泥中の蓮
日が落ちて間もない頃、出張から帰った土井は忍術学園の門の前で立ち止まった。
往来の埃を払っていると、灯りを持った利吉が出てくる。父上もおいでにならなかったので途方に暮れるところでした、と彼は笑ったが、目が合った瞬間、空気がわずかに張りつめた。
「……思ったより、土井先生のお帰りに時間がかかっている、と伺いましたが」
「うん。少しばかり手間取ってしまってね」
そう笑って言う土井の声音には、どこか冷たさがあった。利吉はそれを知っている。氷ノ山にいた頃も、この人は時折こんな顔をした。人を拒むようでいて、同時に誰よりも自らを律する顔。
「……先生、今日は少しお疲れのようですね」
「いや、いつものことだよ」
笑ってみせるが、その笑みは仮面のようだった。
その夜。書き物をしていた土井の部屋の戸を、そっと叩く音がした。
「入ってもいいですか」
「どうぞ」
灯心の光の下、利吉は文机の側に座った。
しばらく沈黙が続いたあと、利吉が口を開く。
「あなたは……忍の仕事をするとき、顔が変わりますね」
土井は手を止めた。
「顔が?」
「ええ。どこか殺伐として。別人のように」
「……そう見えるかい」
「はい」
土井は筆を置き、指先を合わせて息を吐いた。
「恥ずかしいな。そんなつもりはないのだけど」
「ですが、いいことだと思いますよ」
「いいこと?」
「切り替えが必要というのは、根がまっすぐな証拠でしょう。汚れ仕事ですからね、忍の仕事は」
土井は目を瞬かせた。
「まっすぐさなら君の方が」と言いかけると、利吉は小さく笑う。
「私、切り替えが必要だと思ったことがないんです」
「え……?」
「必要があれば嘘をつくし、必要があれば殺します。それだけのことです」
静寂が落ちた。
土井は思わず利吉を見つめる。その瞳は澄んでいて、曇りがない。土井は利吉がこんなことを言ったことに少し驚いていた。土井にとって、利吉はいつまでも清潔で、どこまでもうつくしい子供のような存在だった。けれど今目の前にいるのは、汚れの中で己を見失わずに立っている一人の忍だ。利吉は続けた。
「あなたは──時々、武士のようですね」
「武士……?」
一瞬、土井の腹の中がざわつく。それに気付かず、利吉は言った。
「わざわざ日のもとで名乗りを上げて戦いたがるような。そんな清廉さがある。子供達を誰一人死なせたくないというのは……綺麗事だと時々思います」
利吉は窓の外を見上げた。美しい月夜だった。利吉はその月をどこか忌々しげに見ている。
「私は、生まれたときから忍でした。人を欺き、人の影を歩くことが仕事です。高貴な方が高貴でいられるために、泥を被る。それが私たちの役目でしょう」
利吉の声音には誇りがあった。それを土井は不思議に思う。月の光を忌避してもなお、彼の瞳はぬばたまのように煌めいている。
「周囲が泥であっても、蓮根として生まれれば母親の腹の中です。ですが……」
利吉が土井を見た。その横顔は月の光を受けて白く浮かび上がっている。土井は息を呑んだ。
「ですが、泥中の蓮であることはきっと苦しいでしょう。だから私は──あなたが好きです」
言葉は穏やかだった。告白というよりも、それは祈りのようだった。土井の胸に静かに熱が広がる。己の理想と罪のはざまでずっと立ち止まってきた心の奥に、誰かがそっと触れてくれたような感覚にふと目を閉じる。
長い沈黙ののち、土井は微かに笑った。
「……君は本当に、変わらないね」
利吉は首を傾げた。
「何がです?」
「きれいで、まっすぐで」
そう言って、土井は静かに目を伏せた。
その声音は、どこか嬉しそうで、どこか痛みを含んでいた。
翌日、食堂の定食に、蓮根の甘酢漬けがつけ合わされた。つややかに存在を主張するそれは、泥の中で育ったとは思えぬほどに真っ白で、土井は一口齧って少し笑った。