【原利土1819IF】頸と心15
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十五 春を夢む
外は夜目にも分かるほどにすっかり白くなっていて、黒はたまらず立ち上がった。その白を見て、じっとしているなどできなかった。
囲炉裏の傍に畳んであった鹿の革を手に取る。野良が作ってくれた上掛けだ。これを肩から羽織れば、多少の雪は凌げる。首巻を巻いた。篭手をはめた。敷物を割いて足に巻いた。全部、野良がくれたものだ。野良が自分のために作ってくれたものだ。
馬鹿なことだと分かっていた。
こんな雪の中、どこへ探しに行くというのか。視界は利かない。足跡も残らない。下手をすれば自分が遭難する。野良が戻ってきた時に自分がいなければ、今度は野良が探しに出るかもしれない。悪循環だ。最悪の判断だと分かっていた。
分かっているのに、足が動いた。嫌な予感がして仕方がなかった。理屈よりも時としてそういう感覚の方が正しく働くことがある。黒は自分の直感を信じた。
戸を開けると、冷たい風と雪が吹き込んできた。視界は白一色だ。もう白ですらない。日が落ちかけ、白と灰色が混じり合い、既に闇に呑まれようとしている。
黒は一歩、外へ踏み出した。
雪が脛まで埋まる。だが野良がくれた革のおかげで芯までは冷えない。首巻が喉元を守っている。篭手が手を守っている。野良の温もりが、まだここにある。
野良はどちらへ行っただろうか。黒は目を閉じ、記憶を辿った。
鹿の群れを追っていると言っていた。若い雄が二頭。三日前から追っている。初冬の鹿は冬に備えて脂を蓄える。そのために餌を求めて活発に動くとすれば、標高の高い場所は既に雪に覆われ始めているからそこはない。餌が乏しいから鹿は下りてくる。谷筋へ。南向きの斜面へ。日当たりが良く、まだ枯れ草や木の実が残っている場所へ。この山の南側には緩やかな谷がある。鹿は水を必要とするから、群れで移動するなら水場の近くに留まることが多い。あの谷なら餌も水もある。三日も追い続けているなら群れはかなり移動しているはずだ。南の谷を抜けて、その先へ。下手すると山ひとつ向こうまで行っているかもしれない。
野良は日暮れまでには戻ると言っていた。だが山ひとつ向こうまで行けば日暮れまでに戻るのは難しい。ましてこの雪だ。黒は目を開けた。
南だ。南へ向かえばいい。野良が戻ってくるなら南から戻ってくる。野良が通る道の途中にいれば、途中で合流できるかもしれない。
黒は雪を掻き分け、南へ向かって歩き始めた。一歩。また一歩。雪は重く、足が沈む。だが進める。野良のくれた革が身体を守っている。黒は歩きながら、幾度か野良の名を呼んだ。返事はない。それでも呼ばずにはいられなかった。
どれほど歩いただろう。
日は完全に落ちていた。闇が降りてきている。雪は降り続けている。視界はほとんど利かない。白い雪と黒い闇が混じり合い、何も見えない。黒は足を止めた。
これ以上進むのは危険だ。方向を見失う。戻れなくなる。ここで引き返すべきだ。引き返して家で待つべきだ。野良は山育ちだし、雪の中で生き延びる術を知っている。自分が出ていく必要などない。そう分かっているのに、足が動かなかった。ここで引き返したら、あの夢が本当になる気がした。白い花の中で息絶えている野良の姿。あれが現実になってしまう気がした。
「野良……」
黒は闇の中を睨んだ。
何も見えない。雪と闇と、その向こうの黒い影だけが見える。木々の輪郭だろうか。岩の形だろうか。いや、あの影は。
真っ暗な視界の先に、確かに何か動くものがあった。黒は目を凝らした。見間違いではない。何かが動いている。雪の中をこちらへ向かって動いている。獣か、人か、敵か味方か──。
黒は身構えた。けれども次の瞬間、その動くものの輪郭が見覚えのある形を取った。
野良だ。
野良が歩いている。雪を掻き分け、よろめきながらこちらへ向かって歩いている。黒の心臓が騒いだ。
影は、そこで止まった。一瞬、立ち尽くすように動きを止め、そして──崩れ落ちた。糸が切れ、力尽きたように雪の中に倒れ込む。
