同級生の話
忘れられない人がいる。
なんて言ったら、君はきっと、僕がなにか素敵な思い出でも持っていると想像するだろう。それは半分正解で、半分は間違いだ。
半分は今でも、僕の胸の中に小さなガラス玉みたいに光って残っている。けれど、もう半分は恐怖だ。その恐怖のせいで、僕は今でも窓辺に足がすくむことがある。
どうして急にそんな話をするのかって? この前、偶然彼を見かけたからだ。最後に会ったのは十年も前だから見間違いかもしれない。でも、きっとあれは彼だった。
だって、あんな人間はそうそういない。
君はこれまでの人生で、そこにいるだけで思わず見惚れてしまうような人間に出会ったことはあるだろうか。
僕にはある。十五歳のときだった。
彼は、僕のクラスの転校生だった。
ある朝、先生に連れられて教室へ入ってきた彼は、不機嫌そうに唇を引き結び、僕らなんか眼中にないみたいに真っ直ぐ前だけを見ていた。
形のいい眉に、薄い青の目。白い肌。焦茶色の、ふわふわした巻き髪。
教室が一瞬、妙に静かになったことを覚えている。
彼はきれいだった。それから、ひどく場違いに見えた。枯れた野原に、ぽつんと咲いてしまった花みたいだった。
そして、彼の態度は不遜そのものだった。
愛想笑いひとつしない。僕らに打ち解けようという気持ちも、微塵も感じられなかった。でも、そういう感じの悪ささえ、彼を魅力的に見せていた。
先生に促されて、彼は教室の後ろへ歩いてきた。そして空いていた僕の隣の席に腰を下ろすなり言った。
「ぼけっと見てんなよ、カスが」
はっきりと、僕に向けて。
顔から火が出るかと思った。何も言い返せなかった。教室中がしんとしていた。
彼はそんなこと気にも留めず、ふん、と鼻を鳴らして前を向いた。それなのに僕は、しばらく彼の横顔から目を離せなかったんだ。
十五歳の僕がどんな奴だったかを、長々と説明するつもりはない。
学生時代のクラスメイトを思い出してみてほしい。顔はなんとなく浮かぶのに、名前がどうしても出てこない。あるいは、いたことだけは覚えているけれど、顔すら曖昧な奴。それが僕だ。
ほどほどに内気で、ほどほどに人付き合いもできた。でも、どうにも印象の薄い奴。学校用の鞄には、お守りがわりにサリンジャーの本をいつも一冊入れていた。これで、僕がどんな十五歳だったか、だいたいの見当はついただろう?
それから、彼の名前を君に教えるつもりもない。ありふれた名前だったよ。デイヴィッドとか、オリバーとか、ハリーとか。それくらいよくある名前だ。
僕がここで彼の名前を教えてしまったら、君はこの先、彼と同じ名前の人間に出会うたびに僕の話を思い出すかもしれない。それは嫌なんだ。こんな話は、ただの酔っ払いの昔話だと思って聞いて欲しいからね。僕もその方が楽なんだ。
ごめん、話が逸れたね。彼は結局、クラスの誰とも馴染まなかった。最初のうちは声をかける奴もいたし、女の子にも陰でずいぶん人気があった。でも、彼は徹底して無愛想だった。それを面白く思わない奴が、彼をからかったことがある。
彼は容赦なくそいつを殴りつけた。教室で、ためらいもなく。
もちろん大騒ぎになったし、彼の親も呼び出された。そのとき初めて、彼は養子らしいと噂で知った。
それからは、誰も彼に近づこうとはしなかった。みんな、遠巻きに彼の横顔を見ていた。
たぶん僕たちはみんな、同じ勘違いをしていたんだと思う。自分だけは、彼の孤独や純粋さを分かってやれるんじゃないかって。少なくとも、僕はそうだった。
今でもほとんどの同級生は、彼のことを覚えていると思う。彼の方は、僕らの顔なんて一人も覚えていないだろうけど。
そろそろ本題に入ろう。僕が今でも窓辺に立つと怖くなる理由だ。
