大学生と社会人その5


ジュノの部屋は繁華街にあるワンルームで、とにかく安さが取り柄だ。
外にはネオンが煌めいている。翌朝に朝日が昇るまで、ジュノの孤独に一層の輝きを添えるその絢爛が続くので、夜はカーテンを開けて居れば灯りを付ける必要もないくらいで。ここは、かつてホヨルと人を探してうろついた場所にとても良く似ていた。
窓辺に干していた洗濯物をまとめて抱えているジュノを尻目に、ベッドに腰かけたホヨルは「いいところに住んでるな。」と口笛を吹いた。さっきまで夜風を入れようとしてベッドに乗り上げ、ほとんど嵌め殺しのような建付けの悪い窓を少しでも広く開けようと奮闘していたけれど、五ミリほど開けたところですっかり諦めてしまったようだ。
ぺらぺらのカーテン。
暫く掃除をしていないことが明らかな床。
この部屋がホヨルの家ほど片付いていないことは分かっている。
一人住まいの気楽な我が家のレベルという感覚からは程遠いことも。
余所行きの服のためのポールの隙間に、今しがた取り込んだばかりのパンツやらTシャツなどの洗濯物を吊るしていると「俺の部屋も、外から近所の学習塾の子どもの声が聞こえて来るよ。」とホヨルが言った。
「金が溜まったら出て行くつもりです。」と返事をすると、ホヨルは一瞬、眉を上げて、引っ越すときは父さんが手伝ってやろう、と言った。
どこで暮らしていても良かったはずなのに、ジュノの暮らしはじめたこの部屋は、驚くほどホヨルの住まいと近かった。次にどこに家移りしたとしても、今ほど頻繁に行き来はできなくなるだろう。そのことが一番不便だ、と思ったけれど、「その時はよろしくお願いします。」とジュノは答える。
勿論、フリーターの給料でここを出たところで、新築でピカピカのオフィステルのような物件には手が届かない。その上、この部屋には元々、前に借りていた学生が置いて行って引き取り手がいなくなったということで、ベッドと冷蔵庫、洗濯機といった必要最低限の家電や家具は揃えてあった。ジュノは、マットレスと、それから、いつかこういう日も来るかもしれないと狭いベッドに規則正しく並べてあるふたつの枕を買い換えた以外はほとんど身一つでやってきた。前の住人がいなくなった本当の理由が自殺かなにかだったとしても、初期費用の面で助かるならそれでいいと思った。それでも、次の引っ越しには家財道具がないことがネックになることは想像に難くなかった。今の給料では次の契約までに家具付きの物件の入居費用を貯めるくらいは出来るだろうが、その先は?
今の仕事でやっていけるだろうか。
ホヨルの、これまでと変わらない能天気な様子に勇気づけられる日もあるけれど、先の見通しは立たなかった。
「先輩、今日はマンドリンは?」
再会したときから、ホヨルといえばマンドリンで、マンドリンといえばホヨルである。
そもそも、こんな壁の薄い部屋でマンドリンなんかを弾こうものなら、上の階の人間から床を蹴られる可能性もあるが、それでも、ホヨルの音を聴きたかった。出会った頃より口数が少なくなった男の、言葉の代わりの音を聴いていたかった。
「ジュノ、お前は俺よりマンドリンに会いたかったのか?」とホヨルは首を傾げる。
「……。」
そうです、ともそうでないです、とも言い辛い。
ホヨルにとっては、ジュノのベッドに座っているのも、それが唯一のソファ代わりになりそうだというだけで、それ以外の意味はないはずだ。
こちらが逡巡している間に、ホヨルは、まだ真新しいカバーを掛けたホテル風の枕をひとつ取り上げてこちらに放り投げ「実験があるから直で大学に戻るし、部屋に置いて来た。楽譜も荷物になるからな。」と言った。
ジュノは、手元すれすれで床に落ちそうになった枕を、手を伸ばして受け取る。
初めて自分で買った枕の軽さは、ふわふわと心もとなくて、今のこの状況に少し似ていた。
いつかの釜山の事件で、値段を聞くのが怖いようなホテルになりゆきで泊まったときに、あの広いベッドで寝そべるこの人の隣で一度くらい寝ておけば良かったと思った。その未練が、この場違いな枕を買わせたのだった。
まだそれなりに綺麗な枕カバーが汚れると困るので、「何の実験ですか?」と答えてジュノはそれを投げ返した。ホヨルは、戻って来た枕を、親の仇のようにぎゅうと抱いた。
「今月はずっと同じだよ。こないだ言ったのと同じことをしてる。」
何を使ってどんなことをする、何のための実験かは聞いたけれど、一度か二度聞いただけでは、不可思議な略語や単語が多すぎて、聞くたびに内容を忘れてしまう。
「単語は覚えてるだろ、POCっていう…なんだっけな…今度教科書持って帰るからうちに来たときにまた説明してやるよ。」
次に説明するとき、コブラツイスト付きならすぐ覚えるかもな、とホヨルが呟くのは、聞かなかったふりをした。


