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大江戸転生主従パロ 手を放す 15 ~帳面~


横書き
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縦書き
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 永楽屋の奥座敷に長次が現れたのは、その日の夕暮れのことだった。
 文次郎が帳場を閉めて奥座敷に通すと、長次は壁際に腰を下ろして紙を一枚差し出した。墨は使わず、薄い炭で書かれた走り書き。水に濡れれば消える書き方だ。瓦版にできない情報を渡す時のやり方だった。
 留三郎がその紙を受け取り、行灯に近づけて読んだ。
「……番替えの時刻?」
「もそ」
「納め蔵の時も、組屋敷の時も、出火が見回りの隙間に入ってると……。偶然じゃないな」
「もそ」
 長次はもう一枚、紙を出した。こちらは文字ではなく記号のようなものが並んでいる。時刻と場所を示す符牒だった。
「これは」
「……出せない話」
 長次が口を開く。短い言葉で、納め蔵の件に圧がかかったと告げる。
「圧?」
「御用達筋から……記事にするなと」
 留三郎の眉が寄る。文次郎が帳場の方から歩いてきて、紙を覗き込んだ。
「御用達筋が動いたのか。どこの」
「……もそ」
「言えない筋か」
「もそ」
 長次は壁に背を預けたまま、天井を見上げた。
「……もう一つ」
「なんだ」
「木札」
 留三郎と文次郎は顔を見合わせた。長次は懐からもう一枚紙を出し、畳の上に置いた。文次郎が紙を持ち上げて長次の話を復唱する。
「組屋敷の小火の跡を歩いた者がいる。札の位置が本来とずれていた。一つは地面に落ち、もう一つは逆向きに立っていた──か」
「小平太が控えに書いていた話と同じだな」
「ああ。同心の控えの裏を、別の筋からも取れたことになる」
 二人の話に長次は立ち上がりかけ、一言付け足した。
「……利吉さんの、譫言」
 留三郎が顔を上げた。
「伊作のところで聞いた話だな。札、木戸、番替え。利吉さんが熱に浮かされて漏らした言葉だ」
「……合う」
 長次はそれだけ言って、今度こそ立ち上がった。
「記事には……できない。口伝で回す」
 永楽屋を出る長次の背中を、留三郎は見送った。瓦版屋が自分の名を伏せて情報を動かす。それは長次にとって職業の掟を曲げることだ。けれども曲げてでも渡すべきだと判じたものが、あの紙の上にあった。



 翌朝、小平太が留三郎を訪ねてきた。
 同心の装束のまま、火消しの詰所に顔を出す。上役の目がある場所にわざわざ来るのは、公の用件に見せかけるためだ。
「食満殿。町の火消しとして、最近の放火について情報をいただきたい」
 表向きの用件を済ませた後、二人は詰所の裏手に回った。小平太の声が低くなる。
「長次から聞いた。木札と番替えの件、私の控えと一致している。これで筋が二本になったな」
「奉行所は動けるのか」
「まだだ。だが──動くための下拵えはできる。長次の口伝を町の耳に入れておけば、何かあった時に証人が立つからな」
 小平太は懐から控えの帳面を出し、新しい頁を開いた。
「伊作のところに、仙蔵がいると聞いた」
「ああ。療養の名目で詰めているそうだ。利吉さんが火事で怪我をしてそこで養生してるんだが──仙蔵の読みだと、犯人は利吉さんに罪を着せようとしているという話だろう。利吉さんは蔵に出入りしていて、匂いを纏っていた。利吉さんが死ねば、死人に口なしだ。犯人の筋書き通りに片がつく」
「蔵に……」
 小平太は深くは追求せずに頷いた。
「わかった。私の方でも、診療所の周辺に目を配っておく。同心の巡回路を少しずらせばあの辺りを通ることはできる。不審者の動線を潰すぞ」
「ああ、助かる。罪を着せられた人間が殺されたら真犯人の言い分だけが残ることになる。そうなれば俺たちがいくら証拠を集めても覆せなくなる」
 小平太は帳面を閉じ、懐に戻した。
「長次も動いている。町の噂を操作して、あの辺りに人の目が集まるようにしていると聞いた。瓦版屋の情報網は広いからな。犯人も動きにくくなっているはずだ」
 小平太はそう言って表通りに戻っていった。同心の背中が人混みに消えた。


