いずれ思い出さない夜のこと

 背後で身じろぐ気配に薄く目を開ける。薄暗い部屋をぼんやり眺めているうち、何も纏っていない腰に腕が巻き付く。されるがままにしているとうなじのあたりにぺたりと何かが触れた。くちびるを押し当てられたのだと思う。たぶん。
「メルメル……悪ィ、痛かった……?」
 心許ない囁き声が無音のベッドルームに零れた。親に叱られる覚悟を決めたちいさな子どものような、嫌いな水を浴びせられてしょげた子犬のような。(うしろから抱き締められているから見えないのだけれど)きっとそんな情けない面を晒しているのだろう。
 この天城燐音は、どうも苦手だ。
 HiMERUは事後の気怠い身体を叱咤し、緩慢に寝返りを打った。
「ええ、とても。──なんて、そんな泣きそうな顔をしたあなたに言うほど、HiMERUも鬼畜ではありません」
 向かい合い、今はすこし低い位置にある碧い瞳と視線を絡ませる。ほら、やっぱり。なんならちょっと泣いただろあんた。
 思った通りしょんぼりと眉を下げた男は、黙ったまま肩口に額を擦り付けてきた。
 ──時々、あるのだ。抑えの効かなくなった天城に、飢えた獣さながらに貪られることが。翌日に差し障るからほどほどにするようにと再三言っているにもかかわらず、〝それ〟は発作のように姿をあらわす。そうして満たされるまで喰らい尽くして、我に返ったあとはいつも〝こう〟だ。
「ごめん、メルメル……ごめんな」
 そんな酷い顔をして謝るくらいならやるな、と悲鳴を上げたい気持ちをぐっと飲み込む。ここで叱ったらHiMERUが悪者みたいじゃないか。
 何も言えない。お手上げだ。これだから苦手なのだ。
「……。どうしようもないひとですね」
 こういう時、HiMERUは何も問わず、ただ寄り添って眠る。喋りたければひとりでに喋る奴だから、これでいい。HiMERUにだって何も聞かれたくない時はある。天城の気持ちも理解できる。だからこそ、そっとしておくことも一種の優しさだと思うわけで。
 ──とは言え。
「はあ……」
 ため息のひとつやふたつは出る。出るだろ。ため息くらい吐かせろ。するとすぐさまそして矢継ぎ早に、いっそ鬱陶しいくらいに、謝罪の言葉が飛び出す。
「ちょ、怒ンなよォ〜俺っちが悪かったから……。もう無理矢理しねェからァ……」
(……めんどくさ)
 どうせ嘘になる「もうしない」に如何程の意味があると言うのか。まったく、つくづく、厄介な男に捕まってしまったものだ。
 HiMERUは諦めて壁紙の模様を観賞しはじめた。じいっと見つめていると何かの星座のようにも見えてくる幾何学模様を無心で睨みつける。すると何を勘違いしたのか、碧い目をますます潤ませた歳上のでかい男が言うのだ。「朝飯、なんでもおまえの好きなもん作ってやるから」と。
「──フレンチトースト」
 ぽそりと返事をすれば瞳がぱっと輝く。
「おう。蜂蜜?」
「おさとう……。フルーツも添えてくださいね。キウイがいいです」
「キウイね。コンビニに売ってっかなァ」
「言いましたよね? なんでも作ると」
「……言いましたけど……」
 男に二言はないはずだ。そうだろう? そしてここからはHiMERUが主導権を握る番。
「ゆうべの洗い物がまだなので、それも……。あと掃除もしたい、ゴミ出しも」
「はいはい、わかった。全部やるよ」
「それから、クリーニング屋に預けたままの──」
「シャツだろ。引き取ってくる」
 天城は当然のように言って、軽いキスをいくつかくれた。そうして駄目押しのひと言。
「許してくれる?」
 ──本当に、どうしようもない男。
「……次はないのですよ」
 ぽんぽん、後頭部を軽く叩いてやると、赤い前髪が乱れるのも厭わず鎖骨のあたりにぐりぐりと擦り寄ってくる。喜びを隠す気がない。
(犬……)
 わしゃわしゃと髪を混ぜながらこっそり笑った。

 絆されている自覚はある。付き合ってもいない男と肌を合わせている時点で有り得ない。こんな風に自ら『次』を仄めかすだなんて、もっと有り得ない。ましてやHiMERU自身が『次』を望んでいるだなんて、もっと、もっと。
 天城といると、『HiMERU』に不要な類の感情ばかりが積み木みたいに増えていく。



 ようやく眠りに落ちた彼のなめらかな頬を、指の背でそっと撫でる。
「もし『俺』が許さないと言ったら……他の誰かのところに行ってしまうのですか?」
 呟いて、自嘲した。何を言っているのだろう。今のところ、天城はHiMERUのものではないし、HiMERUも天城のものではない。きっとこれからも。
 では何故、と思う。何故自分は毎度手酷く抱かれることを受け入れて、一方でこいつはあんなにも必死になって許されたがるのかと。
(……。寝よう)
 なんだか望まない結論に至ってしまいそうな気がして、さっさと目を瞑ることに決めた。世の中には気づかない方が幸せなことが山程ある。知ってから後悔したって遅いのだ。



 そうしてHiMERUが寝息を立てはじめた頃、天城は静かに目を開ける。
「なんで許しちまうかなァ……」
 ばーか。
 掠れてほとんど音にならなかったそれは、誰の耳にも届くことはなかった。





(台詞お題「メルメル……悪ィ、痛かった……?」「ええ、とても。──なんて、そんな泣きそうな顔をしたあなたに言うほど、HiMERUも鬼畜ではありません」がっついた攻めを許す受け)

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