オメガバース🐞🍊


  本気で好きだったんだ
  あぁ
  本当に、本気で、俺は……
  なぁ。でも俺がいるだろ?
  お前はあいつじゃねぇ
  ……お前があいつを想うように俺はお前を想ってるよ
  ん? んん?
  わかんねぇか。そうだよな、この酔っ払い。
  あー……
  吐くなよ。吐くならそっち行け。
  んぁ……


 もう何杯目かのパイントかはわからない。そもそも、数えようともしていなかった。
 何もかもがどうでもいい。
 手持ちの金が底をつくか、支払いの勘定ができなくなるまで飲むだけだから。
 酔いは程よく回りまくっているらしい。喉の奥からゲップに混じったような笑いが漏れる。昼よりも夜の方が明るく感じる店内でわざわざ横に居座るこの男がレディバグに見える。他人がそう見えているのか、あるいは誰もいない正真正銘の幻想なのか、確かめる気にもならない。少なくとも何かしらの偽物だとわかっているだけ良いだろう。
 そう、わかってんだ。ここにレディバグなんてクソ野郎は存在しない。いつも通り災難に巻き込まれているはずだ。数日かかる仕事で南国へ向かう途中で海賊に絡まれたらしい。昼過ぎにそれを聞いて「海賊なら我らがブリタニアだろ」と独りごちてしまったから、今あいつの姿が反映されてしまっているのか。
 酒と共に吸った空気をたっぷり肺に溜めて重々しく鼻から吐き出した。
 俺だって災難だった。主にプライベートが。仕事はプロフェッショナルらしく華麗にコンプリートしているというのに。クソが。


 大事な話をディナー前に、と誘われた時点で嫌な予感はしていた。
「一人のオメガに、出会って」という前置きは予想通り最悪だった。「――運命の番なんだと思う」

「本気で言ってんのか?」

 彼――アランの紹介で初めて訪れてからデートの定番になったカフェは変わらずポップさと落ち着きを合わせて心地よい雰囲気を提供していた。広い窓でも取り込みきれない太陽光を補う電飾のおかげで明るい店内で、自分たちだけが少し沈んでいた。
 煙草を探して全身のポケットを触る。舌打ちを精一杯我慢して上唇が震えた。最初に触ったのに気づかなかった定位置の胸ポケットからシガレットケースを取り出してパチンと開く。壁中の幻想的なアート作品からも現実や歴史とのリンクを見出す聡明な男が「運命の番」なんて都市伝説を自分のこととして話すなんて信じられなかった。くそ、ライターはどこにある? くそが。同じポケットでなぜ気づかない?

「君と出会って、他のオメガとも何ともなかったのに、彼女は、もちろん僕もアルファ用の抑制剤は服んでいたよ、それなのにすれ違っただけで、こう……」ブン、と彼はこめかみの横で右手を弾けさせた。「……イカれてしまいそうになったんだ」

 きゅっと閉じた口が開かない。黙ったままのタンジェリンをどう捉えたのか。その出会いがどれだけの衝撃だったかを彼はポツポツと漏らす。嗅いだことのない甘さ、締め付けられる心臓、抑えられない興奮と渇き。金を払っても聞きたくないことを押し付けられたが、コーヒーを頼んだことを後悔するほど不快な吐き気を我慢することに集中した。頭に元を生やしかけている恋人に対して結論を待ってやるほどの情は何とか育っていた。