黒は走った。
雪を掻き分け、転びそうになりながら走った。膝まで埋まる雪が足を取る。構わずに走った。間違いない。近づくほどにその輪郭がはっきりと見えてくる。見覚えのある肩幅。見覚えのある髪。見覚えのある着物。野良だ。やっぱり野良だ。
「野良!」
黒は倒れた身体の傍に膝をついた。
野良は仰向けに倒れていた。目を閉じている。顔が白い。唇が青い。雪が顔に降り積もっている。払っても払っても、次から次へと降ってくる。
夢と同じだった。
白い花の中で息絶えている野良の姿と、同じ。
(嫌だ……)
黒は野良の身体を抱き起こした。重い。冷たい。だが夢の中の冷たさとは違う。まだ微かに温かみが残っている。
「野良……」
声が出た。みっともないくらい震えていた。黒は声を張った。
「野良! 起きろ。野良!」
返事がない。でも胸は動いている。息をしている。生きている。
黒は野良を抱き締めた。
少しでも温めようと。自分の体温を分け与えようと。野良がくれた鹿の革で、野良の身体を包み込んだ。野良がくれた首巻を野良の首に巻いた。野良がくれたものを、全部野良に返すように。
「……馬鹿が」
声が震えた。怒りなのか、安堵なのか、自分でも分からなかった。
「どうして戻ってきた。どうしてこんな無茶をした。どこかで雪宿りすればよかっただろう! 明日の朝まで待てばよかっただろう!」
言いながら、黒は野良を強く抱き締めた。離せなかった。離したらまた消えてしまいそうだった。野良の身体が震えている。寒さで震えて、凍えている。早く家に戻らなければ。火に当てて、温めなければ。
けれども黒は、すぐには動けなかった。
野良が生きている。この腕の中で息をしている。心臓が動いている。冷たいけれど、まだ温かい。死んでいない。──死んでいない。
「……くろ」
声がした。
掠れた、消え入りそうな声だ。黒は顔を上げた。野良の目が薄く開いていた。焦点が合っていない。朦朧としている。それでも確かに、黒を見ていた。
「……いた」
野良の唇が動いた。青い唇が、震えながら言葉を紡いだ。
「……いて、くれた」
黒は息を呑んだ。
──いてくれた。
その言葉が、胸の奥に落ちて広がる。痛いほどの熱だった。野良は、自分がここにいるかどうかを心配していたのか。戻ってきた時に自分がいなくなっているかもしれないと。だからこんな無茶をして戻ってきたのか。
馬鹿だ。
馬鹿だ──この男は。
黒は野良の頬に手を当てた。冷たい。氷のように冷たい。でも、生きている。
「いる。……ここにいる」
黒は言った。震える声で、けれどはっきりと。
「ここにいる。どこにも行かない。だから──」
言葉が詰まった。続きが出てこなかった。だから何だ。だから死ぬな。だから生きろ。だから私を置いていくな。どれも本当で、どれも言えなかった。
野良の目が、また閉じていく。意識が遠のいていく。このままでは駄目だ。今すぐ家に戻らなければ。火に当てて、温めて、凍えた身体を生き返らせなければ。
黒は野良を抱え上げた。
重いけれど持てる。野良がくれた食事で養った身体で野良を持ち上げ、黒は雪の中を歩き始めた。
来た道を戻る。家はそう遠くない。この雪でも、野良を抱えていても、辿り着けるくらいの距離だ。野良が腕の中で震えている。その震えを感じながら、黒は歩いた。一歩。また一歩。雪を踏みしめ、闇を睨み、ただひたすらに歩いた。
──死なせない。
この男だけは、死なせない。
利吉は夢を見ていた。
春の夢だった。
山の斜面に若草が萌えている。春の花が咲いている。風が温かく、どこかで鶯が鳴いている。野遊山だ。家族で行った野遊山の夢だ。
父が笑っていた。
大きな声で笑っていた。いつもの厳しい顔ではなく、目尻に皺を寄せて、腹の底から笑っていた。右腕を自由に動かしている。傷などない。不自由などない。あの日以前の、完璧な忍だった頃の父がそこにいた。
母も笑っていた。
