後編
車をいちご農園の駐車場に入れたとき、後部座席から聞こえるか聞こえないかの声で「いちご……」とうめいたトガシくんに、僕は内心首をかしげた。
「トガシくん、いちご苦手だった?」
「あ、いや、そんなことないよ」
彼は人好きのする笑みを浮かべて、そのまま隣に座る少年に笑顔を向ける。
「いちご狩りだって。いっくん、いちご好き?」
「うん、好き」
いっくんは人見知りがすっかり解けて、何度か会ったことのある親戚の僕よりも、よほどトガシくんの方になつき始めていた。
トガシくんに来てもらって、本当に良かった。
いとこの子ども――いっくんを半日預かることになって、追い詰められた僕はトガシくんに助けを求めた。日陸後、ケガの経過を聞くのに数回電話したきりの連絡先を呼び出すのは、なんというか崖からバンジージャンプをするような心持ちだった。
開口一番、「あの、小宮ですが」と言った僕に『うん、知ってます』と返したトガシくんは、電話の向こうで何やら楽しげに笑いをこらえていた。
「その後、どう?」
『リハビリ順調だよ、来季は間に合うと思う』
「本当?」
『うん。覚悟しとけよ小宮くん』
「そう、よかった……本当に」
『はは、ありがとう』
「…………」
『…………』
「…………」
『……ええと、何かあった?』
「あの、ちょっと、助けてほしくて」
『えっ、どうしたの?』
「子どもを預からないと、いけなくて」
『子ど……ん、なんだって?』
こうなったそもそもの発端は、久々に帰省した年始。親戚のおじさん連中とご近所さんが入り乱れて、次々と焼酎ボトルを空ける席に巻き込まれたことにある。
一人当たりの酒量に階級があるなら、この日の参加者はワールドクラス。さながら酒飲み界のオリンピックだった。
案の定というか、陸上で活躍する僕への賞賛は、次第に「良い人おらんのか」「結婚は地元で」などなど、どんどん雲行きがあやしくなっていった。次第に相槌すら面倒になり、頭がぼーっとし始める。アルコールで大きくなったおとなたちの声が、頭の中で反響すると同時に遠のいていく。
なんか懐かしいなこの感じ。あれだ、大学生の頃たまに駆り出された懇親会みたい。
目の前のおじさんが、酒くさい息を吐いて何かを説いている。ともかく早いうちに身を固めて一人前の男になることこそうんぬんかんぬん――。
「まぁたそげな話!」
背後から響いたでっかい声に、男たちがいっせいに肩を震わせる。声の主を振り返ると、いとこのあっちゃんが仁王立ちしていた。
「女はおいちゃんたちを一人前にするための道具じゃなか」
散れ散れ、とあっちゃんがおじさんたちの席を華麗に奪う。
僕が小学六年生で大分に越してきたとき、三つ年上のあっちゃんは見た目も中身もギャルそのものだった。今は地元の寺に嫁いで息子のいっくんも小学生になって、檀家の手前すました顔をしているが、マインドは依然ギャルのままだ。
ほかの親戚みたいに、僕を構いはしても結婚の心配なんかはしてこない。彼女はおそらく単純に、僕のコミュニケーション能力ひいては人間としての情緒が息をしているのか、という点について心配してくれている。
弁が立つから、昔から僕の抱え込む鬱屈とした違和感を言語化してくれることも多かった。そこはちょっと、トガシくんに似ていると思う。
だからなのか、酔いも手伝って、ついあっちゃんにだけ本音をこぼしてしまった。
「でも僕、好きな人はいる」
「はあ、いつから」
「気づいたのは最近。でも小学生の頃から知ってて、わかんないけど、ずっと好きだったのかも」
「ほお、どんな子」
「足が速くて……、美人」
「かーっ! 染まっちょんなぁ、都会のルッキズムに」
なんでか感心したような口調で、そう罵られた。
それから約三ヶ月経って、あっちゃんから急に連絡があった。
いわく、春休みにいっくんと東京に行く。自分は会いたい友達がいるから、半日いっくんを預かってほしい、と。
「小学生の命を半日も預かるなんて、僕には無理だよ。わかってるよね、この僕だよ?」
電話口で情けなくも頑なに固辞する僕に、あっちゃんは『知っちょる』と平然と言った。
『やけん、好きな人に協力してもらいよ』
……やられた、と思った。