「他の誰にもまだ言っていなかったんだ。まずは君に知らせないと。僕は、本気で君のことを大事に思っている。アルファ同士だって関係ないくらいだ」
「さんきゅ」

 思わず呆れたような笑いが浮かぶ。やっと待ち望んだ結論が来た。アシストくらいはしてやろう。

「番ができて良かったじゃねぇか」
「いいや。違うんだ」
「は?」
「ただ、僕が彼女を見つけただけなんだ。まだ話しかけてもいない。一度見かけて、名前も趣味も住所も知らない」
「……それで? 俺は何を聞かされているんだ。テレタビーズなんて歳じゃないことくらいわかるよな? 子供だましな御伽噺ならよそでやってくれ」
「君が立派な大人なことくらい、よく理解しているよ。僕よりはるかに経験豊富だった」
「だった……。もうセックスしねぇんだ」
「こんな気持ちでは君に向き合う資格がないんだよ」
「そいつとはまだ番じゃねぇんだろ? そもそも知り合ってもいねぇ」
「ああ。でもきっと僕らはもう一度出会える。そのときは必ずきちんと挨拶して知り合うよ。できたら、結婚を前提にね」
「へぇ」

 真っ直ぐな視線を受け止めて逸らさないのは意地だった。初対面で口説き合おうとした頃と同じ優しい表情のまま、それを堪えるように少し歪ませた顔は、ベッドの中だけのものだと思っていた。こんな明るい公共の場で見るものではなくて。

「もう一度彼女を見た瞬間から浮気が始まるなんて、耐えられないよ。そこまで考えているのに、君と関係を続けるなんて不誠実なことはできない」
「そうかよ」

 肩をすくめる。降参だ。自分には勿体無いほど完璧に潔癖で誠実なアルファ様だ。

「じゃあ。終わりだな。ディナーはお前がキャンセルしろよ」
「ああ。そうだね。……最後に、これだけは信じてほしい。僕は君のことを嫌いになったんじゃないんだ。ただ、ただ……」
「俺よか好きなやつができたんだろ。しつこい男は嫌われるぞ」
「……ごめん。きっと僕たち、また良い友人に――」

 す、と窓の外に向けたアランの目が大きく開いた。タンジェリンはそれを追って今日初めての舌打ちをした。運命的にタイミングが良すぎる。

「さっさと行けよ。もう浮気にはならねぇ」
「ありがとう」

 恋人だった男がカフェを飛び出して、真っ直ぐ輝かしい将来に走って行った。店の前を通り過ぎようとしていた女は男物かと思う大きさのジャケットを羽織り、短パンからは健康的な脚が晒されている。肩まで伸びたブロンドの下ではチョーカーが覗いていた。突然現れた男に彼女は驚いたように一歩下がり、大きなサングラスを外さずスマホを胸に抱えた。
 鼻を鳴らして手元のコーヒーカップを揺らす。ほぼ目の前で起きているのにわざわざ自ら近づくほど自殺願望は強くない。音声は聞こえないが、彼のことだからおそらく突然の非礼を詫びてから自己紹介をして誠実な言葉とここではない行きつけの場所と共に連絡先を渡すだろう。そのまま少しでも時間を過ごすのか、一度距離を置くのかは相手の選択肢だが、どちらにせよ初回で自ら手を出すような男ではない。
 二人の影が見当たらなくなった頃を見計らってグッと飲み下したコーヒーはやっぱり不快で、握りつぶした紙コップをゴミ箱に放り込む。彼が出た方とは反対の方向へカフェを出て、タンジェリンは男の連絡先を消した。


 それが約一ヶ月前のことだ。
 これまで通り本当に好きな人間とは進展が無く、仕事は順調で、何も変化はなかった。
 仕事終わりにピザが食べたいと言う兄弟と歩いていたら偶然、元恋人がそこにいた。彼が引っ越していなければこの広すぎるダルストンで会わない確率は快晴続きよりも低いが、それでも構わないと思っていた。所詮は身代わりだったのだ。顔はもちろん忘れないが、過去は過去である、と。このときまでは。
 お互いに気づいたのは同時で、先に挨拶したのはアランの方だった。

「久しぶり! 元気だった? こんなタイミングで会えるなんて驚きだよ」
「独り身は気楽だからな」

 近づいてきた男に求められてぎこちなく握手を返す。隣と正面から誰なのか紹介しろという視線をジリジリと感じながら黙殺して、外面良く朗らかに笑った。

「もう二度と会えないかもしれないと思っていたけれど、もし会えたらいいなって考えていたところだったんだよ!」
「それはそれは。すっかり運命論者に染まったようだな。日本に行くことがあったら良い人間を紹介してやる」
「本当? そのときは連絡してもいいかな?」

