正月ふつかというものは

ピンポン、とドアのチャイムを押す。
「は~い」と間延びした明るい声がして、のそのそと動く音。部屋の主が、何かを着込んでいる音だろう。
安物のドアが開いたとき、ちゃんとチェーンが掛っていることに、カーンは少しほっとした。
「アーサー、明けましておめでとう。」
「あれ、カーン。いつこっちに帰って来たの?」
あれ、ではない。
久方ぶりに顔を見に帰ったというのに、この物言いはなんだ。
年始から説教をしたい気分に駆られ、昔、それでアーサーと別れたことを思い出したカーンは、ぐっと口を噤んだ。
くすり、と。一度奥に引っ込んだアーサーが、扉の中で笑う気配がした。
「久しぶりだな、カーンのその顔」
いらっしゃい、アーサーは、チェーンを外して狭い玄関の中にカーンを招き入れる。
別れた冬にも着ていたその緑色のちゃんちゃんこの黒い井桁模様は、随分と色が抜けている。
カーンの美意識にそぐわなかった、その上着は。
離れている間に、少し肉をつけたアーサーの身体に、とてもよく似合うようになっていた。
見惚れている自分に気付いて、カーンは、慌てて玄関の靴脱ぎに腰を下ろして、ブーツを脱いだ。
鼻先に、蒸れた足の匂いがする。
これだから雪国は嫌いなのだ、とカーンは思う。
陰鬱で、日照時間が短く、寒い。そしてアーサーを離さない、この小さな町は。
振り返ると、アーサーはにっこりと笑って、カーンに深々と頭を下げた。
「改めて、明けましておめでとう、カーン」
2人は立っていられない玄関で、アーサーは自分の身体を台所の床まで引っ込めている。
床には、所狭しと炊飯器や米びつ、煮物を入れた鍋が置いてある。
食器棚をふと見ると、アーサーの茶碗の横に、まだカーンの黒い漆塗りの飯椀が残っていた。
カーンは、羽ばたきそうになる心を押して、年始の品だ、と手に持っていた荷物を、アーサーに差し出した。
「これ、何だ?もしかして餅?」
風呂敷に包んだ中身を詮索しながら、アーサーはカーンに白くてタオルを一枚差し出した。
雪で濡れたコートを拭けということだろう。温泉地の土産の様な薄いタオルで、カーンは、着ていたコートに付いた水滴を拭う。
タオルは、すぐに湿気たので、タオル掛けに戻した。
「餅が足りないのか?」
「それと、みかんも。…中身、聞いてもいいか?」
「そこで開ければいいだろう」
「部屋は、狭いもの。なあ、ヒントだけ。常温で保存できる?」
「伊達巻だ。それと、きんとん。」
「昔、先になくなっちゃったおかずか」
覚えてたんだ、というアーサーの言葉に、カーンは、ふと2人の間に流れた歳月を感じた。
「外、冷えただろ。早く、奥に入れよ」
「ああ」
アーサーは、カーンが脱いで腕に掛けたコートを、ハンガーに掛ける。
「狭いけどあがって」とアーサーはカーンを促した。
狭いけど、というのは謙遜ではない。六畳半、1Kの部屋は、こたつを置いてしまうとそれで満杯だった。昔も、今も。
「何がそんなに面白いのだ」
カーンは、テレビのチャンネルを駅伝に合わせているアーサーに合いの手を入れた。
「いや、馬鹿にしてたけど、あれ思ったより楽しいよ」
「だから、どこが」
「どこがって、襷を渡したり、渡されたりとか。」
アーサーは、カーンのために、自分の尻に敷いていた煎餅座布団を寄越したので、カーンは受け取って尻に敷いた。
子供の頃から、自分は、こうした誰かの温みが嫌だと思っていた。唯一、大丈夫だと思ったのが、アーサーだった。
運命の相手ではないかと、柄にもないことを考えたけれど、惹かれた以上に、反発もしあった。
とうとう、つまらないことでぶつかって、ダメになった。
カーンが、ぼんやりと尻の下のぬくみに気を取られているうちに、アーサーは、風呂敷包みを解いて、きんとんの瓶を出していた。
美しい山吹色が、見慣れた、黒い器に盛られていく。
「ごめん、カーンの昔のご飯茶碗」
色の薄いものを盛ると綺麗に見えるから、いつもサラダとかに使ってるんだ、とアーサーは言った。
この無頓着さに、一喜一憂していた頃に戻ったような心持で「いや、構わない。飲み物を貰っていいか」とカーンは言った。
冷蔵庫を開けると、ソースなどの調味料の入った場所の下段には、冷えた甘酒と林檎ジュース、それから牛乳があるだけだった。
「ビールはどうした?」
常にダース単位で冷えていたものがないと、ぽっかり空間が空いていて妙な心地だった。
「カーンが、いなくなってからそんなに飲まなくなったから」
「それなら、持ってきた酒に燗をつけよう」
