powered by 「arei」

頸と心第二部(14)弔い

前
横書き
https://notes.underxheaven.com/preview/23c95fa0a02241c35db8e320c60918b2
縦書き
https://notes.underxheaven.com/preview/tate/23c95fa0a02241c35db8e320c60918b2




 その後の朝餉の時間は、不思議なほどに静かだった。
 先ほどまで互いの息を奪うように口づけていたのは何だったのかと思えるくらい、利吉は何事もなかったかのように粥を椀によそい、昨夜の残りの干し魚を火で炙って土井の前に置いた。耳のあたりにはまだ薄く赤みが残っていて、椀を渡す時にも土井の指に触れないよう僅かに手を引く。そのくせ視線だけは時折こちらに寄越されるので、土井は粥を口に運びながら何となく可笑しくなった。
「……何ですか」
「いや……」
「笑いましたよね」
「笑ってないよ」
「笑ってました」
 そう低く返して、利吉は自分の椀に目を落とした。先ほどまでの苛立ちを引きずっているのか、今更になって自分から口づけたことを恥じているのかはよく分からない。ただこうして口を尖らせるようにして粥を食う横顔は──この家の火の前で刃を研いでいた男よりは、土井が初めて会った頃の少年に近いように感じられた。

 あの頃も、気に入らないことがあると利吉はよくこんな顔をした。十二の彼は今よりもずっと遠慮がなくて、大人しく寝ていろと言われても勝手に起きる自分に腹を立てては父親の言いつけを持ち出して生意気ぶった口を利いた。それなのに自分が熱を出せば夜中に何度も様子を見に来て、翌朝には別に心配していなかったような顔をして──。土井は改めて利吉の横顔を盗み見た。あのころの少年が四年の時を経て、今では死んだ男に嫉妬しながらそいつを弔う前に目合うのは嫌だと言って少年らしさの残る潔癖さを見せる。我の強い青年ならではの物言いなのだとは思うが、万事に拘りの少なかった自分とは随分と違う育ち方をしているものだと土井は思う。
 そうやって聊かの感慨と共にしみじみと眺めていると、利吉はその視線にとうとう耐えかねたように顔を上げた。
「……さっきから、何なんですか」
「いや? 大きくなったなあ、と思って」
「今それを?」
「ああ」
「この流れで?」
「この流れだからだよ」
 利吉は眉間に皺を寄せたまま暫く土井を見ていたが、何を言っても面白がられるに違いないと思ったらしく諦めたように粥を啜った。その反応まで何だか可愛らしい──と思ったところで、土井は口元まで運びかけた椀を止めた。
 以前なら、こういうところにすら理由を探していた気がする。利吉の横顔を好ましく思えば似ているからではないか、触れたいと思えば身体が昔を覚えているだけではないかと、自分の中に生じるものをいちいち閉じられた頁の方に引き戻し、この感情はそうではないのだと確かめながら進まなければ安心できなかった。対して今の自分は、こうしてむくれている利吉を見ながらあの男に結びつけようとは思わなかった。野良はこんな顔をしなかったし、こんなふうに自分から退く男でもなかった。この利吉はあれとは違う。違うから、可愛いのだ。
 そこまで考えた途端、今度は土井の方が椀に顔を伏せた。
「お兄ちゃん?」
「……何でもない」
「そうは見えませんが」
「腹の探り合いはやめたんじゃなかったのか」
「別に探ってません。探らなくても顔に出ています」
「忍として傷つくな、それは」
「……お兄ちゃんのそういうところ、本当にどうかと思いますけど」
「そうか?」
「少しは隠してください」
 言葉とは裏腹に、その利吉の声からは先ほどまでの棘は感じられなかった。土井がいま考えているのが自分のことなのだと、もしかしたらこの子なりに勘づいたのかもしれない。