でも実際、僕にはトガシくん以外に助けてくれそうな人物など思い当たらなかった。
それで恥をしのんで電話して、トガシくんはこうして来てくれた。こんな友達かどうかもあやしい関係性の、僕を助けるために。
トラックの外で、こんなふうにトガシくんと一緒にいるのはいつぶりだろう。
いっくんと手をつないで前を歩く、姿勢のいい後ろ姿を見ながら首をかしげる。
小学生の頃の放課後の特訓以来か……いや、大学生のとき一度だけトガシくんを寮に連れ込んだことがあったけれど、彼はきっと憶えていないだろう。あのときはかなり酔っていたし、記憶をなくすタイプだと本人も言っていた。
――というか、記憶、なくなっていてほしい。
当時の僕は、トガシくんへの……そういう好意をまるで自覚していなかったから、「ただそうしたい」という欲求を「酔った人を放置できない」みたいな大義名分に巧妙に隠して、朝まで彼にくっついていた。同じベッドで。
近頃、ふと目覚めた夜更けなんかに思い出すのは、決まって彼のすっきりした襟足や、丸く皮膚を押し返す頸椎の数。そしてかつて翼があるんじゃないかと疑っていた、肩甲骨の膨らみだった。
あのときの手触りも体温ももう定かではないけれど、胸の奥で息をひそめていた慕わしさの芽が今、手に負えないほど大きく育って僕の皮膚を内から押し上げている。
そんな自覚もあってか、関係性は今が一番フラットなはずなのに、学生のときよりうまくお喋りできなくなってしまった。
「あの、トガシくん、足は……」
今日何度目か。同じセリフを背後から投げかけたら、苦笑された。
「平気だよ。ずっと座ってたし、ちょっと歩いた方がいいくらい」
トガシくんは左右均等に口角を上げてなどいるが、大きなケガのあとだ。いくらリハビリが順調とはいえ、コンディションを戻せるのか、はたまた負傷箇所を庇って、連動する足首や腰に変なクセがつかないか。不安は大きいはずだ。同業者達が目一杯に身体をつくり込んでいる期間、思うように走ることもできないのだ。
そんな不安の影を見せようともしないトガシくんの気丈さが、僕には愛おしくもあり、寂しくもあった。
ハウスの入口で渡された黄色いプラスチックのカゴの底で、摘んだいちごがころころ転がる。
さっきから、いっくんに赤くてきれいな形のいちごの隠れ場所を教えてあげながら、トガシくん自身はなんだか不格好に歪んだ形のものばかりを摘んでいた。
「隣のやつの方がきれいじゃない?」
つい口を出すと、トガシくんは「えっ」と目を見開いて、手の中のいちごを見つめた。いつもより少し下りた前髪が、涼やかな目のふちにかかる。
「でも、この子の方がかわいいよ」
その気の抜けた言い方に、内臓のどこかがじわじわと発熱した。ちょっと本気で体調不良を疑った。でも、これが好意に紐づく何かしらの情動反応なのだと、十五分ぐらいしてから気がついた。
収穫を終えたカゴをぶら下げて、ハウス内に設置されたテーブルと椅子をめざす。でかい男二人で、小学生を真ん中に挟んで腰かけた。
「あれ見て、いちごの花咲いてる。いちごってバラ科なんだよ」
いっくんが細い足をぶらぶらさせながら、栽培中の苗床を指差した。
「え、そうなの? バラとは見た目ずいぶん違うのにね」
「あとねー、桜もバラ科だよ。花は自分で移動できないから、カンキョウを変えられないの。生き残るために自分の体の方を変えてくんだって」
トガシくんも僕も、移動の車でいっくんから草花の話を延々聞かされてここまで来た。肩から斜めにぶら下げている宝物のシール帳には、花のシールがずらりと並んでいた。
何かに夢中になった子どもの学習意欲は、本当にすごい。自分はそれが陸上だったけど、この子の場合は植物だった。
「くわしいなあ、自分で調べたの?」
「うん。図書館で。あと休み時間にね、校庭にお花さがしに行く」
いいねえ、とトガシくんはのほほんと笑う。おとな二人がいちごのヘタを取って次々トレーに並べていくのを横目に、いっくんはなんでもない顔をして続けた。
「でもクラスの子がね、お昼休みにサッカーするけん、男子はみんな来いって。それでね、最近さがしに行けてない。お昼になるとぼく、おなか痛くなる」
