【原利土1819IF】頸と心24
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二十四 恋
黒はそれから、ほんの僅か利吉のことを避けるようになった。
意識的なものではなかった。少なくとも最初は。稽古の間合いが半歩広くなった。囲炉裏端で並んで読む書物の距離が膝一つ分遠くなった。利吉が肩にもたれかかってくる前に立ち上がるようになった。どれも些細なことだ。言葉にすれば大袈裟に聞こえるほどの微かな距離。けれども利吉はそれに気付いていた。
ある日の夕暮れ、縁側に並んで座っていた。既に季節は秋に差し掛かり、庭の萩が咲き始めていた。薄紫の花が風に揺れている。
「お兄ちゃん」
「何だ?」
「最近、私と距離を取ってますよね」
黒は答えなかった。
「稽古の間合いも遠いし、本を読んでるときも前より遠いです。……私が何かしましたか」
「何もないよ」
「じゃあ、なんで」
黒は萩の花を見ながら、答える言葉を探していた。正直に答えれば自分の首を絞めることになり、嘘をつけばこの鋭い子供に見破られるだろう。
「……君が成長しているからだ」
だから半分だけ、本当のことを言った。
「成長……?」
「背が伸びたし、剣も強くなった。だから以前とは少し扱いを変えなければならない」
「以前って……半年前のことですよ。そんなに変わりましたか」
「変わった」
「……ふうん」
利吉は膝を抱えた。萩の花を見ている目が、何かを反芻している。そうして少しだけ笑った。口元だけの静かな笑み。以前にもこんな笑みを浮かべていたことがあるような気がする。単純な子供の笑顔ではない、何かを確信した人間の笑み。
「分かりました」
利吉はそう言って立ち上がり、家の中に入っていった。
黒は縁側に一人残され、萩の花を見つめた。苦々しい気持ちが胸に広がる。見抜かれた──何をどこまで見抜かれたのかは分からないが、少なくとも自分が利吉に対して「距離を取らなければならない類の感情」を抱いていることはあの子に伝わってしまっただろう。
黒は息を吐いた。
萩の花が散り始めていた。薄紫の花弁が、夕風に乗って黒の足元に落ちた。
その夜は冷えた。
まだ秋とはいえ高山の夜気は容赦がない。氷ノ山から降りてくる風が板壁の隙間を鳴らし、囲炉裏の残り火だけでは部屋の端まで温もりが届かなかった。
肌寒い夜に利吉が黒の夜具の中に潜り込んでくることは、もう珍しくなかった。最初の数回は「寒いから」と素っ気なく言い訳をしていたが、今では何も言わずに入ってくる。黒も咎めなかった。子供が寒い夜に暖を求めるのは自然なことだ。利吉は黒の背中に額を押しつけるようにして丸くなり、そのまま寝入る。それだけのことだと、ここ最近は思い込もうとしていた。
だが──その夜は様子が違った。
上掛けに滑り込んできた利吉の呼吸が、いつもと違っていた。浅くて速い。緊張しているのだ。眠気に弛んだ呼吸ではなく、覚悟を決めた人間の呼吸だった。
背中から回された手が、黒の寝間着の裾を探っていた。黒は一瞬、意味が分からなかった。そして次の瞬間、意味が分かって血の気が引いた。
これは──たぶん、閨に誘われている。
十二歳の子供に。
黒は慌てた。いや、慌てたという言い方では足りない。全身の血が逆流するような衝撃だった。確かに十二ともなれば元服する男もいる。大人扱いされ始める年頃だ。忍の家の子であればくの一の技も含め、そういう知識だけは一人前にあるのかもしれない。けれど──。
「やめなさい!」
黒は利吉の手首を掴み、自分から引き剥がした。声が思ったより強く出た。ほとんど叱責だった。
利吉の目が見開かれた。暗がりの中でその瞳が揺れている。拒絶されたことへの驚きと、傷つきと、それから怒りが混じっていた。
「……なんで」
「なんでも何もない。駄目だ」
これ以上騒ぐと両親が訝る。黒は声を潜めた。利吉は食い下がってくる。
「どうして。私がまだ子供だからですか」
「そうだ。君はまだ子供だ」
「でももう十二です。元服だってもうすぐ──」
「関係ない」
黒は利吉の手首を放し、身を起こした。夜具の上に座って、利吉と正面から向き合う。利吉も半身を起こして唇を噛んでいた。不服そうだった。侮られたとでも思っているのだろう。
「……分かりました」
利吉の声が冷えた。あの生意気な声が、さらに一段低くなっていた。
