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現パロ 准教の土とコンサルやってる利の続き


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 セキュリティシステムの導入は、年内に完了した。
 利吉は導入期間中、週に二度ほど大学を訪れた。サーバールームでの設定作業、各部署への説明会、テスト運用の立ち会い。その都度、土井は何かと理由をつけて顔を出した。研究室のPCの設定確認、学生のアカウント管理についての相談、新しいファイアウォールの仕様についての質問──すべて正当な理由だったが、利吉と言葉を交わすたび、土井の中で何かが満たされていく。それは三十年間、夢の中でしか会えなかった相手が、確かに生きているという実感だった。

 十二月二十二日。冬至を過ぎたばかりの東京は、早くも夕暮れの気配を纏っていた。
 土井は渋谷の書店で資料を探していた。来年度の講義で使う参考文献を確認するためだ。目当ての本を見つけ、レジで会計を済ませて店を出る。
 街はクリスマス一色だった。イルミネーションが煌めき、恋人たちが楽しげに歩いている。土井はコートの襟を立て、人混みを避けるように歩道の端を歩いた。
 その時だった。
「だから、仕事なんだよ。僕だって好きで──」
「仕事、仕事って! クリスマスイブくらい私を優先してくれてもいいでしょう!?」
 聞き覚えのある声に、土井は足を止めた。
 数メートル先、カフェの前で男女が言い争っている。男の方は──間違いない。利吉だった。
 相手は二十代半ばくらいの女性。整った顔立ちだが、今は怒りで頬が紅潮している。
「毎回そう。約束してもドタキャン、デートの途中で呼び出し。私のこと、本当に大切に思ってるの?」
「思ってるよ。ただ今回はどうしても──」
「もういい!」
 女性は利吉の言葉を遮り、踵を返した。コツコツとヒールの音を響かせながら、人混みの中へ消えていく。利吉は追いかけようとして、すぐに諦めたように足を止めた。
 土井は咄嗟に視線を逸らした。見てはいけないものを見てしまった気がした。このまま気づかれずに立ち去るべきだろう。そう判断して踵を返しかけた、その時。
「……土井先生?」
 利吉の声が背中にかかった。土井は観念して振り返った。
「ああ、山田さん。お疲れ様です」
 利吉は気まずそうに頭を掻いた。いつもの隙のないビジネスマンの顔ではなく、どこか年相応の青年の表情をしている。
「お恥ずかしいところを……」
「いえ、たまたま通りかかっただけですから」
 土井は曖昧に笑った。利吉の後ろ姿を目で追っていたことは、言わないでおく。
「さっきのは……彼女さん?」
「ええ、まあ……」
 利吉は深いため息をついた。白い息が冬の空気に溶けていく。
「たった今、振られたんですが」
「山田さんが振られることなんてあるんですか」
 思わず本音が出た。利吉ほどの男が振られるなど、前世でも今生でも想像がつかない。利吉は自嘲気味に笑った。
「しょっちゅうですよ。コンサルタントなんて顧客付き合いが仕事ですから」
「顧客付き合い……」
「クリスマスイブに、大口の得意先主催のクリスマスディナーに招待されたんです。そちらに行くことになったと伝えたら、怒られてしまって」
 土井は内心、首を傾げた。
 前世の利吉は、感心するほどにまめな男だった。忍務の合間を縫っては実家へ帰り、父・伝蔵のもとへも長期の仕事に行くからと言っては挨拶に顔を出していた。当時の移動手段を考えれば異常なほどの細やかさだ。恋人がいた時期があったかは知らないが、いたとすれば相手を蔑ろにするような真似はしなかっただろう。
「……意外ですね」
「何がですか?」
「山田さんは、もっと器用に立ち回る方だと思っていました」
 利吉は少し驚いたような顔をして、それからふっと笑った。
「買いかぶりですよ。僕は昔から、仕事になると周りが見えなくなるたちでして」
 その言葉に、土井は記憶の糸を手繰り寄せた。確かに利吉は、仕事中毒とも言えるほど忍務にのめり込む性質があった。無茶をして忍務中に負傷して忍術学園に運び込まれたこともあった。あの時、土井は利吉の包帯を替えながら、休むことを知らない彼を案じたものだ。
「仕事をしていないと落ち着かないんです」
 利吉が続けた。その声色は、前世で聞いた言葉とほとんど同じだ。
「だから付き合ってる相手には、いつも愛想を尽かされます。仕事と私、どっちが大事なのって言われて」
「……それで、どう答えるんですか」
「答えられないんですよ。どっちも大事だと言っても、嘘に聞こえるでしょうし」
 利吉は苦笑して返した。その表情にもまた、土井は既視感を覚える。こうやって困った時に見せる、眉を下げた少し幼い顔。
「……寒いですね。よかったらコーヒーくらい奢りますよ」
 土井は自分でも驚くほど自然にそう口にしていた。利吉が振られた直後に誘うなど下心があると自分でも思うが、不自然な流れではないはずだ。利吉の寂しげな横顔を見ていたら、放っておけなかった。
「いいんですか? 先生もお忙しいでしょう」
「今日は資料を探しに来ただけですから。それに振られた直後の人を、一人で帰すわけにもいきません」
 利吉は一瞬きょとんとして、それから少しだけ声を上げて笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えます」
 二人は並んで歩き出した。イルミネーションに照らされた通りを、恋人たちの間を縫うように歩く。土井の心臓は、静かに、けれども確かに高鳴っていた。



