思い染めしか
土井半助は普段、身なりに無頓着な男だった。着物は質素なものを好み、装飾品の類いは一切身につけない。必要なものは揃えるが、贅沢は好まない。そんな男だった。
その日、土井は忍術学園からの出張の帰り道、街道沿いで賊に襲われている商人を見かけた。三人組の賊が、荷車を引く老いた商人を取り囲んでいる。土井は躊躇なく間に入り、賊を追い払った。大した手傷も負わせずただ退散させただけだったが、商人は涙を流して礼を述べた。
「これは、ほんの気持ちです。端切れですが、羽織一着くらいは作れますので」
商人が差し出したのは、美しい藍染めの反物だった。土井は何度も辞退しようとしたが、商人は受け取ってほしいと懇願し、結局土井は反物を受け取ることにした。手に取ると、しっとりとした肌触りで、深い藍色が月明かりに静かに輝いていた。上等なものだ。分不相応だと思ったが、変装術が必要な時に役立つかもしれないと自分に言い訳をして、土井は反物を懐にしまった。
学園に戻ってから、土井は学園御用達の職人に羽織の仕立てを頼んだ。
「上等な反物ですね。出来上がるのは一月ほど後になりますが、よろしいですか」
「ああ、構わない」
土井は頷いた。一月後。ふと利吉の顔が浮かんだ。利吉は今、長期の忍務に出ている。戻ってくるのはちょうど一月後だ。土井は自分の考えに気づいて、少し動揺した。利吉に見せるために羽織を作ろうとしているわけでもあるまいに。変装に使うかもしれないから作るだけだ。
一月が経った。土井が職人のもとを訪れると、羽織は見事に仕上がっていた。深い藍色が落ち着いた雰囲気を醸し出し、袖を通すとしっくりと身体に馴染む。
「お似合いですよ」
職人が満足そうに頷く。土井は鏡を見て少し驚いた。いつもの自分とは違う。少しだけ華やいで見える。土井は礼を述べ、羽織を受け取って学園へと戻った。ちょうど利吉から文が届いていた。二日後の夕刻──いつもの場所でという、逢瀬に誘う文だった。
約束の日が来て、土井は朝から落ち着かなかった。授業中もどこか上の空で、生徒たちは不思議そうに土井を見ていた。夕刻、授業が終わると土井は急いで部屋に戻った。そして例の羽織を前に、また悩み始めた。着ていくべきか、いつも通りの格好で行くべきか──。こんな立派な羽織を着て行ったら、利吉は何と思うだろうか。「土井先生らしくない」と笑われるかもしれない。土井は羽織を手に取り、また畳み、また広げた。そんなことを何度も繰り返した。
忍として戦場に生きていた頃、土井は決断に迷うことなどほとんどなかった。けれど今はたった一枚の羽織を前にして、まるで少年のように悩んでいる。
結局、土井は羽織を着て行くことにした。約束の場所に行くまでの間に池の前を通った。水面を覗き込むと、いつもの自分とは少し違う男がそこにいた。
待ち合わせの場所は、街道から少し離れた茶屋だった。人目につきにくく、静かな場所だ。土井が到着すると利吉はすでに来ていて、三月ぶりに見る利吉は少しだけ日焼けしていた。
利吉は土井を見て、一瞬動きを止めた。視線が羽織に向けられている。やはり変だっただろうかと土井の胸は騒ぐ。利吉は静かに微笑んだ。
「お久しぶりです、先生。新しい羽織ですね」
「ああ、出張の帰りに商人を助けたら、反物をくれて……それで作ってもらったんだ」
利吉はじっと土井を見つめてから、「とてもお似合いです」と言った。その声は穏やかだったが、どこか熱を帯びていて、土井は思わず視線を逸らしてしまった。
茶屋に入ると、奥の部屋に通された。庭に面した静かな部屋で、夕暮れの光が障子に優しく映っていた。利吉は相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
「珍しいですね、羽織なんて」