「僕がやるよ」
「お前は、きんとんでも食べていろ」
「それなら、冷でいい。戻ってきて、カーンも一緒に食べようよ。重箱に、まだ食べるものが残っているんだ」
アーサーは、皿とフォークをカーンに差し出した。
お節の重箱の隅をつついて、黒豆を取り出し、カーンの皿に盛り付ける。
今年も、まめまめしく働くぞ、などと気炎を上げているが、あやしいものだ。
「私が酒を注ぐから、お前は猪口を持って待っていろ」
「ありがと、愛してるよ、カーン」
普段は聞けない台詞の大盤振る舞いである。酔っぱらったら、誰にでも言うのである。
(つきあう前に、アーサーと初めてセックスをしたあとで、カーンはそのことに気付いた。)
私たちは一度別れたではないかと、言わずもがなの繰り言も言えず。カーンは、こたつの上に乗っていたお猪口を流しで洗って、持ってきた酒の飲み口を開けて中身を注いだ。
そうして、薬缶を火にかけて、お猪口をその中にそっと沈めた。
ぬる燗でいいのだから、見てなければならない。
それは、アーサーと暮らしていた当時、いつものカーンの仕事だった。
「おかえりい、カーン。お正月って、いいねえ」
ちゃんちゃんこを羽織って、猫のようにこたつの中で丸くなっているアーサーは、カーンの方へ腕を伸ばした。
煮物のタケノコが口からはみ出ている。
「お酒もってきてくれた?ちょうだい!」
アーサーは、タケノコを勢い飲みこんで、目を輝かせながら猪口を差し出す。
これで百年の恋も醒めないなど。
正気ではいられない、とカーンはため息をついて、座布団の上に膝立ちになって、先に自分の猪口へ徳利を傾けた。
「あ、ずるい!」
「ずるくはない」
「僕にも・・・」
とぷとぷと、ゆっくりと酒を注ぐ間にも、アーサーのふっくらした指だとか、赤い口元に、カーンの視線は引き寄せられそうになる。
ほのかに、明るく透明な酒が金箔を散らして、アーサーの手元の白い猪口に注がれる。
「おめでたい色だね」
「そうだなあ」
目が合って、くいっと酒を開けた。アーサーも、遅れじと猪口を開ける。
「今年は、カーンと一緒で、いい年が迎えられたよ」
カーンが、一年いいことがあるように、とアーサーは返杯の猪口を傾け、その上に黒い昆布を浮かべた。
かろうじて残っていたお重の中身は、アーサーの皿の上に移動してしまっている。
「数の子は半分こ、海老も・・・海老はカーンにあげる」
カーンが、幸せで長生きをしますように、とアーサーは祈りのように口ずさむ。
身体はふらふらとしているのに、手元の箸は生き物のようにカーンのための取り皿に食べ物を盛り付けた。
カーンは、ありがたく食べることにした。
テレビは、ちょうど襷の受け渡しのシーンに入ったようだった。先頭の集団を、かしましいキャスターが解説している。
「自分の進む先に、誰かが待っててくれる、って、いいな」
寒空に、気がふれたような薄着で走る若者の背を見ながら、アーサーはまるで1人でいるような風に呟いたので。
「後で、神社まで歩いて行くか。」
ほろりと、付き合っていた頃の正月に戻ったような言葉が、口から転び出た。
ふたりで、とは言わない。それは、いつも決め事だった。
「途中で、一緒にスーパーに寄ってくれる?蜜柑と餅も買って帰りたい」
アーサーの言葉に、少し色が灯った。
「社も、今日は空いていた。御籤も、絵馬も買えよう」
数の子を齧りながらカーンが返事をすると、アーサーは「おみくじは、いいよ」と言った。
忙しかったときに、してやれなかったことの埋め合わせと思われただろうか。
そうではない、と言い訳じみた言葉も、年始から口には出来ず、カーンは猪口の中身を空けた。
口から出たのは、「遠慮は、するな」という一言だった。
アーサーは、首を振って、カーンの方を見つめ「きっと大吉だから」と言った。
「大吉?」
「待ち人が来たし、それに、失せ物も見つかった。」
「アーサー?」
「僕は、まだ君のこと、好きだ」
大好きだ、と言いながらふにゃふにゃになった元恋人を、移動させるような寝台のスペースは、この部屋にはなかった。
カーンは、こたつにつっぷして寝始めたアーサーの横顔を突いて、起きないことを確かめると大きく嘆息をついた。
「私が先に言おうと思っていたのに」
これでは格好がつかないではないか、とカーンは呟き、脱いだコートを、アーサーの緑のちゃんちゃんこの上に、毛布代わりに掛けた。


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