 一瞬だけ、復縁の文字が過った。ブロックを解除してやってもいい、とも考えた。イギリス人だと言うのに残念すぎる能天気さだ。マイアミかバレンシアへの移住を検討すべきか後で兄弟に訊くか。

 完全に過去となってタンジェリンの元から離れていく男を、結局紹介されずに終わったレモンが一瞥してその目を空に向けた。ベールのような雲の向こうで燃える夕陽がわずかに色を付けている。数分止められていた歩みを再開させた。

「元彼ってやつか。俺相手に恥じることじゃねぇだろ」

 噛み締めた歯の間からタンジェリンは唸った。

「……うるせぇ」
「ケヴィン? アンガス? ジャック?」
「アランだ」
「やっぱり。ウェールズ系じゃねぇと思ったんだ。あんな奴がタイプなんてな。知らなかった」
「うるせえ」
「今までの男とも女とも違うな」
「うるせぇ」
「ヨハネスとも大違いだ」
「黙れっつってんだろ」
「ピザ食うよな?」
「おう」
「……お前さ」
「何だよ」
「いつから俺がタイプになった?」
「今度その話したらチンコとケツの穴撃ち抜いてからドタマかち割ってやる」
「わかったよ。お前のアディショナルタイムで死ぬほど腹減った」
「……わかった、俺の奢りな。あ。おい」
 数歩前のレモンが振り向く。
「マイアミとバレンシア、住むならどっちだ?」
「晴れ続きなんて頭痛くならねぇ?」

 タンジェリンは顎を引くように小さく頷いた。

「だよな」

 双子は再び歩き出した。霧雨が降り始めていた。



 そして現在、冒頭に戻る。ピザ屋から馴染みのパブに移り、さらに飲み直そうというタンジェリンの誘いに乗ったはずのレモンは三十分ほど前に帰って行った。ストッパーのつもりが飽きたらしい。明朝のトーマスリアタイに備えたと言っても良い。その代わりに誰かを隣に許してしまったのか。想い人を重ねてまで。

「くそ」

 漏らす呂律が回らない。もちろん頭も回っていないがレディバグがいないことだけはわかる。同じアルファでは威圧のようにも感じてしまうほどに強すぎるフェロモンが無いのだ。
 グラスを煽る。味もわからないアルコールが喉を焼く。あの列車で居合わせたときも、中身だけは理想的なアルファだと思った。見た目はあんなボロ切れ同然のクソ野郎のくせして、アルファすら跪かせてしまうような強いフェロモンが、特にシートベルトを首に巻きつけたあたりからじわじわと漏れていた。それからは会うたびに抑えているらしいがわずかでもアレを感じてしまって、ついでに起点の良さや歳の割に高い身体能力にも頷くようになっていた。
 するり、と首筋を撫でられた気がして、身を捩った。やっぱり人間がいるのか。本物の。

「大丈夫?」

 耳に入ってくる声の低さに、机に突っ伏した頭をブルブルと振った。違う。こいつはレディバグじゃないのに。
 都合が良すぎる。相当酔っているんだろう。吐いたらこの幻想も流れて無くなるだろうか。それはちょっと嫌だ。
 いつの間にか好きになっていたこいつをどうにか振り切ろうとして、正反対の男に近づいた。見た目も訛りも年齢も性格も極力かけ離れた男を選ぼうとしたから、そいつの誠実な好青年っぷりはただ好印象をぐんぐんと引き上げるだけだった。一年、いや二年か。気付けばちゃんと彼自身に好意は持っていた。それこそ、今日の再会で『君にはなるべく早く伝えたいと思っていたんだ』と言われて、何かに期待して喜んだ直後に『結婚するんだ』というはにかんだ笑顔にショックを覚えるほどには、好きだった。
『マジか。良かったな。おめでとう』と返した声は震えていなかったか。口も目も細めて作った笑顔は自然だったか。兄弟には筒抜けだっただろうが、バレなかったはずだ。
 あれで、完全に吹っ切れた。はずだ。大丈夫、復縁なんて一ミリも余地がない。考える気にもならない。

