powered by 「arei」

空を泳ぐクラゲ

 また間違えたな。なぜいつも遅くに気付いてしまうのだろう。なぜ自分はこんなにも不出来なのだろう。
 人と別れた後、脳内反省会を開いてしまう癖が抜けない。あの発言はちょっとダメだったかな、あの時ああしておけばもっと良かったのにな、とか。自分が正しく動ける人間であったのなら、きっとこうも苦しくなんかならないはずだったのに。
 電車に揺られながら、ビルの明かりが眩しい窓の外をぼんやりと眺めていた。

「キーホルダー、外したんだ」
 何気なく桶川が発した言葉に、水島は濁ったような切れの悪い相槌を打つ。水島にとって、桶川からの指摘は怖いものなのだ。指摘の意図を勝手に汲み取っては怒っているんじゃないかと不安になる。わざわざ緑山がいない時を狙って言ったのはなぜ? 緑山から貰ったクラゲのキーホルダーを水島は頭の中で泳がせた。
「いや、まぁ、なんか、落とすの怖くて」
「あ~ね」
 良いとも悪いとも言わない曖昧な桶川の返事に水島の不安は増す。はっきり言ってくれないとネガティブな方向に物事を予測してしまうのが水島の性格なのだ。白い息を吐いて遊ぶ桶川を横目に映し、怒っているわけではないのかと水島は少しばかりの安堵をする。
「そういうの本人に伝えた方が良いよ、水島の場合。説教したいわけじゃないからこれ以上は何も言わないけど」
 なんで? と水島が問おうとしたタイミングで、ゴミを捨てに行っていた緑山がちょうど戻ってきた。
「ごめん、なんか思ったよりゴミ箱まで遠くて遅くなっちゃった」
 頭に浮かんだ疑問は、その日、結局聞けないまま持ち帰ることになってしまった。

 最寄り駅の改札を抜け、水島はようやく人混みから解放される。帰路を歩きながら再度脳内で反省会を開く。まわりに人がいないため、さきほどよりも集中して考え事ができる。
 横断歩道で信号待ちをしている最中、水島はある一つの自答に辿り着く。
 自分は緑山さんを傷付けてしまったのではないか?
 今日一日、緑山に元気がなかったことに水島は気付いていた。元気なふりをしてはいたが、声のトーンや反応の鈍さが落ち込み様を表していた。だが水島にはその理由までを推測できなかったし、尋ねる勇気も無かった。もし自分の無神経さが原因なのだとしたら。それは水島にとっては死に値するほどの罪に感じられた。
 キーホルダー。正しくは、クラゲのキーホルダー。水島がクラゲを好きということを知って、緑山がお土産にプレゼントした物である。自分のことを知ってくれた上でのプレゼントを、水島は今まで生きてきた中でほとんど貰ったことが無かった。過去、誕生日に貰ったことがある物といえば、親からの数学の参考書だとか、クラスメイトからのウサギのぬいぐるみとか。勉強なんか大して好きでもないし、ウサギより犬が好きだ。大抵が相手からの理想の押し付けによる物品で、水島にとってプレゼントとは歪なものであった。
 そういう価値観になってしまった水島にとって、緑山の存在は綺麗すぎた。自分のことを知ろうとしてくれる人の存在に慣れない。幸福に慣れない。水島にとってあのクラゲのキーホルダーは幸福の物体化なのだ。
 それをつい最近、部屋の中で失くした。カバンを洗濯するために一旦外したは良いものの、どこにキーホルダーを置いたのか全く思い出せなかった。深夜まで探しても見つからず、結局朝になってさらっと机の上から発掘されたのだが、あの夜の不安は莫大なものだった。二度と失くさないためにも、あのキーホルダーを持ち歩くのは止そうという結論に至り、水島はカバンにあのキーホルダーを付けることを辞めたのだ。
 水島は、緑山にこの経緯を知られたくなかった。プレゼントしたものを一瞬でも失くしたと知れば緑山が傷付くかもしれない。いや、自己中心的ながらもそれ以上に、嫌われてしまうかもしれないという可能性がとてつもなく恐ろしかった。黙っておけばきっと何も起こらず平穏でいられると思っていたのだが、その憶測が間違いだったことに水島は今更ながら気が付いた。解散する前に気付けていたのならよかったのに。……気付けていたとしても行動する勇気はどこにもないから何も変わらなかったかもしれないのだが。
 現実に意識を戻す。隣で信号待ちをしていたはずの自転車はとっくに姿を消していた。何度青信号を逃してしまったのだろう。水島は考え事をしているとまわりが見えなくなる。それは大抵自己嫌悪に繋がるのだった。
 家に着き、玄関に倒れるように横になる。少し潔癖な故、部屋の中に外の汚れを持ち込みたくないのだ。上着を脱ぐ体力すらない水島には玄関に留まることしかできなかった。冷たい床の感触が体の内側まで侵入してくる。
 指先ひとつでさえ動かせない。もうここで寝ちゃおうかな。
 ゆっくり瞼を閉じかけていたその時、上着のポケットの中が震えた。急ぎの連絡だったらまずいと思い、ゆっくりポケットの中からスマホを取り出す。スマホの光が眩しく、目を細めるが、明るさを調節する体力はない。そのまま通知を開く。
『mao:家着いたよ!』
 緑山、桶川、水島の三人のグループLINEに緑山からのメッセージが送られてきた。三人で会った日はだいたい帰りが夜になるため、防犯のために家に着いたら連絡するようにしている。この国は昔ほど安全ではないのだ。
『水島:僕も』
『おけがわ:俺まだ電車』
 緑山を家まで送ってから自宅に向かっている桶川は二人よりも帰りが遅くなっていた。
 なんとなく、会話履歴をスクロールして辿る。どこまで指を動かしてもお互いに送り合ってきた写真で溢れかえっている。
 腕に力を込めて、水島はなんとか起き上がる。
 部屋の扉を開け、MIDIキーボードの横に置いてあるクラゲのキーホルダーを片手にまた部屋を出ていく。
 中庭に出る窓を横に流す。手に持っていたクラゲのキーホルダーを空に掲げ、スマホのシャッターを切る。色調補正を施した後、三人のグループLINEに撮った写真を送る。夜風の冷たさに耐えきれず、すぐに家の中に戻り、メッセージの画面を見ながら鍵を閉める。一瞬で既読が一つ付いた。返信に怯えるも水島は画面を閉じることなくそのまま待つ。数秒後、だるま落としの逆再生のように新着メッセージが滑りこんできた。
『mao:今までの水島君の写真の中で一番好き!』