彼は双子だった。
双子と言っても、二人はまったく似ていなかった。血が繋がっているのかどうかも、僕は知らない。本人たちが「双子だ」と言い張っていたから、僕らもそう呼んでいただけだ。どちらが兄で弟だったのかも、正確には分からない。ただ、もう一人の方がずっと面倒見がよく見えたから、ここでは兄と呼ぶことにする。
兄の方は、彼と正反対だった。
クラスは違ったけれど、廊下ですれ違うときにはクラスメイトと楽しげに話していたし、物腰も穏やかだった。休み時間になると、よく僕らの教室を訪ねてきた。ほんの数分、彼と他愛もない話をして自分の教室へ戻っていく。
彼も、そのときだけはよく笑った。笑うと目尻がくしゃりと下がった。
僕は自分の席から、その笑顔を何度も盗み見た。たぶん、僕だけじゃなく他の奴も。
兄の方についても、僕は勝手に分かったつもりになっていた。彼とは違って、うまく人付き合いのできる奴。特に害のない、普通の少年。
でも、それは大きな間違いだったんだ。
あれは秋だった。少し肌寒かったことも覚えている。
授業が終わって、僕は文芸クラブへ行くつもりだった。ご期待通り、十五歳の僕は運動部じゃなくて文芸クラブに入っていた。笑わないでくれよ。
その頃、クラブで短編小説を書く課題が出たのだけれど、僕は完全に煮詰まっていた。どうにも行く気になれなくて、気分転換のつもりで自分の席に座り直して、鞄から本を取り出した。
もちろんサリンジャーだよ。僕の神様だからね。「フラニーとゾーイー」だ。僕はホールデン・コールフィールドより、ゾーイー・グラースの方がずっと好きだった。
いつも通り、お気に入りのところを読もうと本を開いたとき、頭の上から声が降ってきた。
「それ、なに?」
僕ははっと顔を上げた。彼だった。鞄を持っていたから、帰ろうとしていたんだと思う。彼は何の部活にも入っていなかった。彼から僕に話しかけてきたのは、転校初日以来だった。
僕は一気に喉がからからになった。
「サリンジャーの本だよ」
声が少し掠れた。彼は気にした様子もなく、「ふぅん」と言った。
「面白いのかよ」
彼は僕の席の方へ身を乗り出してきた。僕は慌てて本を机の上に置いた。ページの上に彼の影が落ちた。巻き毛の輪郭まで分かって、僕はそこから目が離せなかった。
きれいな人間は影まできれいなのか、と馬鹿みたいなことを思ったんだ。
「面白いっていうか……サリンジャーは特別なんだ。これは自分のために書かれた本だって、世界中の人に思わせる作家だから」
「へえ」
どう見ても、その表情は大して興味があるようには見えなかった。ところが、彼は本を指差して言った。
「じゃあ、それが一番面白いのか?」
僕は少し悩んだ。
「僕はこれが一番好きだけど、一番有名なのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』かな」
「キャッチャー?」
「うん、聞いたことない?」
「知らねぇ」
「すごく有名だよ。今でも世界中で読まれ続けてる」
そこまで言って、僕は急に思いついた。
「……よかったら、貸そうか」
自分でも分かるくらい、声が震えた。
ちょうど、課題で一人称の小説を書いていたから、参考にするつもりで『キャッチャー』も鞄に入れていたんだ。
彼は眉をひそめた。
「俺に?」
「うん。君なら、ホールデンの気持ちが分かるかも」
「ホールデン?」
「主人公だよ。学校にもどこにも馴染めないホールデンは、ライ麦畑で遊んでる子どもたちが崖から落ちそうになったら、捕まえて助ける『キャッチャー』になりたいって言うんだ」
「なんだそりゃ」
「読めば分かるよ」
少し考えてから、彼は言った。
「じゃあ、借りる」
