【原利土1819IF】頸と心12
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十二 気付き
黒が眠りに落ちた後も、利吉は眠れずにいた。
残り火が微かに赤く燃えているだけで、囲炉裏の火は落ちかけている。月明かりが薄く差し込む中で、黒は利吉の傍で眠っている。いつもより近い。さっき自分から寄ってきた距離のまま、黒はそこで眠りに落ちた。
利吉の心は穏やかではなかった。
黒が「分かっている」と言った瞬間、胸の内側がきしんだ。火の番をしている手は止めなかった。薪が崩れる音も火の粉の乾いた跳ね方もいつもと同じで、外の風が枝を擦る音も変わらない。世界の輪郭は平然としているのに、自分の中だけがざわついていた。
『分かっている』
黒はそう言った。敷物も上掛けも、首巻きも篭手のことも、全部気づいていると。利吉が黒に本当は何をやっているのか、全部分かっていると。
利吉は自分を嗤った。当たり前だと思った。勘づくようなことをしてきたのだ。一番旨い肉を渡す。首が冷えないように布を用意する。手がかじかまないように篭手を作る。床が冷えないように敷物を作る。夜が寒くないように上掛けを作る──。冬の寒さの中では怪我人は傷の痛みがぶり返しやすいからだと、それは合理ではあったけれどそう言い張っているだけに過ぎない。所詮は捕虜なのだからその程度放っておけばいいことだ。利吉は自分が何をしているかを自分で分かっていた。あれは合理の形を借りた贈り物だった。否、贈り物というより──自分の情を物にして差し出す行為だった。言葉にできないものを、言葉の代わりに渡している。そうしなければ手の行き場がなかった。黒に向かい続ける心の行き場があまりになかった。
(……知られてほしくなかったんだが)
利吉はそう思う。思うのに、その直後、もっと厄介な感情が浮かぶ。
(むしろ──知ってほしかったのか)
どちらが本当か、自分でも分からない。あるいは両方とも本当なのだろう。知られれば終わる気がしていた。忍としての自分が終わる。合理で固めてきた仮面が剥がれる。情に足を取られる。けれど──知ってもらえないまま消えられるのも耐えられなかった。
利吉はもう一度嗤った。どうせいつかいなくなる男に、どうしようもない感情を抱いている。理屈では何度も切り捨てた。切り捨てたはずなのに、黒が座る位置が半歩近づくだけで胸の奥が反応する。呼吸が半瞬止まる。心臓が微かに音を立てる。
(無様だな)
利吉はおのれを内心で罵る。こんなふうに揺らぐのは未熟以外の何者でもない。忍として失格だ。分かっている。分かっているのに──止められない。
黒の横顔が近い。火の光に照らされて目尻の線まで見える。この男は飄々としているようで、時々ひどく脆い顔をする。その脆さは利吉にとっては毒だった。守りたいと思ってしまう。守る資格などあるはずもないのに。
黒はさっき、火を見つめたまま言った。
『分かっている。お前が何をくれているか。全部』
その言葉は、利吉には挑発にしか聞こえなかった。もっと言えば誘いだ。こちらが出方を間違えれば、そこに手を伸ばしてしまうたぐいの誘い。抑えてきたものを解いてしまう誘い。忍が、忍であることを忘れる誘い。
(何のために……あれを言った)
利吉は喉の奥で問いを飲み込んだ。問えば答えを引き出してしまう。引き出した答えがこちらの望むものと違ったらどうする。違った瞬間、利吉は自分の情けなさで息ができなくなるだろう。
黒は何も言わなかった。ありがとうとも嬉しいとも言わずに、ただ「分かっている」と告げて沈黙を置いた。その沈黙が、余計に利吉をどうしようもない気分にさせる。
野良──と呼ばれた名が耳の内側に残っている。野良。捕虜のために考えた呼び名。軽くて乱暴で、距離があるはずの名。それなのにその名で呼ばれると胸が熱くなる。利吉はそれがどうしようもなく嫌だった。
火が小さくなっている。利吉は薪を一本、火の縁へ押し込んだ。赤い節がぱちりと鳴って割れる。火の粉が跳ねて闇へ消える。短い光。短い命だ。
