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恋文



 春の陽気に誘われて、忍術学園の桜も満開を迎えていた。職員室の窓から見える景色も、薄紅色に染まっている。
「土井先生!」
 土井が廊下を渡っていると、六年生のくのたまが駆け寄ってきた。頬を上気させて、手には薄紅色の懐紙が握られている。
「これ、利吉さんに渡してくださいませんか」
 またか、と土井は心の中で溜息をつく。最近、こうして利吉宛の恋文を預かることが増えていた。くのたまたちは、土井が利吉と親しいことを知っている。だから彼女たちは土井に託すのだ。
「ああ、預かろう」
 土井が文を受け取ると、くのたまは嬉しそうに頭を下げて去っていく。その後ろ姿を見送りながら、土井の胸にちりりとした痛みが走る。

 利吉は律儀に返事を書いてくる。「くのたまたちに渡してください」と、いつも丁寧に封をした文を土井に託す。中に何が書いてあるのか、土井は知らない。わざわざ自分を通して渡すということは、やましいことは書いていないのだろうけれど。
 利吉からの文を受け取る。その度に、やはり胸のうちで何かがちりりと鳴る。それは嫉妬と呼ぶにはみっともなく、無いふりをするにはあまりにも確かな音だ。
 ──いつからだろう。文を受け取り、墨の香をかぐと、のどの奥がほんの少しだけ乾くようになったのは。どんな言葉を利吉は選び、どんな顔で筆を置くのだろう。想像しては打ち消し、打ち消してはまた想像する。
 その夜、土井は机に向かっていた。手元には数枚の懐紙と、普段使わない筆。月明かりだけを頼りに、慎重に筆を走らせる。筆跡を変え、紙も変えて。くのたまを装って、利吉への恋文をしたためた。

 ──山田利吉殿
 春の花も美しく咲き誇る頃、お変わりございませんか。
 いつも遠くからお姿を拝見するばかりで、お話しすることも叶いません。

 自嘲めいた笑みが、ふっとこぼれる。お行儀のいい言葉を並べ、最後の一行にだけほんのわずかに本心を混ぜたのは、胸の奥でちりちりと鳴り続ける、小さな音のせいだった。
 ──あなたを独り占めしたい。けれど、それが叶わないのが切ないのです。
 書き終えると封をし、他の恋文の束に紛れ込ませた。

 それからしばらくして、利吉が返信を持ってきた。
「先生、いつものようにくのたまたちに渡してください」
 三通の文があった。土井は職員室で一人になるのを待って、それぞれの封を確認する。二通は見覚えのあるくのたまたちの名前。そして最後の一通は──。
 心臓がやけにうるさく鳴り、開けるべきか、開けざるべきか、土井は今更になって悩んだ。けれども結局土井はそっと封を開けた。文はほろりと、簡単にほどける。

 ──お気持ち、うれしく拝見しました。
 けれど忍の道を選んだ以上、私が返せるものは多くありません。
 それでも切ないと書いてくださった貴方に、ひとつだけ正直に言います。
 実は私も、ある人のことを想っています。
 その人の傍にいられるだけで幸せですが、もっと近くにいたいと願ってしまう自分もいます。
 けれど急げば、きっと壊れる。だから今は、手を伸ばすかわりに、手を空けておこうと思います。
 いつか胸を張ってこの手を差し出せる日が来るように、精進努力致します。

 追伸:土井先生に、どうぞよろしくお伝えください。

 土井の手から、文がひらりと落ちた。
「先生に、よろしく……」
 まさか、気づかれていたのだろうか。それとも偶然か。
 土井は慌てて文を拾い上げ、読み返す。幾度も、幾度も、読み返した。封を綴じ直すことはできなかった。代わりに、丁寧に折り目を開き、薄紙でそっと包んだ。くのたまに宛てて書かれた彼の誠実を、きれいに仕舞っておきたくて。

 その夜、土井は自分の机に向かい、短い文を一つしたためた。宛先はない。送る相手もない。墨を乾かし、文を文箱の底にしまう。灯りの光が小さく揺れ、外では風が薄紅の花を散らしている。

