アンストッパブル・エキサイトメント

 故郷から出てきたばかりの頃は目に映る何もかもが新鮮で、自分の世界が如何に小さかったかを思い知らされた気分だった。そんでもって都会で暮らして四年とちょっと経った今でも、俺っちの知らねェことは山程あるわけで。とても全てを把握しきれないほど世界が広いってことも、今じゃちゃんとわかってて、そうと知ってから俺っちは生きるのがますます楽しい。知らねェことを知りたいとも思わなくなったら人類の進化も頭打ちだ。
「……なんだこりゃ?」
 俺っちは事務所に届いた大量のプレゼントの山を物色していた。『Crazy:B』宛のものは既にスタッフによって仕分けされていて、まとめて段ボールに詰めてあった。が、目を引いたのはその隣。ひと回り小さい段ボールに黒のマジックで大きくバツが書かれている。検閲の結果〝引っ掛かった〟方の贈り物たちだ。
 周りに誰もいなかった。興味本位でそこを覗いた。面白げなモンがあった。そんだけ。考える前に身体が動いていた。
「ま、リーダー権限ってことでひとつ。バレなきゃいいっしょ♪」
 手に取ったモンを肩から提げたトートバッグに突っ込みながら素早く周囲を窺う。よし、誰も見てねェな。
 仕分けてくれたスタッフや蛇ちゃんにはすまねェなと思う。自分のとこのアイドルを守るため、その目に触れねェように隅っこに避けて、処分するはずだったモンをわざわざ掘り返してる。すまねェなとは思うけど、俺っちは一度気になったらそのままにゃしておけねェ質だから、ちょ~っとお借りするつもりで『そいつ』を持ち帰った。

