大江戸転生主従パロ9 組屋敷小蔵
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火事があったのは明け方だった。
幕府の御家人の官舎である、組屋敷裏手の小さな蔵から火が出たという。報せは土井家の屋敷にも伝わり、朝餉の前には既に屋敷中に広まっていた。土井家の江戸屋敷から組屋敷まではそう遠くなく、明け方の空が赤く染まったのを夜番の者が見ていたほどだ。
利吉は屋敷の二階から、遠くに立ち昇る煙の名残を見ていた。火はすでに消し止められており、蔵は小さく被害も軽微だろう。けれども利吉の目はそこではなく、蔵の周囲を動く人の流れを追っていた。
同心が二人、組屋敷の木戸の前に立っている。数人の火消しが鳶口を担いで現場から引き上げていくところだ。蔵の前には組屋敷の住人らしい武士が数名集まり何やら話し込んでいるが、その顔ぶれにはまとまりがない。恐らく詰め番の者ではなく、騒ぎを聞いて集まってきた者たちなのだろう。
利吉の目は木戸に止まった。組屋敷の木戸は通常、番替えの刻限に合わせて開閉される。今は朝の番替えが終わった直後のはずだが、木戸は開け放しのままだった。番替えの混乱で閉め忘れたか、火事の消火に人が出入りして戻していないだけなのか──いずれにせよ、番替えの隙に木戸が無防備になる時間があることを示している。
次に利吉の目は、蔵の脇の柱に掛けられた木札に移った。見回りの札だ。本来は見回りの者が巡回するたびに裏返し、次の番の者に引き継ぐ。札がどちらを向いているかで、いつ最後の見回りがあったか分かる仕組みだ。
距離があるため確かなことは言えないが、札の向きが夜番の終わりと合っていない。見回りが途中で止まっているか、あるいは札の管理そのものが杜撰になっている。
番替えの隙、木戸の開放、見回りの不備。利吉は窓から離れて考え込んだ。放火犯が組屋敷を狙ったと言えばそれだけの話だ。けれども利吉にはどうにもそうは見えなかった。
犯人は建物を燃やしたいのではなく、武家屋敷の警備の穴を探っているのではないか。番替えの時刻、木戸の開閉、見回り札の間隔。それらを実地で確かめるため、わざと小さな火を出している。蔵が燃えることは目的ではなく、火事を起こした時に誰がどう動くか、或いは動けないかを見ているのではないか。確証があるわけではない。それは単純に忍の勘だ。人の思い込みを利用し人心を欺き、影のように忍んで事を進めることを叩き込まれた者としての直感だった。
最初は小さな町の放火から始まった。自身番の周りでばかり火が起こったと聞いている。次に商家、そして組屋敷。それらが全て何かの試験だとしたら。
次は──。
利吉の脳裏に、土井家の蔵が浮かんだ。漆喰の白壁。重い欅の扉。蔵の中にあった帳面と衣装箱。もしもあの蔵が狙われたら。
町家から物置へ、物置から商家の蔵へ、商家の蔵から組屋敷の蔵へ。階段を一段ずつ上るように、犯人は標的を大きくしている。組屋敷の次に来るのは大名屋敷か、それに準じる格の武家屋敷だ。
利吉は廊下を歩いて留守居役の家老の部屋に向かった。
取り次ぎの者に告げると程なく入室を促された。部屋に入ると家老は書き物をしており、利吉が声をかけると筆を置いて、静かに顔を上げ利吉を見た。
「何用かな、山田殿」
「近隣の組屋敷での小火の件で」
「ああ、聞いておる。大した被害ではないようだな」
「はい。ですが──このところ町で放火が続いております。万が一に備え、当屋敷の蔵筋の警備を強化すべきかと存じます。鍵束の管理、見回り札の点検、木戸の施錠の確認など」
家老は利吉を見つめた。穏やかな目だったが、その奥に何があるのか利吉には読めなかった。
「考えすぎではないかな」
家老は静かに言った。