「ふぁっく」

 わかってる。なのにこんなに荒んでしまっているのは一つしかない。
 未練がましく芽吹くのはレディバグへの想いで、力無くテーブルを拳で叩いた。ちゃんと好きだったはずの男でも振り切ることはできなかったと現在進行形で思い知らされている。結局、誰よりも本気であのクソフェロモン男のことを好きなんじゃねぇか。

「ねぇそれしゃっくり? それともFワード? ヤる方向じゃないよね? だったら下心出したいけど」
「るせー」

 俺だって。下心だったらあった。ずっと。でもあいつはアルファだ。年齢的に古臭いタイプだろうし、しょっちゅうオメガの女を侍らせてると聞いたこともある。もし、もしも、自分がオメガだったら可能性はあったのか。

「けっきょく、おめが、かよ」

 アルファ同士なんて、あり得ない。このままの自分を受け入れてほしいなんて、高望みなのか。
 ほぼ垂直に傾いた視界で、グラスの半分を切った琥珀色を上眼で睨みつけた。もっと明るかったら、あいつのブロンドを連想できたのに。自分の髪色ほどの暗さもない、どっちつかずだ。むかつく。重い頭を何とか僅かに上げ、突き出した顎でグラスを迎える。味蕾に酵母が染み込んで溢れた分と唾液が混ざる。今、誰かとキスしたらほろほろになった舌の柔らかさに驚かせてしまうだろう。その前に急性アルコール中毒で心停止させてしまうか。ふ、ふ、ふ。鼻息とも言える笑いが溢れた。

「くっだらねぇ」

 最後の一滴まで飲み干して立ち上がる。

「どこ行くの? 一人で大丈夫?」

 見下ろした先にいる男の顔は二重にチラついてよくわからないが、オールバックにしているらしい黄金色の短髪がキザったらしい。自分の鼻先が視界の下に入って邪魔だった。

「お前がいなければどこだっていい」

 そうだ。偽物はいらない。レディバグ自身でないなら。

「くそ」

 黙りこくった男を置いて、ドスドスと足を交互に動かす。口が滑りすぎだ。
 パブの扉を開ける。一時間以内に止んだであろう霧雨を吸った夜風が火照って鈍い肌を刺した。


 ず、と悪寒が爪先にしがみついた。足首を回り、脛から内腿を這い上がって鳩尾を重くさせるそれは肩甲骨をくすぐり、腕を往復する間に手のひらをくすぐってうなじに絡みついた。それが頭皮を撫でたとき、ついにタンジェリンは舌打ちをした。耐えられない。

「どうした?」
「ちょっと」
「どこ行くんだ? 仕事中だぞ」
「すぐ戻る! どうせ後始末だ」
「それはそうだけど」

 レモンは足元でゾンビのように蠢く人間をきちんと死体にした。扉が破壊された出入り口の枠を通ったタンジェリンは壁に背を預けた。清掃業のユニフォームジャケットの前を開き、中に着ていたポロシャツの胸ポケットからタバコの代わりに薄いピルケースを取り出す。パチンと弾いた蓋の中から、女の薬指の爪ほどはある白い錠剤を一つ口に放り込んだ。ちょうど良い飲料水なんて便利なものは無い。他人の血液ならいくらでもあるが、あいにくハンニバルでもドラキュラでもない。
 無理矢理嚥下して、引っかかりを感じながらピクピクと下まぶたを歪ませ何度も唾を飲んで、忌々しいそれを胃まで届ける。残りの数を計算して、後頭部を壁に打ちつけた。
 また、あの医者に会わなければ。先月に比べて減るペースは段違いだ。すでに処方は通常の倍だと言われているが掛け合う価値はある。