黒がいつもより、半歩近い。触れそうで触れない、この僅かな隙間が境界だった。利吉はこれを守るべきだと知っている。境界を越えた瞬間、きっと自分は戻れなくなる。黒がここを去るのを、きっと止めたくなる。止める権利などない。止めるのならば雇い主にこの男を突きださなければならない。もしそうでなかったとしても、止めたところで黒が望むのは利吉ではないかもしれない。
黒の言葉は、利吉の中の矛盾を正面から照らしていた。知られている。知ってほしかった。知られたくなかった。知ってほしい。近づいてほしい。近づかれたくない。逃げてほしい。逃げてほしくない──。
利吉は唇を噛んだ。痛みで自分を現実に繋ぎ止める。現実にしがみつかなければこの男の言葉に引きずり込まれる。黒はあのとき、何もかもを利吉に任せていた。あたかも「これでいい」と言っているような顔だった。自分の中で何かを決めたような顔で。利吉の中に火種を置いたまま、平然としているような顔だった。
誘っているのかと、利吉はそう思ってしまう。思ってしまった瞬間、胸の奥はさらに乱れる。黒は何を望んでいる。何を返すつもりだ。何を奪うつもりだ。一体何を求めて──野良の気持ちに気づいたと告げた。
利吉の手が、膝の上で微かに震える。黒は目を閉じている。見ていないはずだ。眠っているはずだ。けれどこの男は目を閉じている時ほどこちらを見ている気がする。気配で、熱で、呼吸で、全部を拾っている気がする。
利吉は息を吐いた。声になりかけた言葉を喉の奥に押し込める。問い詰めるな、と、そう自分に命じた。問い詰めればここは戦場になる。黒と自分との勝ち負けの話になる。黒はそういう戦いが得意だ。戦いに持ち込めば自分は負ける。負けた先に何があるのか、それを知るのが利吉は怖かった。
だから、今は沈黙するしかなかった。沈黙して、火を見て、薪を足して、いつも通りを装う。けれど心の内側では黒の言葉がいつまでも燃えていた。
『──分かっている。全部』
その短い言葉が、利吉の喉元に刃のように当たっている。怖いのはその刃の鋭はではない。もうとっくに利吉自身が、その刃に頸を差し出したくなっていることだった。
***
秋ももう終わり頃になり、吐く息もじきに白くなりそうだった。ある日の陽が傾き始めた頃に、黒は利吉と一緒に尾根に出ていた。
山腹の獣道を辿り、食料を探して回った末のことだ。黒の背には蔓で編んだ粗い背負い籠が揺れている。中身はまだ心許ない。乾いた木の実が幾つかと、根を掘り返して土を払った芋が二、三本。利吉の手には短い鉈があり、歩きながら折れ枝を選び、火に回せそうな乾いた薪束をまとめている。二人とも無駄口は叩かないが、何を探しているのかだけは互いに分かっている。今夜を越すための糧だ。腹に入るものと、囲炉裏にくべるもの。
尾根に出ると風が通り、汗の乾く匂いと土の匂いが入れ替わるように胸へ入ってきた。眼下には平野が広がっている。枯れ草の色をした冬の野だ。その向こうには街道が走り、さらに向こうには城の輪郭がぼんやりと霞んでいる。
黒は景色を眺めながら息を整え、背負い籠の紐を肩に食い込ませたまま短く肩を回した。利吉もまた足を止め、薪束を地面に下ろして篭手越しに指先を揉む。冷えた土を掘っていたから、指が痺れている。
その時ふと、黒の目に動くものが目に入った。
枯れ色の野を横切るように、街道沿いを進む一団がある。旗印が風にたわみ、馬の首が上下し、槍の穂先だけが陽を弾いて細く光った。軍勢だ。規模は小さいが隊列は崩れていない。合戦帰りではなく、進軍中の部隊だろう。
黒は目を細めた。
利吉の敵国の旗だ。黒がいた国の旗だ。軍勢の顔ぶれにも見覚えがある。だが、どこかが噛み合わない。
先頭を行く馬上の男に視線を据える。将の顔だ。若い。いや、若くはない。二十を過ぎているように見える。頬が締まり、目つきに疲れがある。けれど、その輪郭には覚えがあった。どこで見た。いつ。何の場面で。
記憶を探る。
あの顔は──。
