大江戸転生主従パロ利土 手を離す~5~
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利吉が蔵の整理を言い渡されたのは、土井が視察に発ってから三日目の朝だった。
「山田殿。蔵の棚卸しを頼みたいのだが」
留守居役の老臣が、書付を差し出しながら言った。
「若がお戻りになる前に、献上品の台帳と現物の照合を済ませておきたい。蔵の中身は年々増えておるが台帳との不一致が出始めておる。今のうちに片付けておけば、お戻りの際にご報告できる」
「承知いたしました」
利吉は一礼して書付を受け取った。
蔵の棚卸し。帳面と睨み合い、箱を開けては閉じ、埃にまみれる仕事だ。忍の務めも似たような地味さはあるが、これは管理だ。忍の仕事とは程遠い。
そうは思ったが、利吉に断る理由はなかった。
──屋敷を頼む。
土井は出立の朝にそう言った。利吉の目を見ずに言われたその短い言葉が今の利吉にとっては唯一の繋がりだった。屋敷を頼むと言われたのだから、屋敷のために働く。たとえそれが蔵の埃を払う仕事であっても。
土井家の江戸屋敷には、蔵が三棟ある。
利吉が任されたのはそのうち最も古い一棟で、主に領地からの献上品や家中の記録を収めている蔵だった。敷地の奥まった場所にあり、厚い漆喰の壁に囲まれた重厚な造りである。利吉は鍵束を受け取り、蔵へ向かった。
午前の陽射しが庭を白く照らしている。初夏の風が吹き抜ける中、蔵の周囲だけは空気が淀んでいるように感じられた。古い建物特有の、時間が堆積したような重さ。
扉の前に立ち、鉄の錠に鍵を差し込み回すと、重い音がして錠が外れた。分厚い欅の扉は、乾いた軋みを上げながらゆっくりと開いた。
蔵の中は薄暗かった。
小さな明かり取りの窓から差し込む光が、埃の粒子を浮かび上がらせている。空気は乾いて冷たく、外の初夏とは別の季節のようだった。目を凝らすと正面に帳面を収めた棚が並び、左手には武具や道具類の箱が積まれている。右手の壁沿いには衣装箱や調度品が整然と並べられ、奥へ向かうほど古い品が収められているようだった。
天井を見上げる。太い梁が東西に走り、その下に細い梁が等間隔に渡されている。通気口は上部に二箇所。扉と反対側の壁には小さな窓がもう一つあるが、板で塞がれていた。
利吉はその全てを、数息のうちに把握した。梁の間隔、壁の厚さ、扉から奥の壁までの歩数。何かが起きた時、この蔵をどう出入りできるか。どこに身を隠せるか。どの位置なら外の音を拾えるか。
忍の目で蔵を見ている自分に、ふと自嘲が浮かんだ。これはただの棚卸しだ。敵が潜んでいるわけではない。けれども体に染みついた習性は、簡単には抜けなかった。
台帳と照らし合わせながら、利吉は手前の棚から順に確認を始めた。帳面の棚には、領地の年貢記録、家中の出納帳、藩の公的な文書の写しなどが年代順に納められている。どれも几帳面に分類され、背表紙に墨で年と分類が記されていた。土井家が領地と向き合ってきた歳月が、そのまま棚に詰まっている。
次に武具の箱を確認した。陣笠、手甲、具足の一部。実用というよりは家の格を示すために保管されているもののようだった。衣装箱にはかつての当主の正装や儀式用の品が収められている。防虫のためだろう、微かに樟脳の匂いが漂っている。
奥へ進むにつれ、品々はより古くなっていった。漆が剥げた小箱、色褪せた布に包まれた器、虫に食われかけた書付。どれも丁寧に保管されてはいるが、長い年月には抗えない。利吉はその一つ一つを台帳と照合しながら確認していった。単調な作業だったが不思議と苦ではない。この蔵の中にあるのは土井家の歴史そのものだ。利吉が仕えている家の、来し方。