 失恋して飲んだくれた後しばらくして、ただでさえ短気なタンジェリンを苛立ちが襲った。微熱、場所も程度も定まらない頭痛、食欲不振、飢餓感、胸焼け、ランダムに訪れる不調が二週間続いたときに同じく痺れを切らしたレモンになかば無理やり連れて行かれたのが、とあるクリニックの裏にある雑居ビルだった。この仕事でも行きやすい病院は少ない。特にバースが関わると。モグリも多く、下手したら別ルートで犯罪に直結だ。
 表向きの診療の合間に駆り出された初老の医者は、タンジェリンの検査を一通り済ませ、ボサボサの髪をガリガリとさらに乱した。手にしたボードには抗原検査の反応が記録されている。

「あーっと……細かいことはきちんとした結果が出てからでないと言えんですがね。明らかにホルモンバランスが崩れとる。心当たりは?」
「あったらこんなとこには来ねえな。いいからどうにかしろよ」

 ふん、と鼻を鳴らした医者は三日月型の眼鏡を押し上げた。

「バース性はアルファでしたな?」
「だな」
「簡易検査の結果も変わらん、と。命の危険にさらされことは?」

 ざっと人生を振り返るついでに左の首筋を見せつける。隣のレモンが鼻に皺を寄せた。

「あんたの再建手術が最新だな」
「ん~。あれは楽しかったですな。応急処置が良かった。他の医者だったら頷くこともできんようになるからして。拘縮も無いのは奇跡としか言えん。あれはいつぐらいになる?」
「二年ってとこか」
「三年だろ」
「あ? 二年だろ」
「いーや、三年」
「しつけえな」
「俺が間違えたことあったか?」
「殺した人数」
「方向性の違いだろ。一般人もいれんなよ」
「まぁな。あれは俺らのせいじゃねぇしな」
「三年だ、ドクター」
「くそっ抜け駆けすんなよ」

 慣れた双子のやり取りを眺める医者は青鈍色の目をわざとらしく広げた。

「もう? ついこないだが鎖骨折った君の治療をして、ついでに君の腹からは銃弾を摘出したばかりだったと思っていたがね」
「いつの話してんだクソジジイ。まだ自分の髪が黒いと思ってんな」
「灰白色は私のための色だとは思わんかね?」
「御託並べる脳みそなんて今すぐ汁に変えてやってもいいんだぜ」
「それは何とも美味そうですな。トッピングに爪の垢も足したら良い。飲めば明日は朝刊の代わりに博士号が届くでしょうな」
「いいからさっさと検査結果出すか対処法を教えろ。バース性が関係してんのか?」
「おそらく。最近強いアルファと接触はあったかね? 肉体的に強いとかではなく、フェロモンとして自分より優勢だと感じたことは?」
「ソレが何かあんのか」
「完全なアルファもオメガも存在せんということは知っとりますな? 両方の素質を持ち合わせとって、どちらが多く分泌されるかが性差を分ける。男女と変わらん。どちらにも属さないベータに関しては今は割愛するがね。ここからわかることは?」