 二人は近くのカフェに入った。
 クリスマス前の週末とあって店内は混雑していたが、運良く窓際の席が空いていた。土井はホットコーヒーを、利吉はカフェラテを注文した。
 最初こそぎこちなかったが、話し始めると意外なほど会話は弾んだ。大学でのセキュリティ導入の裏話、利吉の担当している他の案件のこと、土井の研究のこと。当たり障りなく、取り留めもない話題が次から次へと出てくる。
 土井にとっては、どんな話でも楽しかった。利吉の声を聞いているだけで、三十年間の渇きが少しずつ癒されていくような気がした。
「先生はお休みの日、何をされてるんですか」
「大抵は資料を読んでいますね。あとは……古い街道を歩いたり」
「街道、ですか」
「ええ。昔の人がどんな景色を見ながら歩いたのか、実際に辿ってみたくなるんです」
 利吉は興味深そうに頷いた。
「分かる気がします。僕も似たようなことをしてるかもしれない」
「というと?」
「カメラなんですけど」
 利吉はスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
「珍しいものを見つけると、つい撮ってしまって」
 差し出された画面には、色とりどりの写真が並んでいた。朝靄に煙る山並み、古い町並みの路地裏、夕暮れの海岸線。どれも構図が美しく、撮影者の確かな目が感じられる。
「これは……」
「氷ノ山です。実家に帰った時に撮りました。これはスマホですけど、一眼も使いますよ」
 一枚の写真に、土井の視線が吸い寄せられた。雪を被った山頂が、朝日に照らされて淡い桃色に染まっている。土井は目を細めながら、遠い思い出を辿るように呟いた。
「……最近珍しいですね、カメラが趣味って」
「おじさん臭いですかね」
 利吉が苦笑するのに、土井は首を振った。
「いえ、そういう意味じゃなくて。今の若い人は動画が主流だと聞いていたので」
「ああ、確かにそうですね。でも何か……珍しいものを見たり、きれいな景色を見たりすると、誰かに教えたくなってしまうんです。それで色々撮っているうちに、段々のめり込んでいって」
「誰かに教えたくなる、か。友達が多いんですね」
「それが……」
 利吉の声が、少しだけ翳った。
「実際に教えたいと思える相手は、いないんですよ」
「どういうことですか?」
「見せたい、っていう気持ちだけがあるんです。昔から不思議なんですけど」
 利吉は窓の外に目を向けた。イルミネーションの光が、その横顔を青く染めている。
「きれいな景色を見ると、誰かに伝えたくなる。でもそれが誰なのかが分からない。友人に見せても、恋人に見せても、何か違う気がして」
 土井は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
 前世の利吉も、そうだった。忍務で各地を巡るたび、珍しいものを見つけては土産話を持って帰ってきた。土井が山田家に居候していた頃も、忍術学園の教師になってからも。
『土井先生、聞いてくださいよ。今回の忍務先で面白いものを見つけたんです』
 目を輝かせて話す利吉の姿が、記憶の中で鮮やかに蘇る。あの頃の利吉は、確かに土井に向けてそれを話していた。
「……私なら、見たいです」
 気がつけば、そう言葉が零れていた。利吉が驚いたように土井を見る。
「先生が?」
「ええ。山田さんの写真、もっと見てみたいです」
 利吉の表情が、ふわりと綻んだ。それは会議室で見せる礼儀正しい笑顔とも、さっき恋人に振られた後の自嘲的な笑みとも違う。もっと素直な、無防備な笑顔だった。
「……先生、ニンスタやってらっしゃいますか?」
「ニンスタ……ああ、一応アカウントだけは持っています。ほとんど使っていませんが」
「よかったらアカウント教えていただけますか? フォローしていただければ、新しい写真を撮るたびに見ていただけますし」
 土井はスマートフォンを取り出し、久しぶりにアプリを開いた。自分のプロフィール画面を利吉に見せる。
「本名で登録していらっしゃるんですね」
「一応、表に名前の出る商売ですし。論文や講演の告知に使うこともあるかと思って作ったんですが、結局ほとんど放置してしまって」
「なるほど」
 利吉が頷きながら、自分のスマートフォンを操作する。土井のアカウントをフォローし、それから自分のプロフィール画面を見せてくれた。
 アカウント名は「riki_nowhere」。誰のものか、一見しただけでは分からない。
「こちらは仕事と関係ないので」
 利吉が言った。
「仕事用のアカウントは別にあるんですが、そっちは会社の広報みたいなものですから。こっちは完全に趣味です」
 nowhere──どこでもない場所。土井はその名前を反芻した。どこにも属さない、誰のものでもない。フリーランスの忍者として諸国を渡り歩いていた前世の利吉を思い出させる名前だった。
 土井は利吉のアカウントをスクロールした。山の写真、街の写真、空の写真。どれも利吉の視線を通して切り取られた世界だった。
「……いい写真ばかりですね」
「ありがとうございます。でも、ほとんど誰も見てないんですよ。フォロワー三十人くらいで」
「勿体ないですね」
「まあ、皆に見てもらいたいって気持ちで撮ってるわけじゃないですから。見せたい相手がいるかって言われると」
 利吉はそこで言葉を切り、土井を見た。
「……今日、先生に見せられてよかったです」
 その言葉に、土井は息を呑んだ。分かっている。きっと他意はない。それでも、何かを期待している自分が確かにいる。
 窓の外では、イルミネーションが瞬いている。恋人たちが手を繋いで歩いていく。クリスマスを数日後に控えた街は幸福な喧騒に包まれていて、けれども今の土井にとって、この小さなカフェの片隅こそが確かに世界の中心だった。