何も伝わらん。間合いの取り方が、どうにも」
「……それは、なかなか」
「もういい。下がれ。茶は置いていけ」
利吉は苦笑して、一礼した。
「では、これで失礼いたします。干し柿も置いておきますので、少しは何か召し上がってください。倒れられては──」
言いながら戸口へ向かい、敷居をまたごうとした、その時だった。
「──ちょっと待った!」
鋭い声だった。
利吉は足を止め、振り返る。天鬼が、紙の山の中で膝立ちになっていた。目が──異様に見開かれている。
「……何でしょう」
「動くな」
「は?」
「今、何か掴めそうな気がした」
天鬼の視線は、利吉を見ていない。正確には、利吉のいる場所を見ている。
戸口に立つ影。廊下から差し込む光。その逆光の中で振り返った顔。──遠景から、一気に寄る。
天鬼の頭の中では、それはもう絵になっていた。
引き戸が開く。散らかった部屋が斜め上から見下ろされる。次の枠で、戸口の男を足元から見上げる。そして三つ目の枠で、振り返った顔だけを大きく。
三枚。三枚で足りる。
四角い枠が、頭の中で勝手に並んでいく。
「……そうか。同じ高さで並べてはいかんのだ」
「天鬼殿?」
「高低だ。見る位置を変えるのだ。城攻めと同じではないか、物見櫓から見下ろし、堀底から見上げ、最後に門前で顔を合わせる──」
天鬼は紙の山を蹴散らして文机に飛びついた。新しい紙を引き寄せ、墨も継がずに筆を走らせる。
「利鬼」
「はい」
「そこに立っていろ。しばらく動くな」
「……あの」
「動くな」
「はい……」
言われた通り、利吉は敷居をまたぎかけた姿勢のまま動かずにいた。
動くに動けなかった、というのが正しい。天鬼の気迫が凄まじすぎたのだ。合戦場で敵の猛将と相対した時ですらここまで殺気立った眼差しを向けられた覚えはない。墨を吸いすぎて重くなった筆先が、反古紙の裏を削るような音を立てて激しく走っている。
カサリ、カサリと、紙が擦れる音が静まり返った部屋に響く。
天鬼の目は完全に据わっていた。先ほどまでの死に損ないのような濁りは消え失せ、飢えた狼が獲物の喉笛を見定めているかのような獰猛な光を宿している。紙に向かって前傾した背中は記憶にあるよりも薄い。この数日、本当に一歩も部屋から出ず、横にもならずに紙と睨み合っていたのがよく分かる。
「……ここだ。引いて、寄せる」
天鬼が掠れた声で低く呟く。
「まず引き戸を開けた全体の絵……部屋の散らかり様で、どれほど刻を費やしたかを一目で知らしめる。頁の右上に小さく、しかし奥行きを持たせて配置し、次に──」
素早く紙をめくり、次の枠を引く。直線を引く手つきには、軍図を書き慣れた者特有の迷いのなさと冷徹さがあった。
「下からの煽りだ。戸口に立つ男の全身を膝のあたりから見上げる。逆光で顔は見えぬ。だがその影の長さで相手がどれほどの重圧を伴ってそこに立っているかを読者の目に刻み込む……足軽の槍衾を正面から見据える時の威圧と同じだ。逃げ場を塞ぐ」
利吉は思わず喉を鳴らした。自分はただ、茶と干し柿を持って入ってきただけのつもりなのだが、天鬼の頭の中ではどうやら決死の奇襲部隊か何かに仕立て上げられているらしい。
「そして、ここだ。三段目の枠を横に長く取る。男が振り返る瞬間……肩越しに見える横顔、開かれた唇、見開かれた瞳の光──一気に寄る。間合いを詰める。槍の間合いから短刀の柄頭が触れ合う距離まで、一息で踏み込むのだ」
天鬼の腕が宙を切り、紙の上へ鋭く叩きつけられた。
墨が勢いよく飛び散り、天鬼自身の白い頬に黒い点を作ったが、本人は気にする風すらない。
「読者の目をここで釘付けにする。頁をめくらせん。いや、めくらせるために、この視線で射抜くのだ。逃げようとする足を縫い止め、次の頁へと引きずり倒す……!」
物騒極まりない言い回しだった。恋仲になる二人のやり取りを描いているはずなのに、語られている内容は完全に要人暗殺の手法である。だが、その狂気じみた集中の凄まじさに、利吉は息を呑んだ。
天鬼は恐ろしい速度で紙を埋めていく。