以前あっちゃんが、「いっくんさ、女の子の友達のが多いんだよ」と口にしていたのを思い出す。それは息子を心配するでもなく、ただ事実を述べただけといったふうだった。
すっかり忘れていたけれど、その辺りの機微をトガシくんには事前に伝えておくべきだったのかもしれない。僕はこんなところでも、自分の気の回らなさを痛感する。
いっくんに、なんて言ってあげるべきだろう。普段使わない部分の脳をフル回転させていたら、先にトガシくんが口をひらいた。
「あのね、これは昔、ある人が俺に言ってくれたことなんだけど……」
いちごのヘタを取る手は休ませず、トガシくんは淡々と言葉をつむぐ。
「自分の身体は、自分だけのものなんだって」
その言葉に、僕は時間がとまったような気さえした。息をのんで、トガシくんの横顔を見つめる。
あの夜。
人の多い懇親会会場。僕の知らない表情をしたトガシくんは、注がれた酒を飲み続け、余った料理の処理をして、二次会にまで連れ出されそうになっていた。どう見ても、苦しそうだった。
「だからさ、いっくんが嫌なら、サッカーは行かなくていいと思うな」
「……行かなくても嫌われないかな?」
机の上を見つめるいっくんに、トガシくんはちょっと考える素ぶりをして「じゃあ例えばね」と言って、ヘタを取ったいちごを指先でつまんだ。
「いっくんの大好きなお友だちがさ、行かなかっただけで気まずくなっちゃうような子たちとの集まりに、具合悪くなってでも行こうとしてたら……嫌じゃない?」
トガシくんの掲げるいちごが、カゴの中に控えるその他大勢のヘタ付きのいちごの上へ、すすすと移動してゆく。
「……イヤかも」
「だろ。きっと、いっくんのこともそんなふうに思ってくれるお友達がいるよね。そういう人との時間をだいじにしたらどうかな」
いっくんが目を上げた。ぱちぱちと無垢な瞳を瞬かせる。
「そっかあ」
トガシくんは今ヘタを取ったいちごもトレーに乗せて、「はいこれ食べていいよ」といっくんの前に差し出した。
植物は、環境に適応するため自ら体の設計を変えていくけれど。僕らの身体に関する意思決定は、外部によって捻じ曲げられていいものじゃない。その一線をしつこく守り続けることは、いつか適応を強いてくる環境そのものを変えることにも繋がるのかもしれない。
そうだといいな、と思う。
「小宮くん、うるさい」
「……何も言ってないよ」
「うるさい顔してた」
「理不尽」
苦言に苦言を返しながらも、僕はあの頃の自分の感情を紐解いていた。
その場の同調圧力に屈して、資本のはずの身体に鞭打とうとしていたトガシくんが気に食わなかった。高校の頃から変わらず、個を支配しようとする集団の空気は、もっと気に食わなかった。だから、逃げた。彼をさらって。
でも、思えばもっと単純なことだったのかもしれない。彼が今語ったように、“大好きなお友だち”に嫌な思いをしてほしくないとか、そういう原初的なレベルの話で。
……それにしても。
トガシくんのすました横顔を見ながら思う。
きみはあの日のこと、何をどこまでおぼえているんだろう。
夕方には、あっちゃんのいるホテルにいっくんとお土産のいちごを送り届けた。
別れ際、トガシくんはいっくんから、とっておきのキラキラでプクプクのお花のシールをもらっていた。
これ大事なやつでしょ? いいの? ありがとね、なんて言って嬉しそうに目を細めている。そんなトガシくんをじろじろ鑑賞しながら、あっちゃんが「ガチや」とつぶやいた。
「……なにが?」
「足の速い美人」
「でしょ」
まあそれだけじゃないけどね、と思ったけど、それを口にしない分別ぐらいはある。
あっちゃんから「しっかりやれよ」のパンチを食らった肩をさすりながら、僕はいっくんに手を振った。
車の脇に立ち、ホテルの入口に消えていく親子の背を見送りつぶやく。
「トガシくん、ありがとう。助かった」
「俺もいい気分転換になったよ。いっくん、似てたね。昔の小宮くんに」
「そうかな?」
首を傾げながら、再び運転席の方へと回る。すると、トガシくんが助手席のドアに手をかけた。
「……あ、助手席乗る?」
「うん、乗せてくれるって約束しただろ。今日まだ後ろにしか乗ってない」