父の隣で、穏やかに笑っていた。重箱を開けて、握り飯を並べている。父が何か冗談を言って、母がそれに笑う。仲の良い夫婦の姿だった。利吉の知っている両親の姿だった。
そしてそこに、黒がいた。
父の向かいに座って、茶を啜っている。穏やかな顔をしている。いつもの飄々とした表情ではなく、どこか安らいだ顔をしている。
不思議な光景だった。
父が忍術学園の話をしている。生徒の話。同僚の話。今度の実技試験の話。黒が頷いている。時折口を挟んでいる。あの生徒は筋がいい。あの教材は変えた方がいい。そんなことを言っている。
まるで黒が父の同僚として、学園で働いているようだった。
おかしな夢だ、と利吉は思った。
黒は抜け忍だ。追われている身だ。忍術学園で働いているはずがない。父と同僚になるはずがない。こんな穏やかな春の日に、家族と一緒に野遊山に来るはずがない。
おかしな夢だ。
おかしくて、不思議で、あたたかい。
父が何か言った。黒が笑った。利吉は見たことのないものを見た気がした。黒の笑顔だ。皮肉でも自嘲でもない、純粋な笑顔だ。父の言葉に、心から笑っている。
母が握り飯を黒に渡した。黒が頭を下げて受け取った。ありがとうございます、と言った。母が、遠慮しないで、と言った。あなたも家族みたいなものなんだから、と。
──家族。
その言葉が、夢の中で響いた。
ああ、なんていい夢だ。
利吉はそう思った。
こんな春があればいい。こんな家族があればいい。父が笑っていて、母が笑っていて、黒がいて。誰も傷ついていなくて、誰も追われていなくて、誰も罪を背負っていない。
そんな春が、あればいい。
夢の中で、風が吹いた。山桜の花弁が舞った。白い花弁が、ひらひらと降ってくる。黒の肩に落ちる。父の膝に落ちる。母の髪に落ちる。
白い花弁だった。雪のように、白かった。
利吉は手を伸ばした。その白い花弁に触れようとした。指先が届く直前、花弁は溶けて消えた。冷たかった。冷たくて、白くて──消えていく。
夢が遠ざかっていく。
父の声が遠くなる。母の姿が霞む。黒の顔が見えなくなる。待ってくれ、と利吉は思った。まだ行かないでくれ。もう少しだけ、この夢の中にいさせてくれ。
夢は、白い花弁と共に溶けていった。
後に残ったのは、冷たさだけだった。
家に辿り着いた時、黒の腕は限界だった。
野良を床に下ろし、かじかむ腕で囲炉裏の傍に横たえた。火は弱まっている。慌てて薪をくべた。炎が勢いを取り戻し、赤く燃え上がる。
野良は震え続けていた。着物が濡れている。雪が溶けて、全身を冷やしている。このままでは駄目だ。黒は野良の着物を脱がせた。冷たく湿った布を剥ぎ取り、乾いた布で身体を拭いた。肌が白い。青白い。触れると氷のようだった。
替えの着物を着せて、上掛けを被せた。野良が作ってくれた鹿の革だ。その上から、ありったけの布を重ねた。敷物も被せた。持っているもの全てを野良の身体に載せた。それでも野良は震えていた。
がたがたと、止まらない震えだった。歯の根が合わない音が聞こえる。唇が青い。爪が紫だ。芯まで冷え切っている。火だけでは足りない。布だけでは足りない。
黒は迷わなかった。
上掛けの中に潜り込んだ。野良の身体を抱き締めた。冷たい。氷を抱いているようだ。だが構わなかった。自分の体温を、全て分け与えるつもりで抱き締めた。
背中に腕を回した。胸を密着させた。足を絡めた。どこにも隙間を作らないように。どこからも熱が逃げないように。野良の身体を、自分の身体で包み込んだ。
「……っ」
野良が小さく声を漏らした。意識があるのかないのか分からない。それでもその身体は、黒の温もりを求めるように動いた。冷たい腕が黒の背中に回される。冷たい額が、黒の首筋に押し当てられる。
野良が、黒を抱き締めている。
震える腕で。凍えた身体で。無意識なのかもしれない。本能的に温もりを求めているだけかもしれない。それでも野良は黒を抱き締めていた。離すまいとするように。縋りつくように。
黒は息を呑んだ。
胸が痛かった。締め付けられるように痛かった。こんな状況なのに、黒はその腕の感触に切なくなっていた。