四角い枠が引かれ、その中に棒人間のような簡略化された身体と、丸で描かれた頭が放り込まれる。雑な下書きのはずなのに不思議と動きが見えた。台詞が書き込まれる位置、余白の広さ、人物の向き。それらすべてが、読む者の視線を吸い寄せるための緻密な罠として機能している。
──これが、ねえむというものか。
利吉は足の痺れも忘れて見入っていた。忍としての勘が告げていた。この男がやっていることは、紙という名の戦場における完璧な陣形構築だ。相手の視線を誘導し、油断させ、急所へ刃を突き立てる。その技術が、あろうことか利吉と土井半助の恋愛物語を描くために注ぎ込まれているという点を除けば、感嘆の息しか出ない。
やがて、カサリカサリという音が不意に止まった。
部屋を支配していた濃密な熱気が、潮が引くようにすうっと引いていく。
天鬼は筆を握ったまま、机の上に突っ伏すようにして動かなくなった。肩が小さく上下している。
「……天鬼殿?」
恐る恐る声をかけるが、返事はない。
次の瞬間、天鬼の指からぽとりと筆がこぼれ落ちた。板敷きを転がる黒い軸の乾いた音がやけに大きく響く。
そして──天鬼の身体が、横へとふらりと傾いだ。
「天鬼殿!」
利吉は敷居を蹴って駆け出していた。
倒れそうになる身体を、滑り込むようにして正面から受け止める。抱き留めた身体は水気がなく表面の張りを失い、着物の襟元からは熱病を患ったかのような乾いた熱気が立ち上っていた。
「天鬼殿、しっかりしてください!」
呼びかけながら、利吉は抱えた身体を支え直した。本当に、ここ数日まともに飲み食いしていなかったのだ。あの女中の言っていた通りだった。一つのことに取り憑かれると、己の命の維持すら忘れて突き進んでしまう。氷ノ山で寝食を忘れて書に没頭していた遠い日と、忍術学園で生徒たちの補習や追試の採点に追われ、夜を徹して倒れかけた土井先生の姿が鮮明に重なった。
記憶を失い、ドクタケの軍師などという禍々しい名を名乗っていても、この人の根っこの部分は何も変わっていないのだ。
「……ん……」
胸元で、天鬼が低く息を吐いた。
焦点の合わない薄墨色の瞳が、利吉の顔をぼんやりと見上げている。額にはじっとりと脂汗が浮き、唇は血の気を失ってかさついていた。
「利……鬼……?」
「ええ、利鬼です。わかりますか。無理に起き上がろうとしないでください、今、水を持ってまいりますから」
立ち上がろうとする利吉の胸倉を、天鬼の指がかすかに掴んだ。力のない、しかし縋り付くような引き止め方だった。そのまま墨で汚れた指がふらふらと、利吉の右の顔へと伸びる。ひやりと冷たい指先が頬に触れる。親指の腹が、皮膚の薄い頬骨のあたりを頼りなげに撫でた。
「……お前は……」
天鬼は夢現のような、掠れた声で呟いた。
「……顔が、いいな……」
「…………は?」
利吉は思わず眉をひそめた。耳を疑ったと言ってもいい。
何を言い出すのだ、この人は。
飲まず食わずで倒れかけ、今にも事切れそうな顔をしておきながら、開口一番に出てきた言葉がこれとは。
(……大丈夫か、この人)
胸の奥から湧き上がってきたのは、心配を通り越した激しい胡乱さだった。頭の血管でも切れたのではないか。墨の毒気にでも中てられたのか。利吉は怪訝極まりない目を天鬼に向けたが、天鬼の方は極めて大真面目な顔つきのまま、虚空を指先でなぞるように利吉の輪郭を確かめている。
「眉の形も……鼻筋も、通っている。遠目にもよく映える……」
「天鬼殿、熱があるのでは──」
「土井半助も、そう思っているのだ」
「え……?」
天鬼の口から滑り出た名前に、利吉の喉が詰まった。
天鬼は朦朧とした意識の底から言葉を拾い上げるように、ぽつりぽつりと続けた。
「土井半助は……山田利吉の顔がいいと、思っている。昔から見慣れていたはずなのに、いつの間にか眩しくて直視できなくなっているのだ……」
利吉の心臓が、どくりと大きく跳ねた。
頬に触れている冷たい指先から、熱がじんじんと伝わってくるような錯覚を覚える。
土井先生が、自分のことを顔がいいと思っている。
眩しくて、直視できないと思っている?