 粥は思ったより旨かった。干し飯を戻しただけのものだから味など知れているはずなのに、火加減がよかったのか米は芯まで柔らかく、少し焦げた干し魚の塩気も妙に腹に馴染んだ。かつてこの家で食べた朝餉も大抵は似たようなものだった。黒は料理をほとんどしなかったから、野良が先に起きた朝にはこうして何かしら腹に入るものが用意されていた。あれはもしかしたら山田の家で利吉がかつて習った作り方だったのかもしれない。同じ囲炉裏で同じような朝餉を、同じ名を持つ男と食べている。それなのに不思議なほど、今この時に二つの時間は重なっていなかった。利吉が食べ終えた椀をさっさと取り上げ、土井が何かを言う間もなく鍋と一緒に持っていったからかもしれない。野良なら洗い物は黒に押しつけていたし、黒が嫌な顔をすれば「食った奴が洗え」と当然のように言った。もっとも最後には呆れながら自分でやっていたことも多かったが、少なくともあの子のように最初から世話を焼くような真似はしなかった。
 戸口の向こうから水の音がする。その音を聞きながら一人になった囲炉裏端で荷の脇に目をやると、布に包んでそこに入れたものの形が確かめるまでもなく見えるような気がして、土井は僅かに喉を詰めた。
 これを返す。そう決めてここまで持ってきたはずなのに、いよいよ今日だと思うと胸のどこかが往生際悪く手を伸ばしてくる。暫く包みを眺めていたところに外から利吉の戻ってくる足音がする。土井は何でもない顔を作ると、ほどけてもいない紐を指で確かめるようにして荷を括り直した。
「行けますか?」
「ああ」
「ここからだと、どのくらいですか」
「半日もかからない。尾根を一つ越えるが」
 利吉はそれ以上何も聞かなかった。火を落とし、灰を均し、昨夜動かした板や朽木を元の場所に寄せていく。どうせ誰も住まない家なのだからそのままにしておいても構わないはずなのに、忍らしく自分たちが使った痕跡を一つずつ片づけ、囲炉裏の灰まで丁寧に均してここに誰もいなかったことにしているのを見ていると、土井は妙な気分になった。
 閉じられた頁では、ここに一日いちにち、暮らした痕跡を残していった。屋根を塞ぎ、床を張り、壁に板を打ち、縄や獣皮を掛けて、二人が生きるための形に少しずつ変えていった。それなのにその痕跡はどこにもなくて、昨夜一晩だけ過ごした二人の跡を、利吉が自分の手で消していっている。
 それでいいのだろう、と土井は思った。ここに何かを残して、昔の続きを作る必要はない。
「お兄ちゃん」
 呼ばれて顔を上げると、利吉はもう戸口に立っていた。
「行きますよ」
「ああ」
 立ち上がってから一度だけ囲炉裏を振り返る。朝の火は消えていたが、灰の底にはまだ僅かに熱が残っているのだろう。細い煙が一筋だけ上がり、屋根の穴から差し込む白い光の中に溶けていた。

 山は昨日よりも明るかった。朝には薄く掛かっていた靄も日が高くなるにつれて消え、濡れた草の先で光が細かく弾けている。廃村を出て暫くは獣道ほどの細い道が残っていたけれど尾根に近づくにつれてそれも途切れ、二人は木々の間を縫うようにして斜面を登った。
 利吉は少し先を歩いている。昨日までなら半歩ほど後ろにつくことが多かったのに今日は妙に前に出ている。朝、大きくなったなと言われてなんとも言えない顔をしていたが、そのことがまだ尾を引いているのかもしれない。
 行く先を垂れた枝が大きく遮っているのが見えた。前を行く利吉が低い枝を押し上げ、そのまま土井が潜り抜けるまで黙って支える。礼を言う間もなく手を離して先へ進む背中を見ていると、ふと浮かびかけた別の男の姿が、枝葉の揺れと一緒に薄れていく。
 こういうことが、これから増えていくのだろうか。似ているから思い出すのではなく、違うから思い出さずに済む瞬間が。

 昼近くになって、土井は足を止めた。二歩ほど先を歩いていた利吉もすぐに気づき、振り返る。
「……この辺りだな」
 声にしてみて、思っていたよりも何も起こらなかったことに気づく。胸が締めつけられるでも、足が震えるでもない。ただ目の前には木々の切れた斜面があり、その上側には岩肌が覗き、遥か向こうには沢が白く光っている。季節も違えば草木の茂り方も違う。それでも地形だけは間違えようがなくあの場所だった。
