山のけもの
「利吉さんてたまに人のこと、山のけものが人間を観察してるみたいな目で見ることありますよね」
そう利吉に言ったのは、随分と忍に似つかわしくないぴかぴかした名前をいただく馴染みのくノ一だった。北石照代は利吉と同じくフリーの忍者をしている。仕事で何度か顔を合わせたことがあり、それ以上でも以下でもない関係だった。茶屋で偶然出会い、簡単な情報交換をしていた時に、彼女は唐突にそんなことを言ったのだった。
利吉は少しばかりその言葉の意味を考え、どう贔屓目に判断しても田舎者と罵られたような気分になって聊か気分を害した顔をした。山のけもの。それはつまり、人間社会に馴染んでいない野生の獣だということだろう。利吉は氷ノ山の出身だ。確かに山育ちではあるが、だからといって人間を知らないわけではない。むしろフリーの忍者としては若手の割に名を馳せている方だ。それなのに、山のけものとは。
「どういう意味かな、北石くん」
利吉は努めて穏やかな口調で尋ねた。けれどもその声には明らかな不機嫌が滲んでいた。北石は気づいていないのか、それとも気にしていないのか、涼しい顔で答えた。
「そのまんまですよ。あらゆる人に対する視線が、観察的だなあって」
「まあ……忍だからね」
利吉は肩をすくめた。忍者である以上、人を観察するのは当然だ。相手の癖を見抜き、心理を読み、行動を予測する。それが忍の基本ではないか。けれど北石は首を横に振った。
「そういうことを言ってるんじゃないんですよねえ」
彼女は少し考えるように視線を上げてから、言い直した。
「つまり、冷たいってことです」
その言葉に、利吉は眉を寄せた。凡そ人からそのような指摘を受けることの少ない爽やかさを併せ持つフリーの売れっ子忍者は、その評価に納得がいかなかった。冷たい──自分が。確かに仕事では非情になることもあるが、それは必要に迫られてのことだ。普段の利吉は、少なくとも外面的には人当たりがいいと評判のはずだった。利吉自身も努めてそのように振舞っているつもりだし、冷たいなどと言われる覚えはない。
「それは心外だな」
「でも事実でしょ? 利吉さん、誰のことも本当には見てないじゃないですか。ただ観察しているだけで、まるで人間じゃない何かが人間を研究してるみたい」
北石は淡々と言った。その言葉には悪意も善意もなく、ただ事実を述べているだけのように聞こえた。利吉は何も答えられなかった。反論しようと思ったが、言葉が出てこなかった。それは、彼女の言葉が的を射ていたからだ。
二人はその後、簡単な挨拶を交わして別れた。利吉は一人街道を歩きながら、言われた言葉の意味を反芻していた。随分と失礼なことを言われたものだ。つまりあれは人間味がないということだろう。しかし利吉にはその自覚もあった。よりにもよって彼女に言い当てられるとはと──少々苦々しい気持ちになる。
利吉は自分が他人と少し違うことを知っていた。それは生まれ育った環境のせいだろう。利吉が氷ノ山を下りて人里に出たのは、彼が十三歳の時だった。それまで彼は両親と土井以外の人間とほとんど接することなく成長した。父の伝蔵は一流の忍者で、母もまた優秀なくノ一だったが、二人は利吉に忍術を教えはしたもののそれ以外の教育はほとんど施さなかった。いや、施せなかったというべきか。山奥で隠遁生活を送る一家にとって、人間社会との接点は極めて限られていた。
利吉が初めて人里に降りた時に感じたのは、人間の多さに辟易する感覚だった。里は音が多すぎる。においも多すぎる。それこそあの頃の自分は、山からおりてきたけもののような顔をしていたに違いない。人々がひしめき合い、大声で笑い、怒り、泣き、喧嘩をし、抱き合う。その光景は利吉にとって異様なものだった。その人間というものの多種多様さには未だに慣れない部分もあるし、逆に興味深いと思う部分もある。人間観察を常としていたせいで却って変装術の名人などになってしまったが、それはまあ置いておくとして、確かに北石の言う通り、利吉は人間全般に対する思い入れと言うものがほとんどなかった。