野良が自分を求めている。
温もりを。熱を。自分の身体を。
ただの生存本能だと分かっている。凍えた身体が本能的に熱源を求めているだけだ。自分でなくてもいい。誰でもいい。温かければ誰でも。そう分かっているのに、黒の胸は震えた。
野良の腕の中にいる。野良に抱き締められている。その事実だけで、胸が張り裂けそうだった。この感覚はなんだ。初めて味わう感覚だった。喉の奥が痛くて、熱いものが込み上げてくる。切ない。失いたくない。どこにも行かないでほしい。これはただの依存だろうか。執着だろうか。黒にはもう分からなかった。
野良の身体は、少しずつ温まっていった。
震えが収まり、呼吸が深くなっていく。肌の色が次第に戻っていくのを感じながら、黒は野良を抱き締め続けていた。
温まっても、離せなかった。野良の心臓の音が聞こえる。自分の心臓の音と重なっている。二つの鼓動が、同じ速さで打っている。
「……くろ」
声がした。
掠れた、弱々しい声。けれども確かに自分を呼ぶ声だった。黒は顔を上げた。野良の目が薄く開いていた。朦朧として、焦点が合っていない。それでも確かに黒を見ていた。見えているかは分からなかったが、黒のほうを見ていた。
「……いるか……」
野良の唇が動いた。まだ青みが残る唇が、震えながら問いかける。
「ああ、……いる」
黒は答えた。その声もまた、震えていた。
「ここにいる」
野良の目が、僅かに緩んだ。安堵したように。それを見て黒の胸は軋む。この男は意識もはっきりしていない状態で、自分がいるかどうかを確かめている。自分がまだ傍にいるかどうか。どこにもいなくなっていないかどうか。
黒は野良の額に自分の額を押し当てた。近い。息がかかる距離だ。野良の目が、ぼんやりと黒を見ている。
「……ずっといる」
黒は言った。それは自分でも驚くほど、優しく響く声だった。
「どこにも行かない。お前の傍にいる」
野良の目が、微かに揺れた。信じていいのかと問うような目だった。黒はその目を真っ直ぐに見つめ返した。
「春になったら、お前の家に行こう」
言葉は自然と溢れ出した。考えるより先に口が動いていた。野良の目が、少し大きくなった。驚いているようだった。黒は構わず続けた。
「お前の家族に会ってみたい。お前が育った場所を見てみたい。本を読みたい。お前の家にある本を。……一緒に読もう」
一緒に。
その言葉を口にした瞬間、黒の胸に温かいものが広がった。
「一緒に、春を見よう」
野良は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。だがその腕が、黒の背中を強く抱き締めた。震える腕。凍えた身体。それでも強く、離すまいとする腕だった。
黒は目を閉じた。
野良の匂いがする。汗と雪と、山の匂いがする。その匂いを吸い込みながら、黒は思った。
(もう、どうでもいい)
依存でも、執着でも、何でもいい。名前などどうでもいい。この男を失いたくない。この男の傍にいたい。この男を抱き締めて、この男に抱き締められていたい。それだけがいま自分の中にある確かなものだった。
***
夜が明けた気配がして、黒は目を開けた。いつの間にかうつらうつらしていたらしい。囲炉裏の火は落ちかけていたが、まだ赤い残り火が燻っている。窓の外は白い。雪はまだ降っているようだった。
腕の中に、野良がいた。
昨夜のまま、抱き合った姿勢で眠っていた。野良の額が黒の首筋に押し当てられている。その額が、熱かった。
黒は眉を寄せた。
熱い。昨夜は氷のように冷たかった身体が、今は火のように熱い。熱を出している。高い熱だ。黒は野良の顔を覗き込んだ。頬が赤く、額に汗が滲んでいる。呼吸は荒いが昨夜よりは深い。苦しそうだが危うさはない。熱が出ている。それは、最悪の状態を脱したということだった。
身体が冷え切ったまま、熱も出さずに衰弱していくのが一番危ない。熱が出るということは、身体が戦っているということだ。冷えに抗い、生きようとしているということだ。