***


 土井は屋敷に戻った。
 仙蔵に言われた通り、屋敷の中から家老の動きを見る。それが今の自分の役割だ。朝は家中の者に顔を見せ、昼は寺子屋で子供たちに教え、夕方には屋敷に戻って公務を行い若殿への報告を済ませる。その合間を縫って土井は毎日伊作の診療所に足を運んだ。
 建前は利吉の容態を把握し、話せる状態になったら事件の詳細を聞き取るという名目だ。役目として行き、役目として利吉の顔を見る。役目として伊作に容態を尋ね、役目として帰る。
 そう言い聞かせて、毎日通った。

 利吉の容態は、少しずつ持ち直していた。
 伊作が二番目の山だと言っていた膿みの気配は、膏薬と薬湯が効いたのか辛うじて押さえ込まれていた。熱は上がったり下がったりを繰り返したが、日を追うごとに下がっている時間の方が長くなった。右腕はまだ動かせない。背中の火傷は寝返りを打つだけで痛みが走るらしく、利吉は俯せのまま動かない時間が長かった。
 土井が来ると、利吉は目だけを動かし、それでも丁寧に迎えた。
「若」
 やり取りは、いつもその一言から始まった。土井は枕元に座り、伊作から聞いた容態の報告をして屋敷の様子を簡潔に伝えた。利吉は黙ってそれを聞き、時折質問を挟んだ。それは屋敷の警備に関することばかりで、自分の身体のことについては一度も聞かなかった。土井もまた、利吉の容態については伊作に任せて本人には聞かなかった。聞けば言葉が溢れてしまいそうだった。
 代わりに土井は、帰り際にいつも同じことを言った。
「また明日来る」
「……はい」
 利吉の返事はいつも短かった。静かで短くて、だからその中に何が詰まっているのかは土井にも分からなかった。