「分かりましたよ。でも、一つだけ言わせてもらいます」
「何だ」
「お兄ちゃんは時々、私を見てどこか遠くの誰かを見るような目をしますよね。あんな顔をするから──稚児趣味がおありなのかと思いました」
黒は息を呑んだ。
「私に似た稚児でも、いたんじゃないんですか」
その言葉は正確に黒の急所を抉った。核心を突きながら完全に間違っていた。稚児ではない。利吉だ。目の前のこの子の六年後の姿だ。けれどもそんなことは言えるはずもない。
「そんなものはいない!」
声が上擦った。否定が激しすぎたことは自覚しながら、黒は言葉を続けかけた。
「私は君が──」
「君が?」
利吉が問い返し、黒は黙った。暗がりの中で利吉の目が猫のように光っている。追及する目だ。獲物を逃がさない目。その目に見竦められて、黒は答えられなかった。
何と言えばいい。『君が大事だ』。それは本当だが、利吉が求めている答えにはならない。かと言って本当のことを言っても狂人の戯言にしか聞こえないだろう。関係していたのは利吉だ。この顔。この血。同じ人間の六年後の姿。目の前のこの子を見て何も感じないと言えば嘘になる。いとおしい。途方もなくいとおしい。だがそのいとおしさは、閨に連なる類のものではないしそうあってはならない。この子はあの利吉ではない。あの利吉の幼い頃であって、あの利吉そのものではない。けれどもそれを説明する言葉も、その明確な境目も、黒は持ってはいなかった。
「…………」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
やがて利吉が待ちくたびれてむくれた。唇を尖らせ、眉を寄せ、上掛けを引っ被って黒に背を向けた。さっきまでの大人びた物言いが嘘のような、子供丸出しの拗ね方だった。
「……もういいです」
夜具の中からくぐもった声がした。
「私が馬鹿でした」
「利吉くん」
「おやすみなさい」
撥ねつけるように言って、利吉は丸くなった。
黒はしばらく利吉の背中を見つめていた。上掛け越しにも分かるほど肩が強張っている。恥ずかしいし、悔しいのだろう。拒まれたことが。自分から仕掛けておいて断られたことが。
黒は息をついた。
「利吉くん」
「寝ます」
「一つだけ言っておく」
「聞きません」
「稚児趣味はない」
「聞いてないです」
「君に似た誰かがいたわけでもない。……それは本当だ」
嘘ではなかった。利吉に似た誰かではない。利吉そのものだ。けれどもそれは言えない。
「……ただ、大事にしたい人間の扱いを、間違えたくないだけだ」
利吉の背中が、微かに動いた。強張りがほんの少しだけ緩んだように見えた。
「……大事」
上掛けの中から、小さな声がした。
「大事にしたいから、駄目ってことですか」
「そうだ」
「……ふうん」
声にまだ不満が残っていたが、怒りは引いていた。しばらくして、利吉がもぞもぞと動いた。黒に背を向けたまま、少しだけ身体を寄せてきた。
「……じゃあ」
夜具の中から、小さな声がした。拗ねた声ではなかった。何かを計算している声だった。
「もっと私が大人になったら、いいってことですか」
黒は一瞬、質問の意味を正しく捉えそこねた。大人になったら。いいってこと。何が。何がいいって──。
「まあ……、そうだな……」
言いかけて、自分が何を肯定しようとしたか気づいた。
「いや違う!」
「分かりました」
「いや、利吉くん!?」
利吉は寝返りを打ち、黒の方を向いた。暗がりの中で細められた目は嬉しそうだった。拗ねてなどいなかったし、怒ってもいない。唇の端が微かに持ち上がり、目の奥に光が灯っている。やられた──と黒は思った。何を自分はこんな初歩的な哀車に引っ掛かっているのか。この子は黒の失言を待ち構えていた。揺さぶって、崩して、言質を引き出す。獲物を追い詰める獣の目だ。黒はその目に射抜かれた。それ以上の否定の言葉が喉に詰まった。
(この子は)
動けなかった。この目に覚えがあったからだ。冷たさの質は違う。冷徹さも合理性もまだ育ちきっていない。けれどもその奥で光っているもの──獲物を捕らえて離さない、あの執着の萌芽が確かにそこにあった。あの利吉の目だ。同じ目だ。
「今のは、なしだ。聞かなかったことにしてくれ」
「聞きました」
「利吉くん」