飯の準備は俺がします、という流れになった。
大学に戻るまで少しでも引き留めておきたいというつもりもあったし、茶を飲んで帰ってくださいと言おうにも、客に出せる飲み物などないのだった。前に家に帰った時に戸棚にあったいいとこの緑茶でも持って帰れば良かったかと思ったけれど、勝手に持って出ると、妹が後でうるさいのでやめておいたのだった。
調理用にガス台がひとつあって、それは湯を沸かすことくらいにしか使っていない。ぱりぱりと音を立てて袋麺の袋を開け、スープの素を取り出して入れる。
ステンレスの何の変哲もない一番安いケトルに水を入れて沸くのを待つ。
しゅんしゅんと音がしてくるのを待っている間に葱でも切ろうかと思った。
その時、背中からどんと人間の重みが迫って来た。
世間一般には抱擁の範囲になるのだろうか。ホヨルの手がジュノの腹に回って来る。昔、一度だけこうして抱き着かれたときには、半分嫌がらせのような行為に思えたものだけれど、今は、コブラツイストではないことが優しさのような気がしてしまう。
ともあれ、食事の準備の最中にこうした中断があるのはいただけない。大学で何か面倒でもあったのだろうか。食べながらでもいいから後で話してもらうことにしよう、と思いながら、とっさにジュノの口から出て来たのは「どうしました、父さん、」という一言だった。
「……どうもしない。」と言ってホヨルはパッと手を緩め、ジュノのそばから一歩下がる。
急いで振り返ると、けばけばしいピンク色のネオンがホヨルの頬に映る。ラーメン待ってるからな、と明らかな作り笑顔で言われ、ホヨルの声に、態度に、繁華街の影が滲み出ているように思えた。ジュノは失言に気付く。
さっきまで枕を抱いていた腕で、ホヨルはジュノに触れた。
「あの、」
こういう時に限ってケトルの笛が鳴って、それが助け船だと思ってしまう。
間抜けもいいところだが、先輩と後輩という厳然たる上下関係のある場所にいたときよりも、交わす言葉は減って、ホヨルへの受け答えも下手になったように思う。
湯が沸いたので、と言い訳をして湯を入れて、とにかく、飯を食いましょう、と言うと、そうだな、飯が先だ、とホヨルが頷く。

コブラツイストも出来ない狭いベッドに並び、なし崩しに同衾するという夢は儚い夢に過ぎなかった。
「先輩、大学に戻るんじゃないんですか?」
「別にいいだろ。」
ホヨルは、さっきのように枕を抱きしめたまま、ジュノのベッドを占領していた。
ジュノの居場所はベッドの下のマットレスだ。
「……いいですけど、俺の枕なんだからひとつ分けてください。」
「嫌だ。」とホヨルは言った。ホヨルの声は、夜になるといっそう甘く聞こえる。
この際勘違いでも、いいのだろうか。
「寝る前に返してくださいね。」
「……必要なら取りに来ればいいだろ。」
「引っ張ったら怒る癖に。」
「怒らない。」
「今怒ってるでしょう。」
ほよりひょん、とジュノは言う。
どうせ怒られるなら、まとめて怒られた方がいい。
「いつか。今でも、ここが不便なら俺の隣に越して来ればいい。」
隣がいやなら俺の家でもいいけど、とホヨルは言って、また明日、と布団を被る。
「え?」
もう一度言ってください、とジュノが頼んでも、誤魔化すのが上手な年上の人は、すっかりこちらの声など聞こえないふりで。
寝ろ、と言ったそこから先、外を行き交う車のエンジン音のほかは、何も聞こえなくなった。



コブラツイストの夜。

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