 十日目の夜のことだった。その日は土井の屋敷での用事が長引き、診療所に着いた時にはもう日が暮れていた。伊作は往診に出ており、仙蔵は裏庭の見回りに立っていた。土井は一人で利吉の部屋に入った。
 利吉は目を覚ましており、行灯の灯りをじっと見つめていたようだったが、土井が襖を開ける音に視線を向けた。
「若……。今日は遅かったんですね」
「ああ。少し、屋敷で手間取った」
 土井はいつもの枕元に座った。利吉の左手のすぐ傍に膝をつく。十日間同じ場所に座り続けて、畳のその一角だけがわずかに沈んでいるように感じた。
 いつもであれば、屋敷の報告をする。けれどもこの夜は言葉が出てこなかった。屋敷の中で利吉に対する噂は収まっていない。家老の暗躍を暴くまでは手が出せず、けれども家老がいる限り噂の根は断てない。土井は利吉のことを悪し様に言う声を耳にするたびに何食わぬ顔で通り過ぎなければならなかった。台所の下男、庭掃除の小者、廊下ですれ違う下女。声は低くなっても消えない。消すには家老を落とすしかないのだと分かっていても、今日も聞こえてきた声の残滓が喉の奥に溜まっていた。
 それを利吉に伝えるわけにはいかなかった。お前は疑われていると。屋敷に戻っても居場所はまだないと。──そんなことを、この布団の上で動けない人間に言えるはずがなかった。
 利吉も何も言わなかった。
 行灯の火が小さく揺れ、二人の影が壁に伸びている。外から虫の声が聞こえ、仙蔵が裏庭を歩く気配がかすかに伝わるが足音は聞こえない。忍の歩き方だ。沈黙は続いた。
 長い沈黙だった。二人の間にある距離は、言葉で埋められない種類のものだった。埋めようとすれば壊れる。だから土井は黙っていた。黙っていることだけが、今できる唯一の誠実だった。
 利吉が、ふと口を開いた。沈黙に耐えかねた訳ではない様子で、むしろ土井が言葉を発しあぐねているからこそ口を開いた様子だった。
「若」
「……何だい」
「どうして、毎日いらっしゃるんですか」
 土井の指先が、膝の上でかすかに動いた。
「……君の容態の確認だよ。回復して、話せるようになったら──」
「それは分かっています」
 利吉の声は静かだった。静かで、いつもの報告の声とは違うものが混じっている。
「でも……毎日来る必要は、ないと思います。ここには医者がおりますし、若がわざわざ足を運ばなくとも……」
 利吉は行燈から目を外し、土井の方を見た。灯りに照らされた利吉の目は熱のせいで潤んでいて、潤んだ目の奥に困惑があった。
「なぜ、こんなに……」
 言葉が途切れた。利吉は唇を噛んで、視線を行燈の灯りに戻した。
 土井は答えられなかった。
 答えは喉の奥にある。ずっとあった。百年前からあったものだ。けれどもそれを口にすればこの部屋の空気が変わる。変わってしまえば元には戻せない。利吉の立場を、利吉の名を、利吉の忍としての誇りを──全てを巻き込んで、取り返しのつかない場所に二人を連れていってしまう。
 土井は無意識に懐に手を伸ばした。帯の内側に、硬い感触がある。布に包まれた螺鈿の櫛。苦しい時も死ぬ時も共にあろうという、蛇と稲穂の意匠。
 指が櫛の輪郭をなぞった。布越しに漆の滑らかさが伝わる。これを渡せば全てが伝わってしまう。言葉にできないものがこの櫛の中に全て入っているのだ。渡したい。渡したくて、手が震えた。
 けれども──渡せない。
 渡せば、利吉は戸惑うだろう。自分が彼の戸惑った顔を見ることに耐えられるかどうかも分からない。何より、利吉にはまだ疑いがかかっている。仙蔵が居てくれているとはいえ家老の手先の目がどこにあるかも分からない。主君から縁結びの櫛を受け取った忍──万一その噂が屋敷に届けば、家老はそれすらも利用するだろう。
 土井は懐から手を引いた。
「……役目だからだよ」
 それだけを言った。利吉は何も答えない。土井もそれ以上は言わなかった。行灯の灯りが揺れ、二人の影が壁の上でかすかに重なって、また離れた。

 答えないままに利吉は目を瞑り、やがて吐息は浅い寝息に変わった。薬湯の効きが回ってきたのだろう。土井は利吉の左手のすぐ傍に自分の手を置いた。触れてはいない。指先が布団の上で五寸ほどの距離を隔てている。その五寸が、今の自分たちの距離だった。
 土井は利吉の寝顔を見ていた。行灯の灯りに照らされた横顔は火傷の疲れで頬がこけていたが、眉の間の皺が消えて穏やかだった。眠っている時だけ利吉は忍の顔を外す。寝息のたびに胸が上下し、左手の指先がかすかに動く。
 前世でも──こうして利吉の寝顔を見ていたことがある。孤児院の小さな部屋で、昼寝をしている利吉の傍に座って。あの時は手を伸ばせた。伸ばして、額にかかった髪を払ってやることもできた。けれども今は、五寸の距離が百年よりも遠い。
 土井は立ち上がり、音を殺して部屋を出た。廊下で仙蔵とすれ違った。仙蔵は何も言わずに、土井の顔を一度見て小さく頭を下げただけだった。