拗ねたような口ぶりに、心拍数が跳ね上がる。――約束した。寮で一緒に過ごした、その翌朝に。
焦りとともに、ひとつの予感に心が揺れる。
トガシくんは、全部おぼえているんじゃないか。僕が後ろからくっついて夜を明かしたことも。その間中ずっと、彼の首筋や背中を眺めたり触ったりしていたことも。ひょっとして、今、彼に好意があることにも気づいているかも。
あわよくばお礼と称してご飯にでも誘おうと思っていたけれど、下心が知られているかもしれないと思った途端に萎縮してしまう。
「……どうぞ」
助手席をすすめた声が、いつも以上に低くなって外気に溶ける。
トガシくんは僕の動揺なんかものともせず、さっさとシートの位置を調節して、何が珍しいのか助手席周りをきょろきょろしている。やがて気が済んだのか、なぜかキリッとした顔で僕を見た。
「小宮くん、ハンバーグは好き?」
「え? うんまあ」
正直、食に関しては好きとか嫌いとか以前に五大栄養素の表を思い浮かべてしまう。つまり、肉はタンパク源だから重要だ。ただしハンバーグは脂質と糖質が多い。
「これからさ、まだ時間あったら一緒にどう? 赤身の牛挽で脂質落としたやつ、うまいよ」
「……う、うん。トガシくんのおすすめ?」
「まあ、そんなとこ」
お気に入りのお店があるのだろうか。同業者の行きつけなら、問題ないだろう。トガシくんと、トガシくんの行きつけでご飯。まさか誘ってもらえるなんて。
これはたぶん、すごいラッキーだ。ありがとう、あっちゃんといっくんの春休み。ありがとう、世界。
僕はフワフワと浮わつきかけた心の上からしっかりシートベルトを締めた。
「場所、ナビ入れてくれる?」
ん、と短く言って身を乗り出して、トガシくんはしばらくタッチパネルと睨み合っていた。
車は日暮れとともに都心部に入り、まばゆいライトの渦が左右から僕らを出迎える。
トガシくんも僕も音楽に造詣が深いわけではなく、適当につけたラジオをBGMとして垂れ流していた。
今はフランスのアーティストが十年以上前に出したファーストアルバムから、続けて二曲かかっているらしい。
沈黙の合間、力強いエレクトロな曲調に乗せて物悲しい声が車内に満ちる。その英語の歌詞を耳で追ったり追わなかったりした。
薄暗くなった車内で、時おり対向車のヘッドライトが僕らの頬を照らしては、また遠ざかってゆく。
そろそろナビの目的地というところで、僕はようやく違和感を覚えはじめた。
「トガシくん、道これで合ってる? 裏に出てない?」
「合ってるよ。そこ入って」
指し示されたのは、コインパーキングの黄色い看板。言われるがままに駐車する。トガシくんは、人通りのない道をすたすた歩いていく。
飲食店などありそうもない、閑静な住宅地が続く。やがて小規模なマンションのエントランスに立ち、彼が振り返った。
「ここ、俺んち」
「……え?」
「うまいと思うよ、ハンバーグ。今朝タネつくってきたから、あと焼くだけ」
「……えっ!?」
思わず出した声が、ひと気のない通りに反響した。
「小宮くんの大きい声、はじめて聞いた」とか言って、トガシくんが笑った。
「騙し討ちみたいにしてごめん。あーでも、ここまで来ちゃったら断りにくいか。まあ無理にとは……」
「食べたい。お邪魔します」
食い気味に言えば、トガシくんはちょっとホッとしたみたいに「うん」と言って背を向けた。
「あの、なんで……」
なんで家に上げてくれるの? なんで手料理なんて振るまってくれるの? 聞きたいのに言葉が続かず、宙に浮く。
トガシくんは、「なんで、か」と目線を下げた。エレベーターがガタ、とかすかな音を立てて開く。
「泥酔してなくても、パーソナルスペースに入れる仲だってことを証明したくなったから?」
「パーソナルスペース」
「うん。あと最近、夜ひとりでいると気が滅入るから。話し相手がほしくて」
「……トガシくん、やっぱり足が」
不安なんだ、と彼の左脚に視線を落とせば、肩に重めのグーパンを食らった。あっちゃんにやられたのと同じ方の肩だった。痛い。
「冗談だよ。単純に、俺が俺のつくるハンバーグ食いたかっただけ。一人分が面倒っていうだけで、自分でつくるメシは結局自分の口に合うんだよね」