そうだ。殿の小姓だ。殿の傍に控えていた若い足軽。まだ十五になったばかりの少年で元服を済ませたばかりだった。あの幼い面影が、なぜいま馬上の将の顔になっている。なぜあんなにも時を重ねた顔をしている。
「知っている顔か?」
黒が動きを止めたことに気づいて利吉が傍らで言った。薪束を抱え直し、黒の視線の先を追う。黒は唾を飲み込み、短く返した。
「知っている。だが──おかしい」
「何がだ」
黒は答えられなかった。
十五の少年が将になっている。二十を越えた顔をしている。それは数日や数ヶ月では起こりえない。数年だ。五年──いや、もっとだろうか。喉の奥でその数字だけが重く転がる。
「あれは確か……」
利吉が将の名を呟くと、黒は弾かれたように振り返った。
「なぜその名を知っている」
利吉が首を傾げる。
「有名だろう。若くして頭角を現した将だと聞いている。三年前の合戦で名を上げたとか」
三年前。
黒の思考は、そこで一度止まった。三年前という音が頭の内側で反響する。少年が将となり、その名が広まるまでに三年。つまり──。
胸の底から、あの違和感がもう一度せり上がってきた。
最初に目を覚ました時から感じていた「ずれ」だ。空気の匂いが違う。風の流れが違う。草木の生え方が違う。些細な差異が積み重なって、忍の感覚だけが「何かがおかしい」と告げていた。あの時は考える余裕がなかった。生き延びることで精一杯で、そのことを深く追求したりはしなかった。だが今は違う。こうして食い扶持を探して歩ける程度には息が整ってしまった。
黒は利吉を見た。彼の手には土を掘った泥が薄く残っている。黒の背負い籠の中で、木の実がかすかに擦れる音がした。今夜の鍋に入るかもしれない音だ。その現実が、かえって胸を刺す。
「……野良」
「何だ」
「お前に教えた武器庫には、何があった」
利吉は怪訝そうに眉を寄せた。何を今更、という顔になる。
「刀と火薬だ。古いが使えそうなものがいくつか」
黒の声が硬くなる。
「古い、とは」
「そのままの意味だ。錆びかけた刀と、湿気た火薬。何年も放置されていたように見えた」
黒は息を呑んだ。
あそこは、隠したばかりの場所だ。自分の手で隠した。追っ手を撒き、時間を稼ぐために、武器と情報を分散させた。その一つが廃寺の床下だった。隠したのはせいぜい二月前のはずだ。それなのに刀が錆び、火薬が湿っている。
何かがおかしい。
黒は頭の中で、断片を繋ぎ合わせていった。追手に追われて崖から落ちた。落ちる瞬間、天地を裂くような轟音があった。そして気がつけば、あの崖とは違う山の中にいた。
匂いが違う。風が違う。景色が違う。それだけではない。
小姓だった少年が将になっている。武器が錆びている。
──時が、ずれている。
黒は自分の考えを疑った。
馬鹿げている。時は流れるものだ。戻ったり、先に行ったりするはずがない。けれども他に説明がつかない。あの轟音は雷ではなかった。では何だ。分からない。分からないが、結果だけが手元に残っている。自分はあの時、時を跳んだのではないか。数年先の世界に落ちてきたのではないか。
黒は震える手を握りしめた。認めたくなかった。認めれば世界の形が変わってしまう。自分を追っていた忍からも、組織からもあの日々からも、自分は数年分先へ進んでいる。あの夜焼け落ちた屋敷も死んでいった者たちも、すべて遠い過去になっている。自分だけが取り残されて──いや、自分だけが飛ばされて。
「おい」
利吉の声がして、黒は顔を上げた。いつの間にか膝をついていた。視界が揺れている。息が浅い。息ができなくなる兆しだと分かっているのに、止められない。
「クロ……どうした?」
利吉の手が肩に触れる。その重みで、少しだけ現実へ引き戻される。
黒は息を整えようとしながら、嘘をついた。
「……何でもない」
何でもないわけがない。だが今は言えない。言ったところで信じられる話ではない。自分自身がまだ信じ切れていない。
「座れ。顔が真っ白だ」
利吉は黒の腕を取り、近くの岩に座らせた。水筒を差し出す。黒は受け取って口をつけた。冷たい水が喉を通り、胸のあたりの熱が少しだけ引いた。
