記憶の山河
手紙が届いたのは、初夏の頃だった。土井半助が授業を終えて職員室に戻ると、机の上に見覚えのある筆跡の文が置かれていた。利吉からだった。封を開けると、几帳面な文字で長い依頼が綴られていた。土井は読み進めるうちに、眉をひそめた。
「なんだって私に」
土井は思わず声に出して呟いた。利吉は現在、職人に変装して半年がかりの潜入忍務に当たっている。そこまではいい。問題はその先だった。どうやら若い衆の間で、妻を連れてこいという話になったらしい。利吉は妻を近隣の國本に置いてきたという設定だったが、半年も顔を見せないのはおかしいと周囲からつつかれているという。それで、半子さんに来てもらえないかという内容だった。
土井は文を机に置いて、溜息をついた。くノ一でも見繕えばいいではないか。わざわざ自分が女装をして出向く必要があるのか。けれど文を読み返すと、利吉の考えも理解できた。長期忍務の協力者として、仕事の腕と人間性と利害、すべてにおいて信頼のおける人間が必要なのだという。くノ一は確かに女装の必要がないが、利吉が完全に信頼できる相手となると限られる。雇うくノ一も当然フリーであるから、忍務の内容によっては協力者が裏切る可能性も考慮しなければならない。
「仕方がないな」
土井は立ち上がって、文を仕舞った。伝蔵に事情を話し、数日の休暇をもらうことにした。伝蔵は事情を察したのか「あいつはもう少し伝手を増やさないとですなぁ」と言いつつも頷いてくれた。
三日後、土井は半子の姿で利吉の忍務先に向かった。久しぶりの女装だった。髪をまとめ、控えめな着物を着る。鏡を見ると、そこにはおっとりとした職人の妻が映っていた。土井は自分の変装を確認してから、荷物をまとめて出発した。
利吉の忍務先は、山間の小さな里だった。木工の職人が集まる場所で、利吉は「利平」という名の若い職人として働いているという。土井が里に着くと、利吉が迎えに来ていた。いつもの凛とした表情ではなく、どこか照れくさそうな面持ちだった。
「先生、来ていただいてありがとうございます」
利吉が小声で言った。土井は軽く頷いた。
「挨拶だけ済ませて、すぐに戻るからね」
「ええ、そのつもりです。ご迷惑をおかけします」
二人は里の中心にある職人たちの共同作業場に向かった。そこには十人ほどの若い職人たちが集まっていた。利吉が土井を紹介すると、皆が興味津々の顔で土井を見た。
「おお、これが利平の嫁さんか!」
「なかなか美人じゃないか。いい子を産みそうだ」
「利平、お前、よくこんないい嫁さんもらえたな」
職人たちは口々に言った。土井は控えめに微笑んで、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。半子と申します。夫がお世話になっております」
土井の声は柔らかく、女性らしい響きがあった。職人たちは満足そうに頷いた。それから宴が始まった。土井は利吉の隣に座り、職人たちの話に耳を傾けた。利吉は酒を注がれながら、時折土井に視線を送った。その視線には、申し訳なさと、どこか別の感情が混じっていた。
宴が終わると、土井はすぐに帰ろうとした。挨拶は済んだ。もう用はない。けれども利吉が引き止めた。
「今日はもう遅いですから、せめて一泊してから帰ってください」
「いや、大丈夫だ。まだ日は残っているし」
土井は断ったが、外を見ると空が急に暗くなっていた。雲が厚く垂れ込めていて、今にも雨が降り出しそうだった。職人の一人が言った。
「奥さん、今日は泊まっていきなよ。この時期、山の天気は変わりやすい。雨が降り出したら危ないよ」
土井は渋々頷いた。利吉が普段寝泊まりしている小さな小屋に案内されて二人きりになると、土井は女装姿を解こうとしたが、利吉が慌てて止めた。
「先生、まだ解かないでください。酒盛り中なので、押しかけてこないとも限りません」
「……わかってるよ」
土井は溜息をついて、窓の外を見た。雨が降り始めていた。最初は小雨だったが次第に激しくなっている。利吉が心配そうに外を見た。
「これは、明日まで待った方がいいかもしれませんね」
「そうだな……」
土井は頷いた。けれども翌朝になっても雨は止まなかった。それどころかさらに激しくなっている。利吉が外に出て様子を見に行くと、少々困ったような顔で戻ってきた。
「川が増水しています。このままでは……」
「帰路は?」
「通れないと思います。山道が冠水しているかもしれません」
土井は舌打ちをした。長雨になるとは思わなかった。けれど仕方がない。雨が止むまで待つしかなかった。
三日間、雨は降り続いた。土井は小屋の中で過ごし、利吉は時々様子を見に来た。二人きりになると、利吉は申し訳なさそうに言った。
「こんなことになってしまって、すみません」
「気にするな。忍務に不測の事態はつきものだ」
土井はそう言ったが、内心では複雑な気持ちだった。利吉の妻を演じること。それは忍務の一環とはいえ、土井の胸をざわつかせた。利吉といると、いつもより心臓の音が大きく聞こえる。それが少しだけ苦しかった。
四日目の朝、雨が小降りになった。土井は決断した。
「今のうちに帰ろう」
「まだ危ないですから、もう少し待ってください」
利吉が引き止めたが、土井は首を横に振った。