「ああ……それは分かる、けど」
それでも、冗談めかして言われたことの方に、かえって真実味を見出してしまう。
思うように走れないことの、苦しみ。立場が逆だったら、トガシくんはきっと心に届く言葉をくれただろう。それなのに僕は、彼に何を言ってあげたらいいのか、まるで見当もつかなかった。
クサシノと契約解除して、社宅も出たという。トガシくんが選んだ新しい住居はなんだか物が少なくて、いつでもどこかへ消えてしまえる人の部屋みたいだった。かろうじて、生活のための家具家電があるぐらいの。
慣れた手つきでハンバーグと付け合わせの野菜を焼きながら、彼は冷蔵庫からジャコと豆腐と海藻のサラダやら余り野菜のコンソメスープやらをせっせとテーブルに並べて、最後に缶チューハイを片手に振り返った。
「一杯だけ飲んでいい?」
「もちろん」
用意してくれたお茶のグラスと、トガシくんのグラスを軽くぶつけて乾杯する。座ってなよ、と言われるのを粘りに粘って、どうにかご飯をよそう係りだけはやらせてもらった。
トガシくんの料理は、味つけの濃さや脂のまとわせ方に罪悪感を抱かせないギリギリのラインを攻めるのがうまくて、本当に美味しかった。
そのうち「おいしい」しか言わなくなった僕を胡乱な目で見ながらも、どうやらウソではないと判定してもらえたらしい。彼の機嫌も上向いた。
「俺もさ、いちご、じつは五年ぶりに食べたんだけど。うまくてびっくりした」
「え、そうだったの?」
「うん。今日小宮くん達と食べたら、『あーなんか俺、いちご好きだったんだな』って気づいたんだよね」
すっきりとしたその目元が、わずかに撓む。
「だからさ、やっぱり小宮くんがいて良かったよ」
何かもっと、彼にとって大きな意味のあるものに対してそう言われた気がした。そしてそれが、まぎれもない彼の本心なのだと、声の調子や瞳の湿度から伝わってきた。
つい、僕の方でもよく考えもせずに本音をこぼしてしまう。
「あの、昔きみを寮に泊めたとき」
「うん」
「きみと寝たのが忘れられなくて」
「……すごい言い回しだな」
「トガシくんは、その、おぼえてる?」
あー、と無意味な声を出しながら首の後ろをかく、トガシくんの耳が赤い。おぼえてるんだ、やっぱり。疑念が確信に変わる。
「でもあれは、ほら。小宮くんは監督責任を果たそうとしただけかなって。まあちょっとは勘違いしそうになったけど」
「勘違いじゃないよ」
思わず言ってしまって、後に引けなくなった。
トガシくんの強張った頬を目の当たりにして、一気に頭の中が白くなる。緊張に鈍る脳を叱咤するが、普段から言葉数の少ない僕には、切り札なんてどこにも見当たらなかった。
「あのときのこと、よく思い出すんだ。最近は特に。やっぱり僕、トガシくんのことが……その」
言いよどむ僕を前に、トガシくんはひと通り視線をさまよわせて、何度か瞬きをして。やがてまっすぐ僕を見た。「小宮くんさ」と箸を置く。背筋はしっかり伸びたまま。
「俺とセックスできる?」
ヒュッ、みたいな音が聞こえた。なんのことはない、僕の喉から飛び出した音だった。
「俺はたぶん、小宮くんとならできるんだけど」
「そうなんだ……!?」
「あ、しないよ? できるかできないかっていうだけの話」
「そうなんだ……?」
いや、そうなんだって、なんだ? やりとりが未知すぎて、自分の発言にまで混乱する。この返しで合っているのかも分からない。
「トガシくんは今、その、お付き合いしている人は……」
「いないけど。小宮くんもいないだろ」
「な、なんでそう思うの」
「助手席にもそんな気配なかったし、カーナビの履歴も練習場と会社ばっかりだったし。第一、今日みたいな頼みごとを俺なんかにしてくる時点で、たぶんいないだろうなと思ってた」
探偵みたいなことを言う。まったくその通りだった。
トガシくんは机からグラスを持ち上げ、レモンハイで唇を濡らす。大して量も減っていない。酔うつもりはないらしい。
「まあでも、小宮くんとは付き合わないよ」
すげなく言われて、ちょっとびっくりするくらい傷ついた。今、もしかしてフラれた?