利吉にとって、人間は観察対象だった。どう接すれば正解なのか、さっぱり分からなかったからだ。どういう言葉を使えば相手が喜ぶか。どういう態度を取れば信頼されるか。どういう表情を作れば同情を買えるか。それらは全て、「そういうもの」という一種の型として利吉の頭に蓄積されていった。だから誰もに博愛的に接し、子供たちの先行きを憂いで胃を痛めている兄の心情などは正直なところまったくもって理解できない。土井半助──利吉が十二歳の時、一年ほど山田家に世話になっていた人。利吉にとって、初めて家族以外で密接に関わった人。土井は優しかった。利吉に技を教え、夜は一緒に眠り、時には利吉の話を静かに聞いてくれた。利吉は土井を慕った。兄のように──それ以上の何かとして。
けれども土井が忍術学園で教師をしているのを見た時、利吉は少し戸惑った。土井は生徒たち全員に優しかった。一人一人の悩みに耳を傾け、一人一人の不出来を嘆き、一人一人の成長を喜んでいた。それは美しい光景だったが、同時に利吉には理解できないものだった。なぜそこまで他人のことを気にかけるのか。なぜそこまで心を砕くのか。利吉にとっては父と母と土井以外の人間のことは、正直言ってものの数に入らないその他大勢に過ぎなかった。それは冷たいことだろうか。おそらくそうなのだろう。けれども利吉にはそれが自然だった。大事なものは限られている。腕に抱えられるだけの量で十分だ。それ以外のものに心を配る余裕など、利吉にはなかった。
利吉のそういった感覚は、忍をやるには実に都合が良かった。誰でも騙し、必要とあれば殺めることすらある。それに対して心を痛めたことはない。それは例えるならば鷹匠に狩りを命じられた鷹が、獲物を仕留めるのに心を痛めることがないことにちょうど似ていた。利吉は鷹だった。命じられれば飛び立ち、獲物を捕らえ、主の元に戻る。それ以上でも以下でもない。そもそも忍務に感情を持ち込めば、判断が鈍る。だから利吉は意識的に感情を切り離していた。
──利吉さんてたまに人のこと、山のけものが人間を観察してるみたいな目で見ることありますよね。
(そうかもしれないな)
利吉は心の中で呟いた。北石の言う通り、自分は山のけものなのかもしれない。けれどもそれでいいのだと利吉は思った。誰も彼も、土井すらも、大事なものを持ちすぎなのだ。こんな生業で、いつ死ぬともしれない世の中で、大事なものなど腕に抱きしめられるだけの量で充分だろう。土井は優しすぎる。あまりにも多くのものを大切にしている。よい子たち、同僚たち、そこにはきっと利吉のことすら含まれる。それら全てを守ろうとしていつか土井は潰れてしまうのではないかと、利吉はひそかに心配だった。
だから利吉はフリーを選んだ。仕事を選り好みするために。大事なものを大事にしていられるよう、自分の利害で動けるように。どこかの組織に属せば命令には逆らえない。時には守りたいものを犠牲にしなければならない時もあるだろう。けれどもフリーであれば、自分で選べる。守るものを選べる。利吉が守りたいものはたった三つだった。父と母と、そして土井。それだけで十分だった。
だから、あの人も──。利吉は心の中で思った。どうかあの人が大事なものをなくしかけた時に、自分と天秤にかけることなくその大事なものを選べればいいと、そう思っていた。土井が生徒を選ぶなら、それでいい。土井が誰か他の大切な人を選ぶなら、それでもいい。利吉は土井の幸せを願っている。それは本当だった。たとえ自分が選ばれなくても、土井が幸せならばそれでいい。
けれど、その想いは本当に無私なものだろうか。利吉は自問した。もしかしたら、それは臆病なだけではないか。彼の一番にはなれないことを恐れて、最初から諦めているだけではないか。
(自分の本心ほど、わからないな……)
利吉は歩き出した。答えは出なかった。ただ一つだけ確かなことは、土井のことを想っているということだった。それが愛なのか執着なのか、それとも別の何かなのか。利吉にはわからない。けものはそんなことは考えないだろう。けれどもその想いだけは本物だった。
利吉は空を見上げた。茜色の空に一羽の鷹が飛んでいた。その姿を見て利吉は小さく笑った。人間の世界で、けもののように生きながら、けれどもたった一人の人のためだけに優しい人間であろうと生きていく。それが利吉の生き方だった。