(若は、これだけのものを背負っておられるのだな)
四男であっても、この家の血を引く者だ。自由にさせてもらっていると言いながら寺子屋の先生として穏やかに笑いながら、あの人はこの重さを知っている。
そのとき利吉の手が、ふと止まった。奥の棚の一角に蓋に地名が書かれた同じ大きさの木箱が並んでいる。その地名は、土井が今まさに視察に向かっている村のものだった。
利吉は目を瞬いた。台帳を繰ると「献上品」と記されている。献上の記録は古く、少なくとも百年以上前から定期的に品が納められているようだ。この村と土井家には長い繋がりがあることが箱の並びからだけでも伺い知れる。
手を伸ばしかけたが、既に蔵の中が暗くなり始めていた。明かり取りの窓から差し込む光の角度が変わり、奥の棚はもう影に沈んでいる。蔵に灯りを持ち込むのは禁じられている。火気厳禁が蔵の鉄則だ。
「──明日にしよう」
利吉は台帳に今日の進捗を書き留めて蔵を出た。扉を引き、錠をかける。鉄の重い音が夕暮れの庭に響いた。
空を見上げると、茜色の雲が西の空に流れている。土井が視察に向かった方角だった。あの村で、若は何を見ているのだろう。この蔵に積み重なった歴史の、その先にあるものを。
利吉はしばらく西の空を見つめていた。
風が吹き、初夏の風に混じって微かに──ほんの微かに、甘い匂いがした気がした。蔵の中の衣装箱に残っていた樟脳の残り香が、鼻の奥にこびりついているかのような。
利吉は首を振り、屋敷へと戻った。
***
街の裏長屋の一角には伊作の診療所がある。診療が終わった夕刻、伊作は帳面を閉じて、ふうと息をついた。
ここ数日、火傷の患者が絶えない。どの傷も命に別状はなかったが、立て続けに起きる火事の余波は確実に町の人々の肌を焼いていた。
「先生、お茶をお持ちしましたよ」
「ありがとうございます。いただきます」
近所の老婆が顔を覗かせた。伊作が世話になっている長屋の大家だった。伊作は穏やかに微笑んで湯呑みを受け取る。温かい番茶が、張り詰めていた肩の力をほどいていく。
「先生も気をつけてくださいよ。この頃、火事が物騒ですし」
「ええ。皆さんも、火の元にはくれぐれも」
老婆を見送ってから、伊作は帳面を開き直した。今日の患者の中で、気になる証言があったせいだ。
一人目は、浅草の長屋に住む魚売りの男だった。火事の夜、水を汲みに出たところで火の手に巻かれ、腕に軽い火傷を負ったそうだ。伊作が手当てをしながら話を聞くと、男は顔を曇らせてこう言った。
「先生、あの晩な、火が出る前に妙なもんを見たんだ」
「妙なもの?」
「黒い影さ。人の形をしてたが、顔は分からなかった。提灯も持たずに暗がりの中をすうっと動いてたんだ」
「それは……火が出る前ですか?」
「ああ。それからしばらくして、ぼっ、と燃え上がったんだ。最初は灯籠が倒れたのかと思ったが、あんな燃え方はしねえよ」
二人目は、深川で火事に遭った飯屋の女将だった。彼女の火傷は肩のあたりに広がっており、伊作は丁寧に薬を塗りながら話を聞いた。
「油の匂いがしたんですよ、先生」
「油?」
「ええ。火が出る少し前に。行灯の油とは違う、もっとこう……べったりした匂いが。でも変だと思う間もなく燃え出して」
「その匂いは、火が出てからも続きましたか」
「ええ、むしろ強くなった気がします。煙に混じって、鼻の奥にこびりつくようで」
伊作は帳面に書き留めた。
黒い影。油の匂い。
留三郎が火事場で感じ取ったことと符合する。
(やっぱり、偶然じゃないな)
番茶を一口啜り、伊作は窓の外に目を遣った。夕焼けが長屋の屋根を赤く染めている。穏やかな景色とは裏腹に、この町のどこかで次の火種が用意されているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がざわついた。