***


 永楽屋の奥座敷に留三郎が油紙の包みを持ち込んだのは、火事から十二日目の朝だった。
「これが、焼け跡から出てきた」
 留三郎は包みを畳の上に開いた。中身は半端に焼け残った紙片だった。端が焦げて丸まり、墨の字は煤で汚れている。けれども完全には燃え尽きておらず、文字の断片がいくつか残っていた。
「大名家の蔵筋を片づけている鳶の連中から、留守居役から燃やせと指示されたものを回してもらった。手前の蔵──帳面棚のあった蔵の焼け跡から出たものだ」
 文次郎が紙片を手に取り、行灯に近づけた。目を細めて文字を追う。煤を指先で軽く払い、裏も確かめる。
「……これは」
 文次郎の手が止まった。
「帳面だ」
「帳面?」
「ああ。間違いない。紙質が商用の帳面のものだ。漉き方に特徴がある。町の紙屋が漉いた普段使いの紙じゃない。──大名家の出入りの帳面に使う、厚手の和紙だ」
 文次郎は紙片を畳の上に並べた。五枚ほどの破片が大きさも形もばらばらに散らばる。文次郎はそれを一枚ずつ手に取り、残った文字を読んでいった。
「数字が並んでいる。品目と数量だろう。この字は──『反物』か。こちらは『樽』。金額を示す符牒が入っている」
「符牒?」
「ああ。商家や大名家の帳場では、金額を数字でそのまま書かずに符牒で記すことがある。店ごとに符牒が違う。盗み読みされても金額が分からないようにするための暗号だ」
 文次郎は紙片を並べ直し、符牒の部分を指で示した。
「この符牒には癖がある。勘定の付け方に独特の流儀が見える。帳面をつける人間には書き癖が出るんだ。繰越しの仕方や控えの取り方、数字の位取り。この帳面をつけた人間は月締めではなく旬ごとに勘定を切っているな」
 文次郎は紙片を二枚、並べて置いた。
「それからこの五枚の中に、同じ品目に対して二種類の符牒が使われている箇所がある。こっちの紙片には『反物』に対して一つの符牒。こっちにも『反物』があるが、符牒が違う。同じ品目で同じ筆跡、同じ紙質なのに、金額の書き方だけ別になっている」
「……どういう意味だ」
「帳面を二重にしている」
「二重?」
「表の帳面と裏の帳面だ。品目と数量は表に記し、金額だけ別の符牒で裏に控える。表だけ見ても金の流れは分からない。裏の符牒を知っている者だけが、実際にいくら動いたかを把握できる仕組みだ」
 留三郎が紙片を見下ろした先で、文次郎は紙片を指で叩いた。
「火事の目的は──これだ。屋敷を燃やしたかったんじゃない。この帳面を消したかったんだ。記録を。証拠を。金の流れの痕跡を」
 留三郎は黙って文次郎を見た。文次郎の目は紙片に据えられたまま、頭の中で何かを組み立てている。両替商の目だった。金の匂いを嗅ぎ分ける、商人の目。
「それなら、俺が追っていた油の金の筋とも筋が合う。小さな店への油の買い付けに使われた請け人の名のうち何件かの判を照合できた。判を押した人間は同じじゃないが、書き方の癖が似ている。複数の人間が同じ流儀で請け判を押しているんだ。この帳面の符牒の流儀と──」
 文次郎は紙片の符牒を指し示した。
「同じ系統だ。同じ帳場で仕込まれた人間がやっている」
「大名家の帳面を記してる人間と、同じ系統ってことか」
「そうだ。大名家の留守居役の帳場だ。留守居役のもとで勘定を学んだ人間が請け判を押して油を手配している。そして留守居役自身の帳面は、それを隠すために二重の帳面になっているんだろう」
 沈黙が落ちた。
 文次郎は紙片を一枚ずつ丁寧に重ね、油紙の上に戻した。
「仙蔵が言っていた通りだ。内部犯で、上位の者。これは帳面の不正を隠すための放火だ。蔵の帳面を消して金の流れを断ち切ろうとした。町屋の火事は試しでやったか──仙蔵が言うように手口を同一に仕立てて他の人間に罪を着せようとしたんだろう」