そんなこと、かつての土井先生から一度だって言われたことはなかった。いつだって「利吉くん」と穏やかに微笑み、大人びた顔をして見守るばかりだったあの人が、内心でそんなことを思っていたというのか。
いや、違う。利吉は必死で頭を振った。これは天鬼が描いている絵巻の、創作の中の土井半助の話だ。目の前の天鬼は、自分が考えた物語の設定を口走っているに過ぎない。──それでも。
(……嬉しくないと言ったら、嘘になるな……)
照れ臭さと困惑が頭の中で混ざり合い、耳の裏が急速に熱くなっていく。もしこれが本人の本心からの言葉だとしたらどれほど幸福だろう。しかしこんな紙屑の散らばる床の上で、部屋の中で行き倒れかけた男に言われてもあまりに締まりがない。嬉しさと気まずさの板挟みになり、利吉は表情を引き攣らせた。
当の天鬼は、利吉の葛藤などまるで視界に入っていない様子だった。
瞳の奥で、何かが目まぐるしく明滅している。
「……そうだ、ここだ。この顔を、三段目で大きく抜く……だが、ただ正面から描くだけでは情緒が足りん……」
天鬼の呟きは、次第に奇妙な熱を帯びていった。
「男の視線は、右下へ逃がす。読者の視線誘導と逆行させることで、躊躇いを表現するのだ。だが土井の手は、それを逃さぬよう、枠線を跨いで画面の外から伸ばす……いわゆる、ぶち抜きというやつだ。境界を越えて侵入する破格の構図……! そして次の頁の見開きで、二人の間合いを完全に失くす……!」
ぶちぬき。
みひらき。
天鬼の口から次々と飛び出す得体の知れない言葉に、利吉は完全に置いてけぼりを食らっていた。どうやらこの男の頭の中では、今この瞬間も目に見えない四角い枠と視線の矢印が嵐のように吹き荒れているらしい。抱きとめている腕の感触すら、天鬼にとっては「間合い」の実験台に過ぎないのではないかという疑念が湧いてくる。
大丈夫か。本当に、正気なのだろうか。
正気の人は二次創作に関わらない、という女中の言を利吉は知らない。心配する言葉をかけようと口を開きかけた、その時だった。
天鬼の視線が──ふと揺らいだ。
紙の上の構図を追っていた瞳が、ゆっくりと焦点を結び、真正面から利吉の瞳を捉えた。
天鬼の口元から険しさが消え、墨の汚れも、目の下の濃い隈もやつれた頬の影も、すべてを融かしてしまうような──あまりにも優しく、柔らかな笑みが、唇にこぼれた。
それは、利吉が子どもの頃からずっと見つめ続けてきた、あの人の笑顔だった。
氷ノ山の生家で囲炉裏の火を囲みながら自分に向けられた、或いは忍術学園の庭の片隅で、宿題に追われる生徒たちを眺めながら浮かべていた、あの穏やかな表情。
決して他者には見せない暗い過去を抱えながら、それでも目の前の者には陽だまりのような温もりを与えようとする、あの土井半助そのものの顔だった。
「……そうだな」
天鬼は、吐息のように囁いた。
「……会いたかった」
息が止まった。
利吉の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
会いたかった。
誰に。今彼が見ているのは利鬼だろうか。それとも失われた筈の記憶の中の誰かだろうか。それでもそんなことはどうでもよくなるくらい、頬に触れる指の冷たさが愛おしかった。いま抱き留めている身体を、このまま腕の中に閉じ込めてしまいたかった。記憶など戻らなくてもいい、このまま二人で誰も知らない遠い場所へ逃げてしまえたらどれほどいいだろう──。
そんな、忍にあるまじき甘く切ない感情が利吉の胸を満たし、世界が二人だけの静寂に包まれかけた、まさにその刹那。
「──今の!」
天鬼が、雷に打たれたような叫び声を上げた。
「え」
「今のだ! 今の表情だ!」
天鬼は利吉の胸を思い切り突き飛ばし、驚異的な跳躍力で跳ね起きた。
先ほどまで行き倒れかけていた人間の動きでは断じてない。まるで死線の間際で敵の奇襲を察知した獣のような俊敏さで、天鬼は床に散らばる紙の海へ飛び込み、転がっていた筆をひったくった。
「動揺! 瞳の揺らぎ! そしてこの、微かに赤らんだ耳の先端……! これだ、この生々しさこそが読者の胸を抉るのだ! 忘れる前に割らねばならん、見開きの手前の右下、ここにこの顔を叩き込む……!」
天鬼は猛烈な勢いで新しい紙を引き寄せ、墨の乾きかけた筆をガリガリと擦り付け始めた。背中からは湯気でも立ち上りそうなほどの熱気が立ち上っている。
利吉は突き飛ばされて尻餅をついた姿勢のまま、空になった両手をぽかんと見つめていた。
頬には、まだ天鬼の指の冷たさが残っている。
胸の奥には、行き場を失った甘い熱情が、取り残された小舟のように燻っていた。
ほんの数瞬前まで、二人の間には確かに美しい情緒が流れていたはずだった。長年の想いが交錯し、運命の糸が絡み合うような、奇跡的な瞬間があったはずなのだ。
それを。
この男は。
漫画の資料として消費した。
ガリガリ、ガリガリと、狂ったように紙を引っ掻く筆の音だけが静かな部屋に響き渡っている。筆はガリガリと音を立てるものではないのだが、天鬼の背中は完全に自分の世界に没入しており、背後で利吉がどんな顔をしているかなど微塵も気にしていない。
利吉は深々と息を吸い込み、それから、両手で顔を覆った。
(……お兄ちゃんに会いたい……)
本当に、心の底からそう思った。
記憶を失った土井半助は、思っていたよりもずっと、救いようのない業を背負ってしまっているようだった。