***
翌日の昼過ぎ。留三郎は、前夜の火事場に戻っていた。
神田の裏通り。昨夜のうちに火は消し止められたが、焼け跡には焦げた柱と崩れた壁が残っている。近隣の住人は片付けに追われ、往来には煤混じりの埃が漂っていた。
留三郎は半纏の袖を捲り、焼け跡の端を丹念に見て回った。何がどう燃えたかを知ることは、次の火事を防ぐ術を知ることでもある。
「留三郎」
声がして振り返ると、七松小平太が立っていた。同心の装いで、腰には十手を差している。背は留三郎よりも低いが、その体躯は鍛え上げられた武人のそれであり、眼差しには猛禽を思わせる鋭さがあった。もっとも、その鋭さの奥に宿る人懐こさを、幼なじみたちはよく知っている。
「小平太」
留三郎は手を止めた。
「勤めか?」
「まあな。検分のついでだ」
小平太は焼け跡をぐるりと見渡した。その目つきは見慣れた同心のそれとは少し違っていた。いつもの勢いの良さは影を潜め、静かに現場を観察している。
「また付け火か。もう何件目だ」
「この一月で六件。うち、この三日で三件だ」
「そいつは多いな」
小平太は腕を組んだ。
「奉行所はどうなってる」
「それがな」
小平太の声が低くなった。
「噂じゃ動けないらしい。上の方は『町火消しに任せろ』の一点張りだ。小火で収まっているうちは、大事にしたくないんだろう」
「馬鹿な」
留三郎は眉を寄せた。
「小火で済んでいるのは、こっちが必死で消し止めているからだ。犯人が本気を出せば、大火になりかねない」
「分かっている。だが、上が動かなければ奉行所としては手の打ちようがない」
小平太は淡々と言った。だが、その言葉の端に苛立ちが滲んでいる。
「……ただ」
小平太が一拍置いて続けた。
「私が見ているものを、控えに残しておくことはできる」
留三郎は小平太を見た。
「控え?」
「奉行所に提出する正式な書付ではない、私個人の記録だ。お前が現場で気づいたこと、伊作が患者から聞いた話、文次郎が地図に落とした出火場所。全部まとめて残しておく」
「何かに使えるのか?」
「証だよ」
小平太の目が光った。
「いずれ上が腰を上げざるを得なくなる時が来る。その時に『最初から分かっていた』と言えるだけの記録があれば、奉行所は血眼になる。上は面子があるからな」
留三郎は少し驚いた顔をして、それから口の端を上げた。
「お前がそういう手を使うとはな」
「何だそれは」
「いや。てっきり『イケイケどんどーん!』で突っ込むかと思った」
「馬鹿にするな」
小平太は不服そうに鼻を鳴らしたが、すぐに真剣な顔に戻った。
「もし犯人に狙いがあるなら──少し泳がせてみるのもいいかもしれん」
留三郎の目が細くなった。
「泳がせる?」
「こちらが気づいていることを悟られずに、次に犯人が動く時を待つ。そうすれば、狙いが見えてくるかもしれない」
「火消し連中には負担をかけるかもしれないが」と小平太は付け加えた。留三郎は腕を組み、焼け跡を見つめた。
小火とはいえ、火事場では常に命の危険がある。仲間の鳶たちに、そうした危険を承知の上で待てと言うのは街の警備への不審に繋がるかもしれない。だが実質、奉行所はまだ動かないのだ。それであれば狙いがあって動かないらしいと説明した方がまだ士気が保てるかもしれない。
「真犯人が捕まえられるなら、協力する」
留三郎は言い切った。
「江戸じゅうが警戒しているから、そうそう大火にはならないはずだ。他の組にも、これからも放火が続きそうだと伝えておこう」
「助かる」
小平太が頷いた。
「私も長次に情報を流しておく。おそらく犯人は、奉行所狙いだと思わせたいんだろうから」