そこでようやく、これまでの会話の流れに、自分があらぬ期待をしていたことに気がついた。
いや、好きな人の部屋に呼ばれて手料理まで食べて。むしろこれで期待しない方がおかしい気がする。というか、僕とセックスできるって言ってなかった? うん、言ってた。
「……なんで」
「え?」
「僕と、その、そういうことはできるのに付き合わないって。なんで」
つい詰問するような口調になる。
微妙に僕から視線を逸らして、トガシくんは虚空に向かって「うーん」とつぶやいた。身体の重心がやや斜めに傾く。
「小宮くんは特別枠だから……なんかそういうの、もったいないというか」
「特別枠」
「それに今なんていうか、リハビリのことで色々と心細いんだよね。だから俺は、手っ取り早く依存先を求めてるだけなのかもしれない。だとしたらきみに失礼だろ」
僕にとってトガシくんの説明は、いつだって分かりやすいはずだった。それを今回に限ってよく分からないと感じるのは、単に僕が分かりたくないだけなのかもしれない。
それでもこれだけは聞いておこうと、口を開く。
「……僕とは付き合わないとして、じゃあ付き合えるか付き合えないかで言ったら?」
「…………そりゃ、付き合えるけど」
反射的に、机のグラスに手を伸ばす。トガシくんの方のグラスだ。それを勢いよく飲み下す。糖類ゼロのレモン味が舌を刺す。正面から「あっ」と焦った声が上がった。
「小宮くん! そっちアルコール入って……」
る、と続くはずだった言葉を飲み込みながら、トガシくんは僕を見た。何かを察したように表情が固まる。
僕は、中を空にしたコップをテーブルに置く。コン、といやに乾いた音が響いた。
「トガシくん、僕もう運転できない」
「えーと、そうですね……?」
「泊めてくれる?」
聞けば、一瞬怯んだように見えた。安心してほしくて言い募る。
「言っておくけど、話し相手になりたいだけだから。その、セックスはしないよ」
「……あたりまえだろ」
動揺したことを隠すかのように不機嫌になるトガシくんに、先にそういうこと言い出したのはきみの方なのに、と思う。思うだけだ。口にはしない。
かわりに、ひとつ主張しておくことにする。
「僕なら、待てるよ」
思いのほか切実な声が出て、トガシくんの顔色が変わる。言葉を選ぶさなか、一気飲みしたアルコールが僕の血管を駆けめぐる音がした。
「トガシくんは万全の状態でトラックに戻ってくるって、信じてるから。だから、それまで待つよ」
「それって……付き合うとか、そういう話も全部?」
「うん。本当は今すぐきみの依存先になってもべつに構わないけど、でも、きみなら分かってると思うから」
「……何を」
「誰かや何かに寄りかかってたら、きみの脚は自由にならないってことを」
やっぱりトガシくんのくれるような言葉は、僕からは逆立ちしたって出てこない。ただ、トガシくんは大丈夫だと、僕はそれを知っているのだと伝われば、もうそれで良かった。
ややあって、トガシくんは珍しく小さな声で「うん、ありがとう」とこぼした。そして、僕から顔を隠すようにして席を立った。だから僕も、あえてその表情を見ようとは思わなかった。
「うち、新品の下着あったかな。小宮くんがくれたやつはまだ取ってあるけど」
「あれまだ持ってたの? もうそれだと僕はサイズが……」
「ああ、やっぱりね。ヒップサイズが……小宮くん、大きくなられて……」
「…………嫌な言い方するね」
結局、トガシくんはスポンサーからもらったというアンダーウェアの新品を探し出してくれた。それでも、僕には少し窮屈だったけれど。
「そうだ、同期から聞いたんだけど。昔小宮くんがケンカ売ったうちのOB、この前のインカレ見に来たらしくてさ」
「ケンカなんて売ってないよ……」
反論すれば、「売ってたよ」とあっけなく打ち返される。
五年ぶりに一緒のベッドに寝転んで、今度は至近距離で向かい合って。なんだか緊張よりも、懐かしさが勝っている。
いつかの夜を取り戻すように、僕らはポツポツと会話をしていた。
「それでその人、何て言ったと思う? 現役生に向かって『小宮とトガシを見習って自己節制、自己研鑽に励め。あいつらが学生のときは、懇親会を中座してまでストイックに走りに行ってた』って」