「聞きましたし、覚えました。お兄ちゃんは私が大人になったらいいって言いました」
「言ってない。あれは混乱していたからで」
「混乱したのなら、迷ったってことでしょう」
反論の余地がない。兵法書を三回読んだと威張って言う頭が、こういう場面でこそ遺憾なく発揮されている。利吉は満足そうに目を閉じた。再び黒に背を向け、上掛けを引き上げて丸くなった。
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
利吉の声は弾んでいた。つい先刻までの不機嫌が嘘のように晴れている。欲しい答えを手に入れた子供の充足した声に、黒は暗い天井を見つめたまましばらく呆然としていた。
完全にしてやられた。十二歳の計略に引っ掛かった。考えすぎだ、あれは素直な感情の発露だと思いたいのは山々だが、この子がそんな可愛らしい玉なわけがない。黒は出会ったばかりの頃のあの利吉のことを思い出した。頭が回って無駄なやり取りを嫌うプライドの高いあの男と、最初は散々化かし合いをした。この子供だって少し育てばあれになるのだ。得たい答えがあるのに無意味に子供っぽい駄々など捏ねる筈がない。
程なく利吉の寝息が聞こえ始めた。規則正しい穏やかな呼吸だ。本当に寝ているのか狸寝入りなのか、黒には判別がつかなかった。
(──クソガキめ)
黒は腕で目を覆った。
心臓がまだ少しだけ速い。あの目に射られた瞬間の衝撃がまだ胸の奥に残っていた。まだ子供の目だ。だがあの光を、黒は紛れもなく知っていた。
(駄目だ。考えるな)
黒は寝返りを打ち、利吉に背を向けた。背中越しに子供の体温が伝わってくる。その温もりの中で、黒は長いこと眠れなかった。
***
氷ノ山の冬は、容赦がなかった。
霜月に入ると雪が降り始め、師走には人の背丈を超える場所すらあった。降り方が尋常ではない。音もなく、ただ途方もない量の白が空から落ちてくる。朝起きると戸が開かない。屋根の雪を下ろさなければ家が潰れる。井戸までの道を掘らなければ水が汲めない。山に住むとはそういうことだった。
黒は縁側に座って雪を見ていた。
障子を細く開け、そこから白一色に塗り潰された庭を眺めていた。雪はまだ降っている。重い雪だ。湿り気を含んだ牡丹雪が、杉の枝を撓ませ、垣根を埋め、あらゆる形を覆い隠していく。音はない。雪が全ての音を吸い込んでいる。
あの日も、こういう雪だった。
閉じられた時間の中の冬。利吉が鹿を追って山に入り、遅くまで戻って来なかった日。吹雪が山を白く閉ざし、視界が消え方角が消え、上下左右すら分からなくなった日。黒はたまらず迎えに出た。膝まで埋まる雪を掻き分けて、声の限りに名を呼んだ。見つけた時、利吉は雪の中に蹲っていた。唇が紫で、指先が白かった。あの日から雪を見ると胸が詰まる。
「──また稚児のこと、考えてますね」
声がした。
利吉が後ろに立っていた。腕を組んで、黒の背中を見下ろしている。気配を消すのがうまくなった。いつからいたのか気づかなかった。
「だから、稚児なんていないと言っとるだろう」
「どうだか」
利吉は黒の隣に腰を下ろした。障子の隙間から雪を一瞥し、すぐに興味をなくしたように目を逸らす。この子にとって雪は日常だ。生まれた時からこの山にいる。
「そんな目をしてるくせに、嘘言ったって分かりますよ」
「どんな目だ」
「…………」
利吉は答えなかった。少しの間、黙っていた。腕を組んだまま自分の膝を見ている。何かを言おうとして、言葉を選んでいる顔だった。
「……母上が」
「うん?」
「母上が、父上がいなくて寂しがってるときみたいな目です」
黒は息を止めた。
利吉は黒を見ていなかった。膝を見たまま、素っ気ない声で言った。
「父上が忍術学園に行ってて、なかなか帰ってこない時、母上はそういう顔をします。何でもないような顔をして、でも目だけが遠くを見ていて。戻って来ない人のことを考えてる顔です。……お兄ちゃんは、雪が降るといつもそうなる」
黒は何も言えなかった。
利吉の観察は、正鵠を射ていた。いない人のことを考えている。その通りだ。もうどこにもいない人のことを。閉じられた時の中で雪に埋もれかけた人のことを。最後に言葉を交わした時の、あの冷え切った指を握った感触を。
「……稚児は……本当にいない」
「じゃあ、誰のことを考えてるんですか」
黒は雪を見た。牡丹雪が音もなく降り続けている。