 ──おかわりなくお過ごしのことと存じます。

 ちりり、と。胸のどこかで鳴った音は、今は痛みよりも、澄んだ音色に近かった。


***


 恋文というものは、妙に重たい。
 利吉は職員室で土井から三通の懐紙を受け取り、常宿へと戻った。夕暮れ時、西日が障子に赤く滲んでいる。机に文を並べ、一つ一つ封を解いた。
 くのたまからの文は丁寧な筆跡で、初々しい想いが綴られていた。もう一通も同じく、若い娘らしい言葉が並んでいる。利吉はそれを読みながら、ふっと息をついた。
(ありがたいことだ)
 心からそう思う。けれど、それだけだった。胸に響くものは何もない。ただ、誠実に返事を書かねばと思うだけ。

 最後の一通の封を解いた瞬間、利吉の指先がわずかに震えた。名前は書かれておらず、差出人は不明だった。書き忘れただけだろうか? ……いや。
 ──あなたを独り占めしたい。けれど、それが叶わないのが切ないのです。
 利吉は文を置き、静かに目を閉じた。
 誰が書いたのか、わからない。わからないはずなのに、胸の奥で何かが鳴った。ちりり、と。遠い鈴の音のように。
 恋文。
 恋とは、乞うことだ。相手におのれの幻想を押し付けて、かくあれかしと願うこと。利吉はそう思っている。自分もまた、誰かに──あの人に、恋をしている。
 まだ知らない部分がたくさんある人。彼のすべてを知りもしないのに、知りもしないからこそ、あの人に恋をしている。そしてそれが分かっているから、言えずにいることがたくさんある。
 利吉は文を手に取り、もう一度読み返した。
 ──独り占めしたい。
 その言葉が、妙に胸に刺さる。自分も同じことを思っているから。けれど口にすることは、きっとない。
 彼は、兄のような人だった。
 尊敬していた。慕っていた。
 そして──いつからだろう。その想いが、別のものに変わり始めたのは。
 土井が忍術学園に教師として赴任してから、利吉は時折学園を訪れるようになった。父に会いに行く名目だったが、本当は土井に会いたかったのかもしれない。
 教師として働く土井は、かつて利吉が知っていた人とは少し違った。穏やかで、優しくて、生徒たちに慕われている。その姿を見るたび、利吉の胸に何かが芽生えていった。
 ──この人を、独り占めしたい。
 そう思った瞬間があった。
 土井が他の教師と笑い合っている姿を見た時。生徒たちに囲まれて、嬉しそうに話している時。利吉は自分の中に、黒いものが渦巻くのを感じた。それが嫉妬だと気づくのには、そう時間はかからなかった。そしてそれが恋だと認めるのには、もう少し時間がかかった。
 ──独り占めしたい。
 文に書かれていた言葉が、また胸に刺さる。
 利吉は筆を取り、硯に墨をすった。返事を書かねばならない。三通とも、丁寧に。

 くのたまたちへの返事は、すぐに書けた。
 感謝の気持ちと、自分には返せるものが少ないという正直な言葉。彼女たちの幸せを願う一文。
 そして、最後の一通が残った。差出人不明の、あの文への返事。利吉は筆を持ったまま、しばらく動けなかった。
 何を書けばいいのだろう。どう答えればいいのだろう。
 ──実は私も、ある人のことを想っています。
 気づけば、そう書き出していた。筆が勝手に動いているようだった。本当は書いてはいけない言葉。言えばあの人を困らせる、口にしてはいけない想い。
 ──その人の傍にいられるだけで幸せですが、もっと近くにいたいと願ってしまう自分もいます。
 ああ、と利吉は思った。
 これは、恋文だ。
 差出人不明の相手に宛てた形を借りて、自分の本心を吐き出しているだけの、醜い願い。それでも利吉は正直な気持ちをそこに綴った。いつか、この手を差し出せる日が来るように。
 利吉は筆を置き、文を読み返した。
 そして、ふと思った。
 ──追伸:土井先生に、どうぞよろしくお伝えください。
 この一文を、なぜ書いたのだろう。
 自分でもわからない。ただ、土井の名前を書きたかった。この文のどこかに、あの人の名前を残しておきたかった。
 もしかしたら、差出人は土井先生かもしれない。
 そんな考えが、利吉の頭をよぎった。
 筆跡は違う。紙も違う。墨の香も普段土井が使うものとは違う。それでも。
 利吉は封をし、三通の文を机に並べた。
 明日、土井に渡そう。いつものように笑って、普段通りの顔で。
 利吉は窓の外を見た。月が昇り始めている。まだ薄い──欠けた月。満ちるにはまだ時間がかかる。彼は立ち上がり、文を懐にしまった。
 胸のどこかで、ちりりと何かが鳴った。それは痛みであり、誰かを想う音だった。