 焙烙火矢が転がり、爆ぜた火が視界を赤く染めて、身体ごと地に叩きつけられた。耳から音が消えたあと、最初に見えたのは自分ではなく覆い被さる利吉の血で。
 そこまで思い出して初めて、土井の足は動かなくなった。
「お兄ちゃん」
 利吉の声がした。近い。けれども触れてはこない。心配──とは少し違う。目上の者に真っ直ぐに立つことを強いる声だ。
「……大丈夫だ」
 草を踏んで進む。あの時爆発で抉れたはずの土は何の傷もなく、長い年月を経て塞がったという様子さえなかった。血もなければ、焼けた草も、誰かがここに倒れた跡もない。それでも土井にはあの時自分がどこに膝をついたのかが分かった。どちらを向いて利吉を抱き起こしたのか、あの身体のどこからどれだけ血が流れていたのかも、嫌になるほどよく覚えている。
 夢ではない。痕跡がなくてもなかったことにはならない。なかったことにしたくもなかった。
 斜面の途中まで進み、一本の木の根元に手をつく。あの時にはまだ細かった幹が少し太くなっていて、指先に伝わる樹皮のざらつきだけが今の時間に属している。土井はそれを確かめるように何度か撫で、それからようやく荷を下ろした。利吉も少し離れたところに荷を置く。
「ここにしますか?」
「ああ」
 それだけで通じた。利吉は周囲を見回すと手頃な石を拾い始め、大きさの近いものを幾つか選んでは木の根元に運んでくる。
「墓を作るのか?」
「嫌ですか」
「……いいや」
「場所が分かるものがあった方がいいでしょう。次に来た時のために」
 ──次に。
 その言葉が利吉の口から出たことに、土井は単純に驚いていた。一度弔えばそれで終わるのだと思っていた。死者を然るべき場所に置くということは、ここに来て何かを手放し、振り返らずに帰ることなのだとどこかで勝手に決めていたらしい。
 けれども墓とは、本来また来るための目印でもある。それを作るのだとこの子は言う。帰るべき家があるこの子が──この子だからこそ。喉の奥が少し詰まって、うまく声が出ない。
「……また来てもいいのか」
 どうにかそれだけ訊くと、石を抱えていた利吉が怪訝そうにこちらを見た。
「来たくないんですか?」
「いや……」
「弔ったら忘れなければならないなんて、私は言ってませんよ」
 そう言って石を置く。ごとりと鈍い音がして、土井は何も返せなくなった。
 父も母も、乳母も家臣たちも、皆置いてきた。焼けた屋敷から逃げた時も振り返れば戻ってしまうような気がして、ただ前だけを見て走った。自分にとって、死者とは置いていくものだった。生き残った者はその場から離れ、二度と手の届かないところに押し込めて、それでも身体だけを先に運ぶしかないものだと思っていた。
 だから野良の死も、同じようにした。違っていたのはあの男が最後に黒を自分自身の手で押し出したことくらいだ。
 行け──と。生きろ、と。
 それが、あの男の遺志だった。その声に従って逃げたまま、自分は四年も戻らなかった。
 黙り込んだことにも利吉は何も言わず、ただ石を三つ、四つと運んだだけで、土井が手を出すまで積み上げようとはしなかった。待っているのだと気づいて、土井は暫く置かれていく石を眺めたあと、膝に手をついて立ち上がった。
「私もやる」
「はい」
 あとは二人で石を集めた。立派な墓を作るつもりはない。大きな石を一つ据え、その周りに崩れない程度に小石を積むだけの簡素なものだった。土井は石を選ぶたびに時間をかけた。形が悪い、座りが悪いと言ってはあまりに何度も取り替えるので、途中から利吉が呆れた顔をし始めた。
「意外と細かいんですね」
「こういう時くらいはいいだろう」
「家の修補は雑だったのに」
 昨夜の話を覚えていたらしい。土井は石を抱えたまま利吉を睨んだ。
「君まで言うのか」
「その人も言っていたのでしょう」
「ああ。何度もやり直されたな」
「では、二対一ですね」
「腹立つなぁ」