「――あなたが読書とは、珍しいこともあるものです」
 明日は雪でも降るのでしょうか? なんて帰ってくるなり失礼なことを言いやがったのはメルメルだ。なお今はまだ初秋である。
「メルメルがあんまり冷たいと、マジに雪ンなっちまうかもなァ」
「別に特別冷たくしていないでしょう。いつも通りなのですよ」
「きゃはは。違えねェ」
 即ちいつも俺っちに冷たいってこと。本日二本目の缶ビールを煽りつつ考える。もう慣れちまったけど、片想い相手に改めて言われるとちょっと凹む。この部屋にすっかり入り浸ってる俺っちに、あいつは少しも絆されちゃくれない。ほぼ居候状態でいることを許してる癖に? 期待させるだけさせといてそりゃ無ェっしょ。
 身に着けていた変装用のニットキャップと眼鏡を外し、洗面所に向かうメルメルの後ろ姿を見送る。それからまた手元に目を落とした。紙面には見覚えのありすぎる背格好をした男がふたり、べったり絡み合う白黒漫画――BL同人誌っつうヤツらしい――が、ページを捲っても捲っても続いている。ほらな、まだまだある燐音くんの知らない世界。
「何を読んでいるのですか?」
「どわっ⁉」
 いつの間にリビングに戻っていたのか、背後にメルメルが立ってソファ越しに手元を覗き込もうとする。俺っちの後ろを取るとはやるじゃねェの、腕を上げたなァ。そんな見当外れの賞賛に、案の定彼は「俺はスパイを目指しているわけではないのですが?」とため息をついた。〝俺〟だって。呆れるあまり素が出ちまってる。
「――で、それは?」
 尋ねられて「うっ」と答えに詰まった。何せ俺っちには悪いことをした自覚がある。とは言え誤魔化しが通用するような相手でもねェし、ここは正直に事情を打ち明けるとするか。
「ん、あ~……メルメル、同人誌って知ってる?」
「同人誌? ええ、まあ」
「実在のアイドルを題材にしたモンがあるっつーのは?」
「……知識としては、知っています」
 ダウト。片眉の角度がほんのちょっと、俺っちじゃねェとわかんねェ程度に変わった。眉毛が「不快です」って言ってる。この反応じゃ知ってるどころか実際読んだこともあンだろこいつ。ソロ時代にファンから送り付けられでもしたンかな、例えばそう――大っ嫌いな風早巽くんと絡んでる本とか。
「それがどうし……、……天城」
「やだなァ社会勉強っしょ! 確かに事務所からくすねてきたけど、元々俺っち宛のモンだったし? 盗んだとかじゃねェンだからよォ」
「ですが……、当然許可は得ていないですよね」
「ったり前だろォ、あの副所長が許可するワケねェっしょ。ンなこた良いンだよ、どうでも」
 メルメルはしっぶい顔だ。でも俺っちが見せびらかす表紙に視線が吸い込まれてる。わかるぜ、気になるンだろおめェも。(一部の)ファンからどう見られてるか、何を望まれてるかの指標になるかもしれねェモンだ。
 その金色の目がそこに描かれたイラストを捉えて、たっぷり五秒。たれ目が驚きに見開かれた。
「俺と天城⁉」
「ウン」
「椎名ではなく? ……いや、ステージやカメラの前で絡むのは俺との方が多いのか……そうか……」
 まさか、被写体? 登場人物? が自分だとは思いもしなかったらしい。なんでだよ。今おめェがぶつぶつ言ってる通り、世間さまは『天城燐音とHiMERUのダブルセンター』を見てるわけだし、事務所だってセット売りをゴリ押ししてンだろうが。
 好奇心に光る両目は雄弁に「見せろ」と訴えている。うーん、俺っちは別に構わねェけど、問題がひとつ。
「メルメルここ、見て」
「……?」
 とんとん、表紙の角にピンクで箔押しされた十八禁のマークを指先で示してやる。気付くや否やぼっと顔を赤くしたそいつは、こちらの意図を正確に汲み取ったようだ。あからさまに慌てだした。
「み、見たんですかあなたは、ひめ、HiMERUと自分の、その、濡れ場でしょう?」
「ぎゃはっ、濡れ場って。見た見た、女の人向けだからって舐めてたっしょ。結構ちゃんとエロい」
「エロ……」
「そーそー。ちなみに俺っちがちんこ入れる側だったぜ」
 言えば今度は赤かった顔がさっと青くなる。面白。
「嘘でしょ」
「マジマジ。そういうことだから、まだ高校生のHiMERUくんにはお見せできませェん」
「……」
 唇をきゅっと引き結んだメルメルは如何にも不服そうだ。別に見せてもいいンだけど、珍しい表情が可笑しくって、もう少しだけ意地悪してみたくなった。
「――、『誘ってンの?』」
「……はい?」
「『そういう顔するから。傷付けねェようにって我慢してたけど、もう無理、限界。抱きたい』」
「は? え、天城?」
「メルメルの台詞。『傷付いても構わないと思ったから、来たのです。わかっている癖に』、ハイ」
「いや言いませんけど⁉」
「『燐音が好き』、ハイ」
「言わねえって言ってんだろ!」
「イテ」
 脳天に思いっきりチョップされて俺っちは渋々悪ふざけをやめた。音読してやったらこの漫画みたいに可愛く恥じらってくれるかと思ったンだが、何事もそう上手くはいかねェな。
「そんなにヤだったかよ。悪かったな」
 気分を害したなら謝ろうと、素直に謝罪を口にする。ちょっとやりすぎた。そう思ったのに、返ってきた言葉は予想もしないものだった。
「いえ……嫌ではありませんが」
「だよなァ~ごめんごめん、えっ」
「嫌ではありません。ねえ天城」
 ふっとリビングの電気が消えた。そう思ったのは間違いで、正しくは隣に座ったメルメルの顔が近付いて陰になったから、消えたように錯覚しただけだった。薄暗い視界で月みたいな黄色い瞳がすっと細められる。心臓がドキリとひとつ、跳ねた。
「あなたは――HiMERUとそういうことをしたいと、思いますか?」
「そっ、へ⁉」
「その本に描いてあるみたいなこと、したい?」
 髪を耳に掛けながら小首を傾げる仕草に合わせて、淡い色の前髪がさらりと流れる。ふわりと、彼のいつもの香水が強く香った気がした。
「メル……、HiMERU……さん」
「はい、燐音」
 ウソだろ、え~、ウソ。マジで? したいって言ったらシてくれそうな雰囲気じゃん。マジ? これって俺っちに突如降ってきた千載一遇のチャンスじゃねェ? チャンスは掴むもの。でけェ魚だ、逃そうモンならギャンブラーの名折れっしょ。
「ウ……したい。本よりもっとずっとすげェこと、したい」
 情けなくも声が震えた。だってしょうがねェじゃん俺っち童貞だもん。童貞が勇気振り絞ってンだよ。人の童貞を笑うンじゃねェよ畜生。
 俺っちは恥ずかしさのあまりあらぬ方向に向けていた目線をおずおずと正面に戻した。そして気付いた。そこにいる綺麗な男の、人の悪い笑みに。
「ぶふっ……必死すぎでは」
「えっ、え? 何」
「んっふ、変な顔してますよ天城、あはは」
「はァ⁉」
「はは……はあ笑った。――では待っていてくださいね。俺が高校を卒業するまで」
 何ナニ、どういうことだよ。今完全にそういう雰囲気だったっしょ。もうなりふり構ってなんていられない俺っちはメルメルに詰め寄った。
「なんっでだよ‼」
「あなたが言ったのですよ。エッチなのは駄目なのでしょう? HiMERUはまだ高校生、なのですから」
 言った。エロ同人はお見せできないと、確かにこの口で言った。ガキ扱いされてムカついたのか、そんで仕返しか? だからガキだっつーンだよ――なんて悪態を吐いてみても今回は俺っちのオウンゴール負け、試合終了だ。ふんと鼻を鳴らしてしたり顔をして見せるこの子供に完敗したのだ。
「――ではHiMERUは寝室で台本を読んでいますので。邪魔をしないように」
 ぱたん。そう言い残してドアがぴたりと閉じられた。ぬるくなってしまったビールを飲む気にはもうなれない。ソファにぐったりと凭れて天井を仰いだ。
「高校卒業までか……卒業っていつ……、ああ⁉」
 ガバリ、勢いよく身体を起こす。おい。おい……卒業まで待てってことはつまり、卒業したらいいってことだろ。ンなわかりづれェ返事があるかよ、バカ。いやバカは俺か。
 今すぐ天邪鬼で可愛くないクソガキに迫って本音を吐かせてやらなきゃなんねェ。勿論本の台詞をなぞるンじゃなくて、あいつ自身の言葉を引っ張り出してやる。覚悟しとけよ。
 キッカケは何だって構わない。一歩踏み込む勇気をくれたって意味じゃ、あのプレゼント(?)もちゃんと役に立ってる。感謝しといてやろうじゃねェの。俺っちは深く息を吸い込むと、メルメルが籠城を決め込む寝室のドアを雑にノックした。

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