「……もう会えない相手のことだ」
それだけ言った。それ以上は言えなかった。
利吉は黙った。今度は追及してこなかった。ただ黙って、黒の隣に座っていた。
しばらくして利吉が立ち上がった。奥へ行って戻ってきた時、手に椀を二つ持っていた。湯気が立っている。白湯が入った椀だ。利吉は一つを黒に差し出した。
「……ありがとう」
「冷えますから」
それだけ言って、利吉は黒の隣に座り直した。両手で椀を包み白湯を啜る。黒も啜った。温かかった。
それから二人で並んで雪を見ていた。
利吉はもう何も言わなかった。腕も組まなかった。ただ黙って白湯を飲みながら、黒の隣にいた。その沈黙の中には少年なりの精一杯の何かがあった。慰めではない。理解でもない。いない人の代わりにはなれなくても、ここにいることはできるという沈黙だった。
黒は白湯を啜り、目を閉じた。
***
その翌日から、利吉の様子が変わった。
変わった、と言っても大袈裟なものではない。朝の稽古にも付き合うし、本も読む。飯時には隣に膳を並べるし、夜は囲炉裏の傍で並んで座る。日常の形は何一つ変わっていない。
ただ、黒を見る目に、何か考え込むような翳りが差すようになった。
口数が少し減った。いつもなら兵法書の一節について質問を浴びせてくるところを、黙って頁を追っている。考えている顔だった。何かを計っている顔ではなく、何かを噛んでいる顔。飲み込みきれないものを、口の中で転がしているような顔。
三日目の夕方。縁側でいつものように並んでいる時、不意に利吉が口を開いた。
「お兄ちゃんのもう会えない人って、どんな人だったんですか」
「…………」
「深い意図はないです。聞きたいだけです」
思わず身構えた黒に、利吉は庭を見ながら言った。腕を組んで足を投げ出して、何でもないことを訊くような声を出している。けれどもその横顔の頬が、ほんの少しだけ強張っていた。何かを覚悟している目だった。もう黒も利吉がなぜこんな行動をするのか、少しばかり分かり始めていた。
黒は答えを迷った。分かり始めたからこそ、何を言っても危ういと思った。けれども何も言わないというのは通用しない。この子はあの雪の日にもう会えない人という言葉を受け取り、三日間それを噛み続けて、それなりの心構えでこれを聞いている。であればこちらも、それなりの心構えで答えてやるのが礼儀だろう。
「……忍だった」
黒がぽつりと言うのに、利吉が黒を見た。答えてくれるとは思っていなかった顔だった。
「忍……お兄ちゃんと同じ?」
「ああ。火縄銃が得手で、完璧主義で、どんな仕事も一人でこなすような……腕のいい忍者だった」
利吉の眉が微かに動いた。
「……くノ一じゃないんですよね」
「ああ」
「恋仲だったんですか」
直球だった。利吉は再び庭を見ていたが、声だけは淡々としていた。その淡々さに力が入っている。平静を必死で装っているのだと、黒には分かった。
──恋仲。
黒はその言葉を、口の中で転がした。
恋仲だったのか。あの利吉と自分は。身体を重ねた。息を分け合った。名を預けた。頸を差し出した。あれは果たして恋だったのか。
──違う、と思った。
正確に言えば、あれを恋と呼んでいいのかが分からなかった。
恋というものは、もう少し甘いものではないのか。もう少し穏やかで、もう少し温かく、花を贈ったり睦言を交わしたりするものではないのか。自分たちの間にあったものはそういうものとは違った。あったのは剥き出しの命のやり取りだった。管理と被管理。情報源と保護者。損得勘定で始まり、執着と依存に変質し、最後は互いの頸を賭けて終わった。睦言はなかった。花を贈ったこともなかった。いつ離れ離れになるかも分からない中で、一日一日を食い潰すように過ごしただけだ。
ただ、傍にいた。薄暗い場所で、火の傍で、並んで座った。ぬくもりを分け合って眠った。それだけのことが黒の人生で最も安らかな時間だった。それでも──だからこそ、あれが恋だったかと言われると分からない。
「……恋仲とは、違う。たぶん」
「たぶん?」
「……分からん。恋がどういうものか、私にはよく分からない」
利吉が再び黒の方を見た。怪訝そうな顔だった。
「目合いはしたんですか」
「……君は十二だろう。そういうことを聞くものじゃない」
「知識はあります。で、したんですか」
「…………」