 そう返した声は思いのほか普段通りで、土井は自分でも少し驚いた。死者の墓を作りながら笑っている。こんなことをしていいのだろうかと一瞬思ったが、閉じられた頁の中の利吉なら、きっと今の石の積み方にも何かしら文句をつけただろう。傾いているだの、雨が降れば崩れるだのと言って、結局自分で直したに違いない。
 そう思うと、胸の奥にあるものは痛みだけではなかった。
「……ここ、もう少し右だな」
「こうですか」
「いや、行き過ぎだ」
「細かいですね」
「君が始めたんだろう」
「お兄ちゃんが急に凝り始めたんじゃないですか」
 利吉が呆れながら石を動かす。その手元を見て土井は少しだけ笑う。石を組みながら利吉が、でもまあ、と呟いた。大雑把なお兄ちゃんにこんなに丁寧に墓を作られて、その人はきっと嬉しいでしょうね、と。

 石を積み終えた頃には、日はほとんど真上まで上がっていた。木漏れ日が墓の上に細く落ち、白っぽい石は周囲の景色からそこだけ浮いて見える。少々目立つだろうかとも考えたが、まあいいか、と思い直す。無縁仏の墓には何もない。掘り起こす者もいないだろう。
 土井は墓の前に座ると荷を引き寄せ、包みを解いた。幾重にも巻いていた布の中から古びた首巻きが現れたところで、背後の利吉が僅かに息を呑む。
「それが……?」
「ああ」
 指で持ち上げると、布は随分と柔らかくなっていた。何度も使い、何度も洗い、それでも捨てられずに四年もしまい込んでいたもので、ところどころ擦れて薄くなっているのは閉じられた頁で黒が身につけていた頃から変わらない。
 最初に渡された時のことを思い出す。雑にこれを寄越して使え、と野良は言った。恩を売るような顔でも、贈り物をするような顔でもなく、ただ自分には要らないからという風に押しつけてきた。黒も素直に巻くのは癪だったが、それでも夜になって冷え込むとその温かさが手放せなくなった。
 あの頃はまだ、自分の頸に何の価値もないと思っていた。その頸を温めるために、あの男は自分の持ち物を寄越した。それをここに、置いていく。
 土井は首巻きを墓の前に置いた。
 置いた──はずだった。
 それなのに指が離れない。布の端を親指と人差し指で摘んだまま俯いていると、力を入れているつもりはないのに指先だけがどうしても開かない。利吉は何も言わず、隣にも来ず、少し後ろに立ったまま土井が自分で手を離すのを待っていた。先程と同じ気配を感じる。見守りながらも目上の者に、真っ直ぐに立つことを強いる気配。
 土井は一度目を閉じた。
「……利吉くん」
「はい」
「少し……ここにいてくれ」
 一拍だけ間があった。
「勿論。いますよ」
 返ったのは、それだけだった。手を取るでも背を撫でるでもない。それでも背後には人の気配があり、呼吸があり、確かにそこにいるのだと分かる。そのことを確かめてから、土井はようやく指を開いた。
 途端に頸元がひどく寒くなったような気がして、無意識に自分の喉に手をやった。あの男が守った頸が四年経った今も、自分の肩の上にきちんと乗っている。もう行け──と、掠れた声で告げたあの声をまだ覚えている。すぐに追い付く、と野良は言った。待ってなどいなかったのにずっと自分は待っていて、待ちくたびれてとうとう自分から会いに来てしまった。
「……遅くなったな」
 声にすると、それだけで喉が詰まった。
 何を言えばいいのか、ここへ来るまで何度も考えたはずだった。ありがとうだとか、すまなかっただとか、忘れていないだとか、頭の中では幾つも言葉が浮かんでいたのに、墓を前にしてしまうとどれも違う気がした。
「お前は……」
 そこまで言って口を閉じる。利吉が後ろにいる。同じ名を持つ男の前で、死んだ利吉に語りかけるのは奇妙だった。けれども今は、その奇妙さも以前ほど怖くなかった。
「……本当に、勝手な奴だったよ。人を拾って、勝手に名前をつけて、勝手に飯を食わせて……私がようやく、お前と一緒にいるのも悪くないと思い始めた頃には、今度は勝手に死んで」
 最後の方で声が少し震えた。笑おうとしたが、うまくいかない。
「逃げろなんて言うな。すぐに追い付くなんて言って……私は……お前を置いていくしかなくなるだろう」