 勿体ぶるように医者が笑う。大ぶりの歯はコーヒーとヤニに染まっていた。タンジェリンとレモンは黙ってその先を促す。

「個体差があるということは、すなわち片方の分泌が異常に少ない人間もおるということからして。ベータやオメガすら発情させるオメガ、アルファすら屈服させるアルファ」

 す、と眼を細める。気分が少し悪い。冴えない男が記憶の中でヘラヘラ笑って手を振っている。

「魚のクマノミを聞いたことは? 群れの中で必要に応じて性転換を行う」
「……俺がそれだって言うのか?」
「ふ、ふ、ふ。検査結果はまだわからんから、断言はせんですよ。しかし、生存本能の暴走という例も時々見られるからしてな。非常に珍しいが、運命の番よりは科学的だと思わんかね? ただ、今の状態を見る限りは君の場合、何もせんでも一週間もすれば治りますな」
「何も無しで? このままか?」
「先を急ぐなら一度で聞き取ってくれんか? さようで。不調は続くが徐々に治まる。あとは念の為、心当たりのあるアルファとは距離を置くんですな」
「俺は今すぐこのクソみてぇな体調を治したい。どうにかしろ」
「結果が出るまでは不用意なことはせん方が良い。特に、見立てが正しければバース性が関係しとるからして。私が嫌がらせなんてしとらんことくらいは――」
「わかってる。でも俺は、今すぐ、つってんだ。二度言わせるな。仕事が待ってる」

 タンジェリンに遮られても彼は意に介さないようだった。

「ほう。二十年弱の付き合いだが日本人だったとは初耳ですな」
「相棒を持ったらわかる。動けるのにこいつ一人にするかよ」
「一人でも行ける。嫌ならドタキャンすりゃいい」
「俺らなら余裕だと請け負った仕事をか? 信用が大事だろ。それに信用は――」
「積み重ねだろ。知ってる。だったらもっと大きな仕事が入ったと思わせたらいい」

 睨み合いは二秒続いた。レモンは溜め息を吐く。

「なあドクター。何かしら止める術はあんだろ? それをわかっていて耐えられるほどこいつは不調に慣れてねぇんだ。それか病名を付けてやってくれたらこっちでどうにかする。あんたが医者として素人の薬選びを許すならだが」

 真顔のレモンと唇を突き上げたタンジェリンとたっぷり向き合った医者は渋々といった様子でボードを置いて机のキーボードを叩く。よっこらせという掛け声と共に膝に手をつき立ち上がった。ガガガ、離れたプリンターから吐き出される紙を抜き取り、ミミズがのたうち回ったようなサインを施す。渡された処方箋を双子はじっくりと眺めた。タンジェリンの青い目が書かれた薬の名前を往復する。アルファとしての知識に覚えがあった。

「……これはオメガ用の抑制剤だよな?」
「基本的には。一番弱いものだが」医者が肩をすくめる。「症状の程度によってはアルファに対する治験もクリアしとる。通常は出さんが、まあ……効いたらすぐに止めなさい。アルファには劇薬に近い。副作用が強いんでな。一日一回だ。服むなら半日後の反動を耐えられるときに」
「市販のでも効くのか?」
「おすすめはせんよ。エピペンよりも酷い。聞き返さんでもいいようにしっかり聞きなさい。君もだ」

 見られたレモンは軽く頷き、タンジェリンは髭を動かした。医者は外した老眼鏡を胸のポケットにしまう。

「良いか。効く。一瞬で抑え切ったと思うだろう。ただし、その後にくる反動が重い。倍返しじゃきかん。薬漬けになる可能性だってある。何より、この処方より上は治験されておらん。必要ないからな。意味はわかるな?」

 双子は同時に頷いた。

「耐えられるならそれに越したことはない。ならばその紙を破り捨てるだけで済む。だがもし飲むなら、首筋は守っておきなさい」
「オメガじゃねぇのにか?」
「梯子の下を避けるより現実的だとは思わんかね?」
「珍しいケースなら放置しといた方があんたにとっては良いデータなんじゃねぇの?」
「はん。目先のデータよりも、治療する傷をこさえる強靭な肉体を守りたいだけですな。さて、私は仕事に戻らんと」
「ああ。今日中にいつもんとこ振り込んどく」
「良い休暇になることを祈っとるからな。検査結果は一週間後」

 患者用の裏口を開けたタンジェリンは医者に向かって二本指を突き立てた。


 果たして。抑制剤は恐ろしいほど効いた。
 朝からの怠さを我慢できなくて服んでみたら五分もせず不快感は消え失せ、現場でも手は震えることなく引き金を引けた。そして医者の言う通り、反動はきっかり十二時間後に訪れた。
 フラットの廊下で倍に膨れたのかと思うほど心臓が高鳴り、視界が大きく揺れる。目を見開いて壁にもたれた。痛む鼓動と血流の音がドクドク轟々と耳の奥に響いている。自分の名を呼ぶレモンの声は遠い。