「……で、その帳面の不正の中身は、この焼け残りからは分かるのか」
「生憎ここにある焼け残りだけでは全貌は分からないが、符牒の癖と金の筋を突き合わせれば少なくとも留守居役の周辺に金が集まっていたことは示せる。あとはこの帳面の数字と実際に領地から来ている産物の量を突き合わせれば、水増しや横流しの痕跡が浮かぶはずだ。だがそれは俺たちにはできない。領地の実態を知っている人間にしか」
 文次郎はそこで言葉を切った。紙片を見下ろしたまま、何かを考えている。
「……留三郎」
「なんだ」
「この帳面は、西の大名の蔵から出たものだ」
「ああ」
「お前が利吉さんを運び出したのはこの家だな。誰の屋敷だと言っていた?」
「──」
 留三郎の手が止まった。あの夜のことを思い出す。火事の報せを聞いて駆けつけ、伊作と一緒に利吉を板に載せて運び出した。裏門で、門番が何か言っていた。屋敷の名を。西の大名の屋敷の、家名は確か──。
「……土井……?」
「やはりそうか」
 文次郎の声は低かったが、確信を含んでいた。
「利吉さんは土井家のご家中なんだろう。そして土井先生の傍仕えでもある」
「……お前、何が言いたい」
「土井家の屋敷に傍仕えを置いている土井先生は、商家の四男なのか?」
 留三郎は答えなかった。文次郎は続けた。
「あの先生のことを、住職はさる商家の四男だと言っていた。俺は西の藩のご家中だと聞いていた。どちらも嘘だろう。土井先生は──土井家の人間だ」
 留三郎は黙って文次郎を見た。寺子屋の柱の材が上等だったこと。格子の造りが武家屋敷に似ていたこと。思えば不思議なことばかりだった。
 沈黙が落ち、留三郎は再び紙片を見下ろして、それから文次郎を見た。
「……仙蔵は知ってるのか」
「知っているだろうな。仙蔵が何も言わなかったのは、先生のお立場を守るためだ」
「お前は、いつから」
「今だ。今、繋がった」
 文次郎は紙片を油紙の上に戻した。
「そして──土井家の四男が、ちょうど先生と同じくらいの年頃だとも聞いている。西からの商人が、その四男が最近領地の村に視察に行ったと言っていた」
「……」
「土井先生はここの所ご不在だったろう。期間も合う。領地の村を回って産物の実態を見てきた人間がこの帳面の数字と突き合わせれば、水増しの全容が分かる。──先生にしかできないことだ。俺たちは先生のお立場には踏み込めない。だがこの紙片は先生に届ける必要がある。仙蔵が繋がっているなら、仙蔵に渡せば先生にも届くだろう」
「……ああ。仙蔵は伊作のところにいる」
「これで──全部繋がったな。油の金の筋。防虫香の偽装。番替えの手口。焼け残った帳面。全部が同じ方向を指している。蔵の中身を知っている者が、自分の不正を消すために火を使い、香りを纏った同一犯の手口に見せかけて、別の人間に罪を着せようとした」
「利吉さんに──」
「そうだ」
 文次郎は油紙の包みを丁寧に縛り直し、留三郎に渡した。留三郎は受け取りながら独り言ちた。
「……利吉さんが、自分で自分を救ったのかもな」
「どういう意味だ?」
「帳面棚は芯まで燃えたが、棚の裏板と壁の間に紙片が挟まっていたそうだ。帳面をぎゅうぎゅうに詰め込んでいたから、一番奥の分が壁際に押し出されて火の回りが遅い場所に逃げたんだろう。蔵の漆喰が持ちこたえたのも大きい」
 文次郎が紙片をじっと見つめた。留三郎は続ける。
「だが一番大きいのは、蔵の扉が途中で開いたことだ。密閉されたまま燃え続ければそのまま全焼していた。扉が開いて外の空気が入ったことで、火の回り方が変わったんだ」
「扉を開けたのは──利吉さんだな」
「そうだ。結果として、帳面の一部が残った」
 留三郎は油紙の包みを懐に仕舞い、永楽屋を出た。日差しが目に眩しかった。


