リク 現パロ 高校生利と古典教師土 ~名にし負う~
四月の光はまだ薄く、校庭の欅は芽吹ききらぬ色を残している。二年の最初の古典の授業が始まる。新学期、新しい担任が土井という教師だと知ったとき、教室の空気は一瞬だけ硬くなったが、それは知らぬ名に対する生徒たちの礼儀のようなものに過ぎなかった。
黒板に白い線で「在原業平」と書かれ、次いで小さく「東下り」と添えられる。土井の筆致は驚くほど端正で、若い教師であるのに線の始末にためらいがない。声もまた静かで、それでいながらよく通る。まるでもう何年も何十年も教師をやってきたかのようだった。
利吉の席は最前列の少し左側だった。初めて挙手をして「土井先生」と呼びかけたとき、土井の目尻はわずかに和らいだ。あからさまに嬉しげというのではない。だが、呼称が口に落ちる瞬間、そこにほのかに春の影が差す。にこにこしている、と評したくなる微笑。自分は礼を尽くしただけだが、先生にとってはそれが何かの恩寵であるように見えて、利吉にはそれが少し不思議だった。
──名にし負はば いざこと問はん都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
土井はゆっくりと教室を見渡す。それに不思議な重さがあり、誰もが耳をそばだてる気配になる。彼は語る。この当時、名はただの記号ではない、負うという語は重い。『こと』という言葉も重い。ことは言であると共に、異であり、事件の事であり、もう二度と会えないかもしれない大切な人の安否を問う歌だと。
言いながら、土井はふと窓の外を見た。空の色が明るい。遠くグラウンドで一年生が体操をしている。声が重なる。土井は板書の余白に小さく『問うことは祈りである』とチョークで足した。利吉はその一行だけをノートの上で囲む。それが一番、彼が言いたいことのように感じた。
妻問いなんて言葉もある、と、高校生が好む話題。言葉は静かに落ちてくるのに、胸の内ではさざ波のように起伏が続く。問うことは、祈りである。理解するというより、先回りして懐かしさが不思議と立った。
休み時間、友人が言った。あの先生、不思議だよなと。若い教師にありがちな雑さがない。柔らかく間合いを取る。つまりは丁寧だということだ。利吉は曖昧に笑う。丁寧さの奥には、何かを割らないための慎重さがある。磁器を箱から出すときの手つきに似たそれは、自分には馴染みがある気がする。理由はない。ただ、知っている。自分が呼びかける「先生」に彼がわずかに安堵する、その温度を利吉の身体は先に知っている。
放課後、教室の前の廊下を通りかかった。窓辺に立つ人影は土井のものだ。西日に縁取られ、陰が濃く映る。利吉が会釈をすると彼は同じ角度で返し、通り過ぎようとしたところで声をかけられた。
「山田くん」
誰しもに呼ばれ慣れた響き。利吉は歩みを止め、なんですか? と答えて土井の前に足を運んだ。入り口に立った彼は少し首を傾げる。何かを言いにくそうに、言葉を選ぶ様子が見える。
「……ああ、いや、」
土井は視線を宙にやって、ほんのわずかに笑う。それは誰かに許しを乞うような、傷の上を撫でるような笑いだ。次の瞬間、呼びかけが変わる。
「……利吉くん」
その音の軟らかさが、耳殻の内側に触れた途端、利吉は目を見開いた。戸惑いはない。ただ世界の縁が一瞬だけはっきりする。自身の輪郭が、薄墨から濃墨に変わるように確かになる感覚。名は重い、と彼は言った。自分の中にある灯がわずかに高く燃えて、呼びかけ一つで魂の姿勢は変わるのだと利吉は知る。
「──はい」
答えれば、土井はやはりにこにこと笑う。そこに春が宿っていると利吉は思う。それでありながら土井の立ち姿はいつも静かだ。靴底が床を擦る音を立てない。冬の静けさの中に春があるような人。ふと目を細めて、土井は静かに言う。
「また、あした」
彼はそれだけ言って教室の中に戻っていった。背中の肩甲骨のあたりで、衣擦れが一度だけ音を立てる。歩みは軽く、やはり不思議なほどに音はない。利吉はしばらくその場に立ち尽くしていた。窓外では沈む陽が校舎の塀に長い影を落としている。名を呼ばれたことの余韻は、思いのほか長い。
帰り際、利吉はもう一度だけ教室を振り返った。土井は黒板を拭いている。拭き残した一画が彼の手元でゆっくりと溶ける。わが思ふ人は、ありやなしやと。その問いは彼の祈りなのだと、利吉は訳もなく思う。
ある。たしかに、ある。何故そう思うのか知れない。だからそう答える声は誰に告げるでもなく、しかし確かに誰かに届く。届いた先で──誰かがほっと笑う。春を宿して、にこにこと笑う。そういう確信だけが、宵のはじめのきんいろの風よりも細く長く、利吉の背骨に沿って残った。