利吉は傍に立ったまま、何も言わずに待っていた。問い詰めない。急かさない。ただ黙っている。その沈黙が今の黒には有難かった。
黒は水筒を返し、空を見上げた。
夕暮れの空だ。茜色に染まった雲がゆっくり流れていく。空は変わらない。数年経とうが数十年経とうが、同じ色をしている。そう思うと、ほんの少しだけ落ち着いた。
──時を跳んだ。まるで浦島太郎のように。
信じられないが、信じるしかない。そう仮定すれば辻褄が合う。空気の違和感も、小姓の成長も、武器の劣化も。
(では私は……どうすればいい)
戻る方法はあるのか。あの崖に行けば戻れるのか。そもそも戻りたいのか。
分からない。帰る場所などない。けれど恐怖だけがある。黒は利吉を見た。いま傍にいるこの男は、数年先の世界の住人だ。自分とは違う時を生きてきた男だ。それでもこの男は自分を助けた。自分もこの男を助けた。火の中を担いで走った。今もこの男は、水を差し出し、黙って待っている。それは変わらない事実だった。
利吉は相変わらず無表情だった。けれども目の奥に僅かな心配の色がある。隠そうとして隠しきれていない。冷徹なふりをして、本当は優しい。完璧なふりをして、本当は不器用だ。
「……野良」
「何だ」
「もう少ししたら歩ける。待っていてくれ」
利吉は頷いた。それだけだった。それだけで黒には十分だった。
黒は目を閉じる。時を跳んだという事実を、まだ受け止めきれていない。だが今は考えても仕方がない。今はただ、今日の糧を得ることだけを考えるしかない。
軍勢はやがて平野の色の中へ溶け、槍の穂先の光も遠ざかっていった。黒は視線をそこから引き剥がし、足元の土に無理に落とした。空を見ても答えはない。街道を見ても答えはない。今はただ、腹を満たすものを探す。それだけに戻れと、自分に命じるように歩き出す。
利吉もまた何も言わず、先に立って獣道へ入った。枝を払う鉈の音が乾いた山気に響く。黒は背負い籠の紐を握り直し、重さの頼りなさに苛立ちそうになるのを堪えた。焦るな。焦って見落とすな。情報は、見落とした者から死んでいく。
やがて斜面が緩み、日当たりの良い尾根筋へ出た。風が少し柔らかい。落ち葉の匂いが濃い。黒が足を止めたのは地面に散った実の殻に気づいたからだった。小さく割れた硬い殻。指で摘まむと、薄い渋みの残る香りがする。椎の実だ。
見上げれば、褐色の葉を残した椎の木が点々と立っている。一本二本ではない。群生している。このあたりは生育が遅く、晩秋まで実が落ちずに残っていたようだった。であれば落ち葉の下を払えば、まだ拾えるだけの実が残っているはずだ。
「……当たりだな」
利吉が低く言った。声に僅かな安堵が混じっている。黒は頷き、背負い籠を下ろした。落ち葉を指先で掻き分け、実を見つけては拾い上げ、明らかに軽いものを避けながら籠へ放り込む。利吉は足元を探って拾った実をまとめつつ、ついでに乾いた小枝を折って束ねていった。囲炉裏にくべる薪がなければ、椎の実も煮ることができない。
拾うほどに籠の底が鳴り、音が重くなる。頼りなかった背中の感触が確かな重みに変わっていく。黒はそれを感じながら胸の奥のざらつきが少しだけ薄まるのを感じた。生きるための作業が、余計な考えを一時だけ黙らせる。
日がさらに傾き、木々の影が長く伸びた頃、利吉が小さく息を吐いた。
「これだけあれば、二、三日は持つな」
黒は籠の口を押さえ、そうだな、と頷いた。帰るぞ、と利吉が歩き始め、黒も続く。籠はずしりと重い。その重さが今はありがたい。手ぶらよりも、何かを持っているほうが気持ちが落ち着く。
山道を下るにつれ、風は冷え、木の間をすり抜ける音が増していった。やがて、枯れた藪の向こうに廃屋の屋根が見えた。利吉が先に近づき、戸口の周囲を一周してから黒へ手で合図した。異常なし。黒は無言で応じ、籠を抱えたまま中へ入った。