「自身番の周辺ばかり燃やしているのは、目くらましか」
「その可能性が高い。長次の瓦版で世間がそう思い込めば、犯人は安心して本来の目的に動く。そこを捕まえる」
留三郎は小平太を見た。
幼い頃から「思ったままに突っ走る男」だと思っていた。確かに、小平太の行動力は誰よりも速く、誰よりも大胆だ。だが、こうして話を聞くと、その奥にある洞察は決して浅くない。
「……お前、案外考えてるんだな」
「案外は余計だ」
小平太は呆れたように言ったが、その目は笑っていた。
留三郎は改めて焼け跡に向き直った。
昨夜、消火の際に気になっていた場所がある。建物の北側、出入り口から少し離れた壁際だ。
しゃがみ込んで、焦げた板を持ち上げた。煤に覆われた地面の中に不自然な染みがあった。指先でそっと触れる。乾いてはいるが、土に吸われきっていない油の痕だった。焦げた木の匂いに混じって、微かに油臭さが漂う。
「小平太」
「何だ」
「これを見ろ」
小平太が傍に寄り、留三郎が示す箇所を覗き込んだ。
「油だな」
「ああ。灯籠や行灯の油じゃない。もっと量が多い。ここから火を点けたんだろう」
留三郎は周囲を見回した。油の痕は壁際に沿って、細く帯のように続いている。まるで、燃え広がる道筋をあらかじめ作っていたかのようだ。
「伊作が患者から聞いた話と一致する。火が出る前に油の匂いがした、と」
「なるほどな」
小平太は懐から小さな帳面を取り出し、筆を走らせた。出火の位置、油の痕の形状、壁際に沿った帯状の広がり。留三郎の観察を、一つ一つ丁寧に書き留めていく。
「何か変わった油か?」
「いや」
留三郎は首を振った。
「普通の油だ。菜種か胡麻か、その辺りだろう。特別な匂いはしない」
「つまり、どこでも手に入るものか」
「そういうことだ。足がつきにくい」
小平太は筆を止めて、帳面を見つめた。
「……犯人は慣れているな」
「ああ」
留三郎も同じことを感じていた。
油の撒き方に迷いがない。火の着け方を知っている者の仕業だ。素人が衝動的にやったものとは、明らかに違う。
「だが」
留三郎は焼け跡の全体を見渡して、呟いた。
「……慣れているくせに、燃やしきっていない」
「どういうことだ」
「この建物、本気で燃やすつもりなら、もっと燃える。柱の配置も壁の材質も、火の通り道は幾らでも作れた。なのに、この程度で収まっているのは小火を狙ってるとしか思えん」
留三郎は立ち上がり、煤のついた手を払った。
「まるで火の勢いをわざと抑えているようだと前にも言ったが、燃やすのが目的じゃない。燃え方を……試している、とでも言えばいいか」
「試している」
小平太はその言葉を帳面に書き込んだ。
「文次郎も似たようなことを言っていたな。何か引っかかる、と」
「文次郎にも見せたら、もう少し分かるかもしれないな」
「よし。燃えかすを少し持ち帰れるか」
「任せろ」
留三郎は焼け跡から、油が染みた板片と壁際に落ちていた縄の切れ端を拾い上げた。布に包んで懐に仕舞う。
小平太は帳面を閉じ、腰の十手に手を添えた。
「じゃあ、私は戻る。上に顔を出さないと余計な疑いをかけられるからな」
「ああ。気をつけろ」
「お前もな。火事場で無茶をするなよ」
「お前に言われたくない」
二人は顔を見合わせて、僅かに笑った。
小平太が去った後、留三郎はもう一度焼け跡を見渡した。
油の痕。壁際の焦げ。抑えられた火勢。
犯人は何を試しているのか。次はどこを狙うのか。懐の燃えかすが、ずしりと重く感じられた。空には薄い雲が広がり始めている。風向きが変わる予兆だった。
後
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