リク 利天豪族IF
谷川は雪解けを抱いた水を細く速く運んでいた。山裾の屋敷から人目を避け、天鬼は護衛をまいて水音のそばに座る。冷えた石に背を預けて目を閉じれば、耳に入ってくるのはただ流れの律だけだ。
天鬼──叔父である今の殿から戦での働きを面白がられて与えられた名。それは誉れの衣に見せかけた手綱でしかなく、戦には呼ばれるが賜った領地は痩せた田畑と荒れた社ばかりだった。
幼くして夜襲により領主だった父を失ってから、後を継いだ叔父は彼のいくさ働きを重宝し、同時に遠ざけた。小心者の主君ほど飼い慣らした獣を田圃の外に繋ぐ。鋼の首輪のような二字の名。それでも、名は負わねばならない。
「……鬱陶しいな」
彼は息に紛らせて言う。硬い声だ。腫れ物の声を聞く者はいない。
その時不意に、頭上で枝が裂ける音がした。水鳥が散り、影が落ちる。崖の縁から若い男が崩れ落ちる。深草色の忍装束。空が一瞬、足場になるかのように薄く固まり、次の瞬間男は谷川へ叩きつけられた。
天鬼は石から身を起こした。水に沈む前に男の襟を掴み身体を引き上げると、濡れた息が喉で跳ねた。薄い視線がこちらを見る。申し訳なさそうな顔をした。──と思う間もなく、新たな黒装束が二つ崖の端に現れる。追い詰めた獲物を見下ろす目。忍の装束に漆黒を選ぶところは決まっている。敵軍の忍だ。
天鬼は拾い上げた若者を自分の背に転がし、足元の水を蹴った。次の瞬間には崖に取りつき、投げられた手裏剣を空で払う。腰の刀が半月を描き、落ち際の一太刀が一人の喉を断つ。残る一人が退こうとする足を投げた鞘が払い、間合いを詰めれば二呼吸で土は静まる。
水は再びただの水に戻った。気を失いかけていた若い忍のもとへ戻ると、額から血が落ち、眉へ溶けているのが見える。受け身の取り方からいって頭を割ったわけではない筈だ。天鬼は水を手にすくい、顔にかけた。
「目を開けろ」
「……っ、ここは……」
かすれ声もまた、年若い男のそれだ。元服して数年と言ったところか。天鬼は淡々と答える。
「ここは谷の下だ。起きられるか」
男は無理に上体を起こす。あの高さから落ちた割には身のこなしは軽く、低頭する仕草にも大きな怪我の気配はなかった。
「助けていただき、感謝します」
「名は」
「……利吉と申します。フリーの忍者をしております」
利吉、と天鬼は心中で刻む。短い音が水音の隙間に沈む。どこかで聞いた名だ。確かに若い忍に、そんな名の者がいると聞いた気がする。
「ここへは何故来た」
「任の途上でしくじりまして……追い詰められました」
「それは見れば分かる」
天鬼は硬く言い、踵を返した。
「骨は折れていないな。走れるか」
「……はい」
「なら来い。ここは目につく」
谷川を離れ、木々の間を縫っていけば、そこには小さな狩小屋があった。天鬼がひとりになりたいとき、護衛から逃れて来る場所だ。小屋に入るなり天鬼は利吉の濡れた衣を半ば剥ぎ、傷の具合を確かめた。浅い切り傷が数本、打撲は多いが、大したことはない。
「薬は?」
「持っていましたが、水に流れまして……」
天鬼は囲炉裏の脇から乾かしてあった薬草を取り、湯を少し張って揉み、布で血を拭った。手際がよいのは戦場の癖だ。利吉は痛みにかすかに歯を食いしばり、それでも笑みの影を作った。
「手慣れていらっしゃる」
「必要だから覚えただけだ」
「助かりました。本当に」
「礼なら生き延びてからにしろ。内腑のことは分からん。今夜にでも死なないとも限らない」
「……何故助けてくださるのですか」
「ここは私の谷だからな」
天鬼は淡々と言う。
「拾って、殺気がなかった。だから助けた。だが次は勝手に落ちて来るな」
利吉は目を丸くしてから、ぎこちなく笑った。
「……はい。以後、気をつけます」
外で竹が鳴り、天鬼を探す護衛の声が遠くにかすかに聞こえる。天鬼は眉を寄せて立ち上がった。
「……ここで少し休め。人が来る」
「あなたは」
「見つかれば面倒だ。私は戻る。お前は日が傾いたら谷筋を下りろ。三つ目の堰で西へ抜ければ追跡は切れる」
利吉は頷き、躊躇してから、懐から細い紐を一本抜いた。手甲の結び紐だ。
「借りは必ず返します。お約束の証にこれを。次にお会いできたら、返していただければ」
天鬼は紐を受け取る。指で一度だけ結び目を作り、解いた。断ってもよかったが、少しだけ興味が湧いた。
「ああ。預かった」
天鬼が小屋を出る前、利吉が呼び止めた。
「──あの、お名前を」
名を問われ、天鬼は一拍置いて短く答える。
「天鬼だ」
利吉は小さく息を呑む。そこに嘘の気配はない。知らずにここへ来たのだろう。
「天の鬼……戦場の噂で聞いたことが」
「噂は、だいたい殿が撒いたものだ。いくさ場以外では無意味な名だ。お前が覚えておく必要はない」
「いえ、忘れません。決して」
利吉はわずかに笑って、頭を下げた。
「では、また参ります」
竹の間を抜け、天鬼は屋敷の方へと歩いた。護衛の怒声と、安堵の足音。見つかればまた面倒な叱責と形式が待つのだろう。ここでの暮らしはいつも代わり映えがしない。けれども今日は手の中に結び目のない紐があり、細い一本だが飼い殺しの鎖に新しい細工が足された気がした。
利吉──若い忍だった。落ち方は拙いが、起き上がり方は悪くない。礼があり、目が生きている。好ましいと思えた。
(また来るだろうか)
天鬼は心の中で問い、すぐに呆れた。期待は油断に似ている。だが期待を完全に捨てるのは難しい。窓の外、谷川のほうでふと鳥が鳴いた。紐は懐にあってまだ軽い。
関係の始まりは、だいたい、こういう小さなことから始まる。