囲炉裏の灰は冷えきっていた。利吉は拾ってきた枝を組み、火種を起こす準備を始めた。黒は籠を下ろし、椎の実を水の中に放り込んでは沈む実だけを選り分けていった。沈む実は中身の入っている食える実だ。作業は極々淡々としている。淡々としているのに、尾根で感じた違和感だけが火のない灰のように胸の底へ残り続けている。
囲炉裏に火がつき、ぱちりと小さく爆ぜた。黒は作業しながら利吉に──野良に渡した情報を頭の中でもう一度ほどき直していた。一本ずつ確かめるように繋ぎ直し、断絶するものを探していく。
自分は野良に「場所」と「手順」だけを教え、そこに何があるのかについては何一つ語らなかった。手にした情報が何であるかについてはすべてを野良の判断に任せた。忍としてはそれでよかった。余計な説明は余計な綻びを生む。けれどその合理は、今になって裏目に転じている。
書簡を隠した枯れ木は、雨の降り込みにくい窪みに立っていた。だからこそそこを選んだのだ。枝ぶりも周囲の地形も、風向きも見てあの場所に決めた。油紙で巻き、木箱に収め、あの木の根元に慎重に埋めた。埋めた時点ではすぐに回収させるつもりだった。だから日付は入れても、年までは入れていない。そんなものは必要ないはずだった。必要になる状況など想定していなかった。
だが油紙は──もしかしたら傷んでいたのかもしれない。木箱の合わせ目も僅かに緩んでいたのかもしれない。いくら濡れにくい場所にあっても、何年もの時間が加われば紙は痩せ、墨は褪せ、文字は古びる。とはいえあの場所が雨に濡れないことを知らない人間には分からない。湿気が入ったのだと判断すればそれで済んでしまうだろう。
黒は歯を噛みしめた。野良はあの木を知らない。あの窪みの癖も知らない。黒がそこを選んだ理由も知らない。知っているのは「枯れ木の下に何かがある」という一点だけだった。ならば油紙が劣化していても疑わないし、木箱がくたびれていてもそういうものだと受け取るだろう。
十日の夜明け前に尾根を渡る伝令の件も同じだ。あの尾根は補給路として最適で、細いが抜けが良く、見通しも利いて敵に見つかりにくい。大きな情勢変化がない限り、運用を変える必要もない。だから気が付かなかった。あれから何年も経っているのだということに。
であれば野良が手に入れた書簡の内容は、今となってはかなり古い情報になっているはずだ。黒の中で、ひとつひとつの文言が形を持って浮かび上がる。配置。数。動き。誰がどこにいるか。いつ何をするか。書いた当時は刃になり得た言葉も、年月を経ればただの骨だ。骨を突きつけたところで手柄にはならない。むしろ最悪、笑いものになる。何だこれはと、今さらこんなものをと、野良に向けられる雇い主の表情が嘲笑へ変わるところまで、黒は容易に想像できてしまった。
黒は悩んだ。
教える義理はない。野良は自分の「もっともらしい嘘」を信じただけだ。信じたほうが悪い。忍としてそれが正しい。正しいはずだ。疑え。確かめろ。裏を取れ。そういう世界だ。そういう生き方を自分は叩き込まれてきた。叩き込まれ、染みつき、今もそれを手放せずにいる。だが──。
黒は、尾根で水筒を差し出してきた野良の手を思い出してしまう。問い詰めず、急かさず、ただ黙って傍にいたその沈黙を思い出してしまう。そっけないふりをして、隠しきれない心配の色を目に宿していた男を思い出してしまう。
あの暗い夜に──息ができなくなっていた自分に野良が息を吹き込んでくれたあの日から、血の赤と闇の黒しかなかった自分の中に、白い波が確かに波打ち始めた。黒は野良の顔と囲炉裏の火とを思い浮かべる。あの狭い部屋の中で、互いの体温が逃げ場を失っていた夜。言葉を削いでもなお、伝えたい何かが残ってしまうもどかしい沈黙を思い浮かべた。
教えるべきか。教えないべきか──教えたところで信じるのか。信じたとして、野良はどうするのか。
黒は息を吐いた。長く、ゆっくりと。吐いた息は冷たい空気に溶けて消えるはずなのに、胸の奥の重さだけが消えずに残った。
後
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