「町の放火がうちに及ぶ道理がない。奉行所が動いておるのだろう。それに、蔵の管理には既に十分に手を回しておる」
「しかし──」
「山田殿」
家老の声に僅かに硬さが混じった。
「蔵のことは留守居役の管轄だ。棚卸しは先日お願いしたが、それ以上の口出しは越権ではないかな。心配であれば、若君がお戻りになった折にご相談なさるがよい」
利吉は口をつぐんだ。これ以上食い下がれば角が立つ。護衛の任を外された身で、屋敷の警備に口を出す立場にはないことは重々分かっていた。
「……失礼いたしました」
利吉は頭を下げて部屋を辞した。
廊下を歩きながら、利吉は拳を握った。家老の言い分は筋が通っている。越権だというのもその通りだ。だが──あの蔵が狙われている可能性を黙って見過ごすことはできない。あらゆる危機から若を御護りするのがおのれの務めであると、それは護衛の任を外されようとこの家の者であれば変わることがない責務だった。
けれども今は若がおられない。直接進言する手段がない。家老がこれ以上人手を割けないと言うのであれば──自分でやるしかない。
利吉はその夜から、独断で屋敷の見回りを始めた。夜番の者と動線が重ならないよう注意しながら、蔵筋と木戸の周辺を自分の足で確かめる。護衛の任を外されていても、屋敷の中を歩くことまでは禁じられていない。
そのことを、利吉は誰にも言わなかった。家老に知れれば止められる。奥方に知れれば余計な心配をかける。だから一人で、夜の屋敷を歩いた。
若を守りたい。若の家族を守りたい。理由はそれだけで十分だった。
***
同じ日の昼、小平太は奉行所の控えの間にいた。
組屋敷の小火について、彼は自ら現場に足を運んでいた。蔵の扉際が焼かれていること、見回り札の向きが合っていないこと、木戸の開閉が番替えの隙と一致していること。それらを帳面に記し、上役に報告しに来たのだが、しかし上役の反応は鈍かった。
「組屋敷の小火など珍しくもない。武士の不始末だろう」
「しかし、このところの放火と手口が似ています。扉際の焼け方、油の痕──」
「似ていると言われても、奉行所が武家の敷地に踏み込むわけにもいかん。先方が訴え出るなら別だが」
それ以上は取り合ってもらえなかった。小平太は引き下がり、自分の帳面にだけ記録を残した。
町方の放火は奉行所で扱えるが、武家の敷地内の火事は管轄が違う。犯人が町と武家を跨いで動いているとすれば、どちらの管轄にも収まらない厄介な事態になる。上役の腰が引けているのも無理はないが、だからといって放っておけるものでもなかった。
小平太は帳面を懐にしまった。留三郎の現場記録、伊作の証言、文次郎の分析、長次の情報──それぞれの控えを突き合わせれば、奉行所でも通る形にまとめられるはずだ。まだ材料は足りないが、少しずつ積み上げていくしかない。
夕方、小平太は長次と落ち合った。
「昨日の組屋敷の件、瓦版に書けるか」
「もそ」
長次が短く答えるのに、小平太は畳み掛けた。
「大きめに扱ってくれ。奉行所狙いだけでは説明がつかなくなってきた。武家の近辺でも火が出ていると匂わせる。世論を動かせるように」
長次は頷いた。最初は犯人を泳がせるために世間の目を固定したが、固定しすぎると捜査する側の視野まで狭くなる。世間が真相に迫ってきているのだということをアピールし、犯人の反応を見るのだ。
「私の控えも使え。ただし名前は出すな」
「もそ」
長次は頷いて立ち去った。翌日の瓦版には、組屋敷近辺の小火と、それが奉行所狙いの放火犯と同一かどうかは不明──という含みを持たせた記事が載るだろう。町の空気が少し変わる。「奉行所狙い」の一色から、「もしかすると武家も」という色が混じり始める。
犯人がそれを読んでどう動くか。それを見極めるのが、この先の勝負だった。