 あの日は言えなかった。残りたいと言っても残らせてくれなかっただろうし、利吉は最後まで黒を生かそうとしていたから黒もそれに応えることしかできなかった。それが正しかったのだと今でも思う。思うからこそ、腹が立つ。そうだ、自分はずっと腹を立てていたのだ。ずっとずっとずっと── 一緒に生きたいと思った相手を守れなかった自分に、怒っていた。
「お前のせいで、私は生きた」
 膝の上で組んだ指に力が入る。
「……ちゃんと、生きたよ」
 忍術学園へ行った。名を得て、教師になった。子供たちに囲まれて毎日くだらないことで怒鳴り、怪我をすれば手当をして、飯を食って眠って、時々昔の夢を見た。あの頃十二だった利吉がもう十六になった。
 同じ顔で笑い、違う声で怒り、土井が見ないふりをしていたものを一つずつ拾い上げて、とうとうこんなところまで連れてきて。
 そこまで考えて、土井は墓の前に置いた首巻きを見た。
「……お前が守ったものを、私は思ったより粗末にしなかった」
 返事はない。当たり前なのに、それでも暫く待ってしまった自分に気づいて、土井は俯いたまま薄く笑った。
「だから……もういいよ」
 何が、とは言わなかった。
 もう守らなくていいのか。もう追わなくていいのか。それとも、もう自分のことを責めなくていいのか。
 どれも少しずつ違って、どれも少しずつ合っているような気がした。ただ、抱き締めたくて仕方がなかった。あの男を今抱き締めてやりたい。自分のことを責めて責めて責めて、黒を逃がしても最後の最後まで、うまくできなかったと己を責めていたに違いないあの男を。
「……ありがとう、利吉」
 背後で、息が止まったような気配がした。
 それはほんの一瞬だった。衣擦れが小さく鳴り、それきり何の音もしなくなる。振り返らなくても自分と同じ名を死者に向かって呼ぶ声を聞いて、利吉が僅かに身を強張らせたのだと分かった。でも──知られてしまって構わないと土井は思った。今呼んだのは、後ろに立っている利吉ではない。閉じられた頁の中で黒を拾い、名を与え、この頸を守って残った男の名前だった。同じ名なのに違う。そのことに気づいた時、あれほど重なっていた二つの輪郭が、完全ではないにせよほんの僅かに離れて見えた。
 土井は目を閉じ、深く息を吐いた。
 風が木々を抜けていく。白い石の前で古い首巻きの端が僅かに揺れ、背後ではもう一人の利吉が、何も言わずに立っていた。
 どれほどそうしていたのか分からない。やがて首巻きも土に埋めてしまってから立ち上がると、後ろにいた利吉も黙って姿勢を直した。
 目が合っても、利吉は何も尋ねなかった。
「……終わりましたか」
 少し考えてから、土井は墓を振り返った。幾度か逡巡し、がりがりと頭を掻く。
「うーん……たぶん、終わりはしないと思う」
 利吉の眉が僅かに動く。
「そうですか」
「ああ。でも、今日はこれでいい」
「はい」
 それだけ言って、利吉は土井の荷を一つ持ち上げた。
「それ、私のだぞ」
「知ってます」
「自分で持てるから」
「知っています」
「なら返せ」
「嫌です」
 あまりに平然と言うので、土井は思わず利吉の顔を見た。
「一体なんなんだ」
「帰りくらいは持たせてください。重かったでしょうから」
「別に重くは……。あ」
 利吉の言いたいことが分かって、土井は荷に手を伸ばすことを止め、そのまま利吉と並んで斜面を下り始めた。
 数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
 石の小さな墓が木の根元に見え、その前には首巻きの埋まった土が僅かばかりの黒さを残してただそこにあった。戻って掘り返してもう一度荷の底に仕舞ってしまいたい衝動は確かにあった。それでも足は止まらなかった。
 ──死者を置いていくことと、捨てていくことは同じではない。
 その違いをまだうまく言葉にできないままに前を向くと、少し先を歩いていた利吉が足を止めてこちらを待っている。
「お兄ちゃん」
「ああ。今行くよ」
 呼ばれて、土井は歩き出した。
 ひどく人恋しくて、泣きたいような気持ちだった。