***


 留三郎が伊作の診療所に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
 仙蔵は奥の間で茶を飲んでいた。留三郎が油紙の包みを開いて見せると仙蔵は紙片を一枚ずつ手に取り、符牒を読んだ。それは役者の目ではなかった。仙蔵は商人の帳面の書き癖を見抜く目をどこで養ったのだろう。留三郎は不思議に思った。
「……文次郎の言う通り、二重帳面の控えだな。これを先生に渡す」
「頼む。先生は今日は来られるのか?」
「ああ。毎日いらっしゃるからな。今日中に回す」
 仙蔵は紙片を懐に仕舞った。留三郎はそれ以上何も聞かなかった。この男は幼馴染たちの中でも特に先生と親しい。それがどういう筋なのか──土井先生が本当はどういった立場なのかを知れば、それは自然と見えてくる絵図だった。

 その夜、仙蔵は土井が診療所を訪れた際に紙片を手渡した。土井は紙片を一枚ずつ手に取り、長い間見つめていた。焦げた符牒の断片を指でなぞり、目を閉じて、また開ける。
「献上品の項目がある。それが領地の村で見てきた数字と……合わない」
「合わない?」
「帳面の数字が、村で聞き取ったものよりも多い。視察で聞いた生産量では、これだけの献上品を出すのは無理だ。数を水増ししている。献上品には、相応の褒美を与えるのが筋だ。品が多いということは、渡した褒美も多いということになる」
 土井の声は平坦だった。平坦に努めている声だった。
「発注も同じだ。屋敷の運営費として計上されている金額が、実際の支出よりも大きい。差額が──どこかに消えている」
「消えた先は」
「家老の懐だろう。長年にわたって、少しずつ。最初は屋敷の運営費の不足を補うためだったのかもしれない。段々麻痺して、額が膨らんだ」
 土井は紙片を油紙に戻した。
「代変わりの話が出ていることを受けて、若殿が蔵の総点検を始め、私が領地に視察に出た。領地の控えと若殿の調べ、二つが揃えば不正は露見する。家老にとって、私の帰還がその期限だった」
「だから、帰る前に帳面を焼こうと」
「ああ。付け火が起こり始めたのも、ちょうど視察の話が持ち上がってからだ。そして利吉くんに罪を着せようとした」
 土井の指先が、油紙の上で止まった。
「……仙蔵。文次郎に伝えてくれ。この符牒と私の視察報告を突き合わせれば水増しの全容が見える。それから、小平太にも同じことを」
「文次郎には留三郎を通じて回します。小平太には文次郎が回すはずです」
「頼む」
 仙蔵は頷いた。
「先生。留三郎がもう一つ言っていました。この紙片が焼け残ったのは、蔵の扉が途中で開いたからだと。犯人は帳面を完全に灰にするつもりだったのに、それが崩れたのは──」
 土井は何も言わなかった。蔵の扉を蹴破ったのが誰であるかは、この部屋にいる二人とも知っている。
「証拠は揃いつつあります。あとは、先生の決断です」
 仙蔵はそれだけ言って、部屋を出た。
 一人になった土井は、診療所の薄い壁越しに隣の部屋から利吉の寝息が聞こえるのを感じていた。
 利吉が命を賭けたことが、結果的に証拠の欠片を残した。全てが一つの方向を指している。あとはおのれ自身で、表の手を使うしかない。
 土井は立ち上がり、音を殺して診療所を出た。夜道を、屋敷に向かって歩き始めた。