「申請した休暇期間も終わるし、これ以上ここにいるわけにはいかない。学園に戻らないと」
土井は荷物をまとめ、小屋を出た。利吉も後を追った。二人は里を出て山道を歩き始めた。道は泥濘んでいて足元が滑りやすくなっている。土井は慎重に歩いたが、利吉はさらに慎重だった。常に土井の前を歩き、危険な場所を確認していた。
山道を半分ほど進んだところで、遠くから轟音が聞こえた。土井は立ち止まって耳を澄ました。その音は次第に大きくなっている。
「先生、走ってください!」
利吉が叫んだ。振り返ると、上流から濁流が押し寄せてくるのが見えた。鉄砲水だ。土井は走り出したが、女装の着物が邪魔をした。利吉が土井の手を掴んで、引っ張った。
「こっちです!」
二人は必死で走ったが、濁流の方が速かった。土井は覚悟を決めた。せめて利吉だけでも助けなければ──。けれどその時、利吉が土井を突き飛ばした。土井は木の根元に倒れ込み、利吉は濁流に飲み込まれた。
「利吉くん!」
土井は叫んだ。けれど利吉の姿はあっという間に見えなくなった。土井は立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。それでも必死で立ち上がり、川に沿って走った。
しばらく走ると、里の者たちが数人、川岸に集まっているのが見えた。その中心に泥まみれの利吉が横たわっていた。
「利平さん! 利平さん!」
一人の男が慌てて利吉を揺さぶっていた。土井は駆け寄った。
「利平、しっかりしろ!」
別の男が利吉の背中を叩いた。利吉は咳き込み、水を吐き出した。土井は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
「よかった、息がある」
男たちが利吉を担いで、里へと運んだ。土井もその後を追った。一人の老人が呟いた。
「せっかく嫁さんが会いに来たのに、目の前で死ぬような真似をするんじゃないよ、まったく」
土井は何も言えなかった。ただ、利吉の無事を祈ることしかできなかった。
里に戻ると、利吉は布団に寝かされた。医者が呼ばれ、診察が始まった。土井は利吉の側に座り、じっと見守った。利吉の顔は青白く、呼吸は浅い。けれども脈はしっかりしていた。
「命に別状はないようです。ただ頭を強く打っているようなので、しばらく安静にする必要がありそうです」
医者の言葉に、土井は頷いた。それから一晩中利吉の側にいた。女装を解くこともせず、ただ利吉の手を握っていた。
翌朝、利吉が目を覚ました。土井は思わず身を乗り出した。
「利吉くん、大丈夫か」
けれども利吉はぼんやりとした目で土井を見つめた。
「あなたは……誰ですか」
か細い声で彼が言った言葉に、土井は耳を疑う。息が止まりそうになった。利吉の目には、何の認識もなかった。ただ困惑だけがある。
「りき……」
「利平さん、気がついたのかい!」
様子を見に来た職人の一人が声を上げた。土井は慌てて女の声で言った。
「利平さん……わたしですよ。半子です」
「半子……?」
「ええ、あなたの妻です」
その言葉を口にする時、土井の胸は痛んだ。利吉は記憶を失っている。土井はどうすればいいのかわからなかった。けれども今は利吉の妻を演じ続けるしかない。忍務のためでもあるが、それ以上に、利吉を守るためだった。
「妻……ですか」
利吉が反芻するように呟き、土井は頷いた。
「ええ、そうです。あなたは覚えていないかもしれませんが、わたしたちは夫婦なんです」
利吉はしばらく土井を見つめていた。その目には、何か探るような光があった。けれど、やがて諦めたように目を閉じた。
「すみません、何も思い出せなくて」
「大丈夫です。ゆっくり休んでください」
土井は優しく言った。利吉は頷いて、再び眠りについた。土井は利吉の手を握ったまま、動けなかった。
職人が医者を呼んできた。医者は土井を別室に呼び、静かに言った。
「奥さん、ご主人は記憶を失っています。頭を打った衝撃でしょうが……」
「治りますか」
「わかりません。時間が経てば戻るかもしれませんし、戻らないかもしれません。無理に思い出させようとすると、逆効果になることもあります」
土井は唇を噛んだ。利吉が記憶を失った。自分のことも、忍務のことも、何もかも忘れてしまった。利吉はここではただの職人だ。忍としての重荷も、忍務の責任も、何も背負っていない。けれども同時に、土井のことも忘れてしまった。
「わかりました……。ゆっくり看病します」
土井は医者に礼を言って、部屋に戻った。利吉は静かに眠っていた。土井はその横顔を見つめた。これからどうすればいいのだろう。忍務は完了していない。下手に記憶が戻れば正体が露見する可能性もある。側にいて見ていてやった方がいいだろう。利吉の記憶が戻るまで、自分は半子であり続けなければならない。そして、利吉の妻を演じ続けなければならない。
それは、苦痛だろうか。
土井は自分の心に問いかけた。利吉の側にいられること。利吉の妻を演じ、二人でいられること。それは偽りだが、ほんの僅かにそこには喜びがあった。
「ごめん……利吉くん……」
土井は小さく呟いた。利吉は眠ったまま、何も答えなかった。外では雨がまだ降り続いていた。山の向こうから、川の音が聞こえていた。