「ああ、普段はこういうものを着る機会もないから」
「とても素敵ですよ」
その言葉に、土井の胸が小さく跳ねた。利吉の視線は夕陽のように穏やかで、それに温められたかのように土井の身体がほんのりとあたたかくなる。
「そ、そうかな……」
土井は視線を逸らした。なぜだろう、妙に照れくさい。 利吉が微笑んで続ける。
「色も先生の雰囲気に合っていますし、落ち着いていて先生らしいです」
「……ありがとう」
土井は小さく答えた。嬉しい──素直に、嬉しかった。
利吉が茶を注ぎ足しながら言う。
「にしても、先生がお洒落をされるなんて珍しいですね」
「お洒落というわけでは……変装に使えるかもと思ったから仕立てただけで」
「そうですか」
利吉の指摘を言い訳がましく否定すると、利吉は笑った。けれどもその目は優しかった。
「でも、嬉しいです」
「……何が」
「先生が私と会うのに、それを着てくださったこと」
利吉の言葉に、土井は息を呑んだ。利吉は自分の着物を見下ろしながら言う。
「私も先生に会う時は、出来る限り身なりを整えるんですよ。格好悪いところを見せたくないので」
そう言って笑う利吉の頬が、ほんの少しだけ赤い。その赤さに触発されたように、土井の頬も赤くなる。
「……君は、いつも格好いいよ」
土井は正直に言った。
「本当に、いつも、君は格好いい」
利吉の目が見開かれ、ゆっくりと笑顔が広がった。
「ありがとうございます」
その照れたような顔に、やっぱり格好いいではなく可愛らしいかもしれないと、土井はこっそりと思った。
話は弾んだ。利吉の忍務の話、学園での出来事、他愛もない日常の話。ずっと静かで、心地よい空気が流れていた。時折利吉の視線が土井の羽織に向けられる。そのたびに土井の胸は小さく高鳴った。自分がこんなにも誰かの視線を意識するなんてと、土井は内心で苦笑した。利吉がそんな土井の様子に気がついたのか、少し悪戯っぽく笑う。
「それにしても、羽織というものはいいですね」
「何がだ?」
土井が問うと、利吉は再び土井の羽織に視線を向けた。その目にはどこか甘い光が宿っている。
「私のために整えてくださったそれを、私が着崩すことを許されているのだなと思うと──自分のためのものという感じがして」
利吉の言葉の意味を、土井はすぐに理解した。 つまり、二人きりの時に……。
「そんな、顔を赤くして」
利吉が楽しそうに笑う。
「まだ何もしていませんよ」
「君は……」
土井は顔を背けた。頬が熱い。冗談ですよ、と利吉が優しく言う。その声にはやはり少しだけ甘さが混じっている。
「……先生」
利吉が囁くように言った。
「少しだけ、いいですか」
「……何を……」
土井が問うと、利吉は手を伸ばした。そっと土井の羽織の襟に触れる。
「ほら、少し乱れています」
利吉の指が、襟元を直す。その動作は必要以上にゆっくりで、丁寧で。土井の心臓がうるさく鳴った。
「……利吉くん」
「はい」
「君、わざとやっているだろう」
土井がそう低く言うと、利吉はくすりと笑った。
「先生のこういう顔、好きなんです。照れて、困って、……でも嬉しそうで」
利吉の指が襟元から離れた。その視線は土井から離れない。土井は呆れたように溜息をついた。その口元は、けれども笑っている。
「まったく……。私も、君のそういうところが好きだよ」
土井がそう言うと、今度は利吉の頬が赤くなった。
「先生。それは、ずるいですよ」
「ん?」
「私が先生を困らせようとしているのに。こんな時ばかり、普段言ってくださらないようなことを仰って」
利吉が少し拗ねたように言うのに、土井は笑った。利吉の目には、夜を思わせる仄かな熱が確かに籠っている。利吉の手が土井の手にふと触れた。その手はいつものように優しく、丁寧で、そして──少しだけ熱を持っていた。