とはいえまだ安心はできない。熱が高すぎればそれはそれで危険だ。水を飲ませなければ。額を冷やさなければ。やることはいくらでもある。
黒は身体を起こし、野良の腕を解こうとした。けれども野良の腕が、黒の身体を離さなかった。
「……っ」
野良が小さく呻いた。眠っているはずなのに、その腕に力がこもった。黒の背中を抱き締める力が強くなる。
「野良。水を持ってくる。少し離してくれ」
黒は野良の耳元で、できるだけ穏やかに言った。なのに野良の腕は、緩まなかった。
「……いやだ」
掠れた声がした。熱に浮かされた、子供のような声だった。
「いやだ?」
黒は目を瞬いた。
いやだ、と野良が言った。あの冷静で大人ぶった野良が。あの合理主義の忍が子供が駄々をこねるように、いやだ、と言った。
「……離れるな」
野良の腕が、さらに強く黒を抱き締めた。額が黒の首筋に擦りつけられる。汗ばんで、熱い額だった。
「どこにも……行くな」
黒は息を呑んだ。
野良の声は、ほとんど懇願だった。命令ではない。要求でもない。ただ、行かないでくれと縋りついている。あの野良が。あの、情を見せることを罪のように忌避していた野良が。
黒は呆れ、呆れながら、同時にほっとしていた。胸の奥で固く結ばれていた何かが、ほどけていくような感覚がある。
「……馬鹿だな、お前は」
黒は野良の髪に手を差し入れた。汗で湿った髪を、慈しむようにそっと撫でる。
「水を持ってくるだけだ。すぐ戻る」
「いやだ」
「お前は熱があるんだ。水を飲まないと死ぬぞ」
「……死なない」
「死ぬ」
「死なない。お前がいれば、死なない」
黒は額を押さえた。
熱に浮かされているんだ──そう思うことにした。普段の野良なら、こんなことは言わない。こんな子供のようなことは言わない。熱のせいだ。熱で頭がおかしくなっているのだ。
そう思いながらも、黒の胸は温かかった。
こんな状況で、こんな場面で、そんなふうに思う自分がおかしい。野良は熱を出している。水を飲ませなければならない。額を冷やさなければならない。そんな時に。
「……分かった」
黒は溜息をついた。
「すぐ戻る。本当にすぐだ。お前の目の届く範囲にいる。それでいいか」
野良は答えなかった。けれども腕の力が、僅かに緩んだ。
黒は野良の腕を解き、身体を起こした。野良の目が薄く開いている。熱に潤んだ目が黒を追っている。本当に離れないかと確かめるように。黒は水瓶のところへ行って椀に水を汲み、すぐに戻った。野良の傍に膝をつき、その頭を持ち上げて椀を唇に当てる。
「飲め」
野良は素直に飲んだ。喉が動く。水が身体に染み込んでいく。半分ほど飲んだところで、野良の手が黒の腕を掴んだ。
「……戻ってきた」
「当たり前だ。すぐ戻ると言っただろう」
「……ああ」
野良の目が、また閉じていく。熱と疲労で意識を保っていられないのだろう。その手は黒の腕を掴んだまま、離さなかった。
黒は空いた手で、野良の額に触れた。熱い。けれども昨夜の冷たさを思えば、この熱さは生きている証だった。
「……ちゃんと寝ろ」
黒は言った。
「私はここにいる。どこにも行かない」
野良の唇が、微かに動いた。何かを言おうとしたのかもしれない。声にはならなかった。野良はそのまま、眠りに落ちていった。
黒は野良の傍に座ったまま、その寝顔を見つめた。熱に浮かされた、無防備な顔。いつもの隙のなさはない。ただの病人の顔だった。子供のような顔だった。
黒は野良の手を握った。その手もまた、熱い手だった。
「……馬鹿だな」
黒はもう一度そう呟いた。野良ではなく、自分を笑うような声だ。馬鹿なのは野良だけではない。自分も同じだ。さっき、水を取りに行っただけで胸がざわついた。野良の目が自分を追っているのを見て嬉しかった。離れたくないと言われて、呆れながら喜んでいた。
馬鹿だ。
二人とも、馬鹿だ。
黒は野良の手を握ったまま、窓の外を見た。雪はもう止んでいた。灰色の空の隙間から、僅かに光が差し込んでいた。
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