「すごい……記憶が改ざんされてる」
「だよね、何者かの手によって」
「脳、とかをいじられたのかな」
「…………フッ」
堪えきれないとばかり、トガシくんが笑った。あたたかな吐息が頬にふれる。照明をしぼった薄暗い寝室に、彼の輪郭ばかりが浮かび上がっている。
「小宮くんが俺をさらって二人で逃げてさ、翌日先輩たちにどう言い訳しようなんて思ってたけど。今思えば、あれのおかげでちょっと壊れたというか」
「なにが?」
「うーん、システム? 秩序に従属しなきゃいけない暗黙の了解、みたいな空気に亀裂が入った」
「ああ、そうなんだ」
今は大学生の頃と――まして小学生の頃と違って、僕らはもう知っている。身体能力が高いことは、人として優れていることを意味するわけじゃない。
それどころか勝者として恩恵を受けるのと、排除や抑圧を受けるリスクは表裏一体だ。百メートルを誰より速く走ったとて、そんな構造から逃げ切れるわけじゃない。
僕らが活躍できるのも評価されるのも、どうしたってそんな筋肉質な世界だけど。だからと言ってその秩序に甘んじたいわけでも、加担したいわけでもなかった。
「本当は……僕はきみに、ひとりで楽になってほしくないのかも」
考えるより先に、そんな台詞が口をついて。自分で驚いたが、いくぶん納得もした。いつだって、走ることは楽しくもあり苦しくもある。
「僕と一緒に、まだあの世界で戦っていてほしい。それがきみを苦しめると分かっていても」
目の前に横たわる影の中で、両目が濡れたように光る。彼はあきれたような、わずかに喜びの混じったような、複雑な声を上げた。
「ずいぶんだなあ」
「謝った方がいい?」
「いや? 望むところだよ」
薄闇に目をこらせば、トガシくんの薄い唇ははっきりと笑みの形を描いていた。
「俺は必ずトラックに戻る。きみは速いし、俺も速い。だから、ブチカマそうぜ。ふたりで」
いつも僕を導く、強気な瞳がそこにある。
学生のときよりも、いくらか苦悩の降り積もったその目元を指先で撫でてみる。今日は、僕の体温の方が冷たかった。すぐ指を引っ込めようとしたら、ぐいと手をつかまれた。
指と指がもつれ合い、からみ合う。じわじわと互いの温度がなじんで、境界が曖昧になってゆく。
「復帰して、最初に一緒になったレースで俺が勝ったらさ、じかに確認させてもらおうかな」
「……なにを?」
「えー、小宮くんのヒップサイズ?」
やっぱり今履いてるやつも窮屈だろ? なんて真顔で聞いてくる。
それには「セクハラだ。訴えよう」と適当にうそぶいて、彼の指をぎゅっと握り込む。
「僕が勝ったら、もっとすごいことさせてもらうから」
「なんだよすごいことって」
トガシくんは苦笑して、少しの間考え込んで。やがて、ちょっと忘れ物を思い出したぐらいのテンションで言った。
「あ、そうだ。先にキスぐらいしとく?」
うわ、最悪だ。
「最悪だ」
「え、いやだった?」
「嫌なわけないでしょ、なに言ってるの? そうじゃなくて、僕たちまだ付き合わないんじゃなかったの」
「そうだけど、じゃあこの手はいいのかよ。あとこの状況も」
トガシくんがシーツの上で繋いだ手を持ち上げたので、僕はそのまま二人の手をブンブン上下に揺らした。
「親戚の子どもとだって手は繋ぐし、隣で寝たりもするでしょ。でもキスはだめ。トガシくん、付き合ってもない人とキスするの?」
「そういうことも……なくはないんじゃないの。付き合う前にキスしちゃうことだってあるだろうさ」
「フライングだ。だめ、ぜったいだめ」
何がおかしいのか、笑いを噛み殺しながらシーツに顔を埋めるトガシくんの姿に、本日何度目か、僕の内臓が変な熱を持って暴れ出す。
あの頃みたいに――いや、あの頃よりよほど、トガシくんと対話ができていることが嬉しくて。
今すぐにでもその手を引いて、走り出したくなる。あの頃の僕らみたいに、僕らを支配するシステムから逃げるためじゃなく、むしろそれに抗い、進み、ただ走るために。
朝が来るまでに、どうにか言葉を尽くして伝えたいと思う。
きみの隣を走る十秒が、今、僕はこんなにも待ち遠しいのだと。
《RUN BOY RUN・完》
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