黒の沈黙が答えだった。利吉は「ふうん」と言った。声に棘があった。
「なのに、恋仲じゃないって言うんですか」
「だから分からんと言っている」
「分からないっておかしいでしょう。好きだったんですか、好きじゃなかったんですか」
「そういう単純な──」
「じゃあどういう話なんですか」
畳みかけてくる。語気が強い。冷静を装っているが、隠しきれていない。苛立っている。何に苛立っているのか、利吉自身にも整理できていないのだろう。ただ、黒の口から出てくる答えのどれもが歯切れの悪いことに腹を立てている。
「…………そいつのことを考えない日はない」
黒は言った。絞り出すように言った。それだけは、紛れもない事実だった。
「そいつがくれたものを……今も大事にしている。そいつが言った言葉を、今も覚えている」
声が詰まった。止まらなかった。ずっと思っていた。ずっと想っていた。黒は俯いた。俯いて、ぽつりと続けた。
「……あいつがいなくなってから……息がしにくい」
利吉は黙った。
しばらく黙っていた。庭を見ていた。腕を組み直した。組み直して、また崩した。落ち着かなさげにしている。悔しそうにしている。
「……そんなの──恋でしょう」
小さな声だった。
「恋じゃないなら何なんですか。考えない日がないんでしょう。大事にしてるんでしょう。それのどこが恋じゃないんですか。そんなの、私だって──」
利吉はどこか泣きそうな顔をしていた。黒は答えられなかった。十二歳に恋を諭されている。しかもその定義はたぶん正しい。黒が「違う」と思ったのは、恋の形が自分の想像と違っていただけで、本質はこの子の言う通りなのかもしれなかった。
考えない日がない。大事にしている。忘れられない。──もうずっと、たった一人が忘れられない。
それを恋と呼ばずに何と呼ぶのか。
「……そうかもしれん」
「かもしれん、じゃなくて」
「……そうなんだろうな」
認めた瞬間、胸の底が震えた。初めて言葉にしたのだ。あの利吉への感情を。あれは恋だったのだと。
利吉は黒を見ていた。
その目に、複雑な色が浮かんでいた。怒りでも悲しみでもなく、もっと入り組んだ何か。聞きたくなかったことを聞いてしまった顔と、聞かなければならなかったことを聞いた顔が同時に重なっていた。
「……強い人だったんですか」
「ああ。特に心が。……私よりずっと」
「顔は」
「男前だったな」
利吉の口がへの字に曲がった。
「私より?」
「…………」
黒は答えに詰まった。同じ顔だ。六年後の、お前の顔だ。
「……同じくらいだ」
「同じくらい」
利吉は繰り返した。ほんの少しだけ、機嫌が直った。ほんの少しだけ。
「……その人と私、どっちが好きですか」
「比べるものじゃない」
「比べてください」
「比べられん」
「なんでですか」
なんで。お前が同じ人間だからだ。とは死んでも言えなかった。
「……種類が違う」
「種類」
「君のことは、大事にしたい。守りたい。それは本当だ。だがそれは──」
「恋じゃない、と」
利吉の声が冷えた。そこにあの秋の夜の鋭さはなかった。傷ついてはいるが、折れてはいない。
「でも、『今は』でしょう。お兄ちゃん」
利吉は立ち上がり、それだけ言い残して奥へ入っていった。足音は普段通りだった。軽くも重くもならなかった。ただ普段通りに歩いて障子を閉めた。
黒は一人残された。冷めかけた白湯を両手で包み、庭の雪を見ていた。
──今は。
利吉はそう言った。「今は」と未来を閉じなかった。あの子の矜持がここで引き下がることを許さなかったのだろう。あれは負けを認めたわけではない。いずれ変えてみせるという宣言だった。同時にあの子は、もう一つのことを悟ったはずだ。黒の中にいるもう会えない誰か。恋だったと認めた誰か。その相手に対して今の自分は分が悪いのだと。
けれどもあの子は折れなかった。
負けたと思って泣くのではなく、勝つまでの道のりが遠いことを確認してそれでも諦めない覚悟をした。あの足音がそうだった。軽くも重くもならない、少しだけ背筋の伸びた足音。
黒は白湯の最後の一口を飲み干した。
雪が降り続いていた。白くて重い、音のない雪。その白を見ながら、黒はそっと首元の布に触れた。利吉がくれた首巻き。もう匂いも体温も残っていないただの布。
──恋だったのだ。
そう思ったら、その布が少しだけ温かく感じた。