「おい、おい。大丈夫か?」

――これが大丈夫に見えるなら、相当めでてえ頭か眼孔がすっからかんになっちまったんだな!
 軽快ないつもの返事は浮かぶのに発することができずに下唇が戦慄いた。

「熱……っぽいか? 目は赤いぞ」

 額と首筋を触られて息苦しさが増した。ぼんやりとした怠さを残して大きな波は五分ほどで去った。しかし、次がいつくるかと思うと、もしそれが依頼をこなしているときだったらと思うと、精神的な寒気がタンジェリンを包んだ。自分のせいでボリビアと京都は味わいたくない。

「やっぱりセーブしねぇ? ドクターも言ってたろ。丸々一週間休もうぜ」
「だ、大丈夫だ。何とかなる。する。こんくらい。どうってことねぇ」



「どうってこと、なってねぇな。やっぱり」

 戻ってきたタンジェリンをじっとりとした目で見るレモンに向かって「何がだ?」腕を広げる。

「ほら、一気に片付けようぜ。今日は清掃員だからな」
「あのドクターじゃなくてもわかる。朝一回で良かったんじゃねぇのか? 陽が沈むにはまだ四時間は早い」

 返事の代わりにタンジェリンは足元に転がる死体を何気なく蹴った。

「特に、ヨハネスと遭遇した後は酷いよな。一日に何錠服んでんだ?」

 死体の角度が変わって手から零れた拳銃を拾う。なかなか良いの持ってんな。

「一回だけって話だったと思うが、四ヶ月は続いてんだろ。薬無しで抑えるならどれだけの期間必要なんだ? もう一週間じゃきかねぇだろ」
「…………だ」
「あ?」
「最低一ヶ月は必要だっつってんだよ!」

 ぐしゃり、足元の頭がスイカのように踏み潰された。

「おいおい……。立派なシャブ中かよ」
「違ぇ」
「違わねぇだろ。そんなのに頼らねぇと歩けもしねぇくせに。オメガのヒートみたいになってんだろ」

 ガッ、一瞬で息が詰まらせる力で胸元を締め上げられたが、レモンは涼しげな表情でタンジェリンを見下ろす。

「俺は、オメガじゃ、ねぇッ!」
「だったら」

 フーフーと手負いの獣のように呼吸を荒げるタンジェリンの手はゆっくりと剥がされた。

「ちゃんとアルファに戻れよ。オメガの薬なんか使わねぇアルファに。一ヶ月くらい、あっという間に過ぎる」
「…………」

 この数ヶ月でより痩けたタンジェリンの両頬を厚く温かな手が覆う。逸らせないよう合わされた目には純粋な心配があった。

「わかった。ちゃんと引き篭もってやるよ。来週のが終わったら」
「おい」
「派手な仕事だぞ。情報まとめんのとか準備にどんだけかけたと思ってんだ」
「……まぁ、ちょっと面白そうではあったな」
「だろ? 大丈夫だ。サクッと終わらせて、体力温存させて帰ればいい」
「だな」
「……おい、何だよその手は。お小遣いか? お菓子か? 持ってねぇぞ」
「薬出せ。俺が預かる」
「何でだよ」
「必要なら俺が渡す」
「ざけんな! クソ!」

 タンジェリンはピルケースをレモンの手に叩きつける。

「必要になったらいつでも買いに行けんだからな。俺は」
「俺よりも薬に頼るような人間のことは、俺は頼らねぇからな」
「クソッ」
「帰ったら家に置いてんのも預かる」
「おい。待て、俺ん家に泊んのか? いやどっちの家でも変わんねぇけどよ。まさか監禁でもするつもりじゃねぇよな?」

 軽口のつもりが、真顔のままのレモンにタンジェリンの薄い頬がヒクついた。

「……マジ?」

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