その瞬間、僕はたまらなく嬉しかった。鞄から本を取り出して手渡したとき、教室の外から彼を呼ぶ声がした。
兄だった。二人は必ず一緒に帰っていたから。
彼は本を鞄に入れ、それから僕の目を見た。唇が、ほんの少しだけゆるんだ。
「ありがとな」
小さな声だった。十五歳の僕は、その彼の微笑みを一生忘れたくないと思ったんだ。
それから三日後くらいだったかな。
僕はまた放課後の教室に残っていた。課題の小説は全然進んでいなくて、クラブへ顔を出すのが億劫だった。
それに、少し浮かれていたんだと思う。
彼が初めて僕に笑ったことや、僕の本がいまは彼の手元にあること。たったそれだけのことが、ひどく嬉しかった。
「あれ? あいつは?」
机に突っ伏していた僕に、誰かが声をかけた。顔を上げると、彼の兄が立っていた。隣の席を見る。鞄はまだ置いたままだった。
「さぁ。でもすぐに戻ってくるんじゃないかな」
兄は返事をしなかった。
僕は本当に知らなかった。トイレかもしれないし、先生に呼ばれていたのかもしれない。教室を見渡すと、最後まで残っていた連中がちょうど出ていくところだった。
僕もいい加減クラブへ行こうと、鞄を整理して席を立った。それから、机の中に本を入れっぱなしだったことに気づいてすぐに取り出した。もちろんサリンジャーだ。
そのまま教室を出ようとしたところで、兄が言った。
「お前が貸したのか?」
僕は足を止めて振り返った。
「え?」
「本」
最初は何のことか分からなかったけど、すぐに思い当たった。
「ああ、キャッチャーのこと? だったら僕が——」
最後まで言えなかった。突然、胸ぐらを掴まれたからだ。何が起きたのか理解するより先に、強い力で体が前へ引かれた。すぐ目の前に兄の顔があった。黒い瞳が真っ直ぐに僕を射抜いた。
「お前、あいつのこといつも見てるよな」
ぞっとするくらい冷たい声だった。
「なぁ、見てるよな?」
僕は何も言えなかった。あまりの迫力に身動きすらできなかった。兄は低い声で続けた。
「あいつで抜いたりしたら殺すからな」
その一言に、僕ははっと我に返った。同時に、すごく腹が立った。十五歳の僕は浅はかで、正直だった。だから言い返したんだ。
「ち、違う」
「あ?」
「僕は……彼のこと、もっと清潔な気持ちで見てる。君にそんなふうに言われる覚えはない」
兄の目に怒りが燃えた。僕はあっという間に羽交い締めにされ、そのまま窓際まで引きずられた。もちろん抵抗したよ。でも、兄は僕よりずっと体格がよくて、僕を押さえ込むのなんて簡単だった。カーテンが僕の顔に触れた。次の瞬間、僕の上半身は窓の外に押し出されていた。
四階だ。下の校庭に人が見える。びゅうっと冷たい風が僕の頬を撫でた。
本当に怖いとき、大声なんて出せないんだと僕は知った。
「落とすぞ」
兄は言った。ひどく落ち着いた声で。だから余計に怖かった。僕はいつの間にか泣いていた。必死に手足をばたつかせ、涙を流しながら首を横に振った。兄はしばらく僕の顔をじっと見ていた。僕がよっぽど間抜けな顔をしていたのか、その目からふっと怒りが消えた。それから耳元で囁いた。
「お前に、あいつを分かってやることなんかできない」
僕は何度もうなずいた。何に同意しているかなんて分かっていなかった。とにかく教室の中へ戻りたかった。
兄は僕を乱暴に引き戻した。僕は床にへなへなと座り込み、ひどく咳き込んだ。手も足も震えて止まらなかった。
そのとき、教室の入り口で足音が止まった。
「なに? そいつどうしたの?」
彼だった。僕と兄を交互に見て、怪訝そうな顔をしている。兄はすぐに振り返った。さっきまでの顔が嘘みたいに、いつもの調子で飄々と答えた。
「いや、なにも。早く帰ろうぜ」
彼は僕を一度見た。でも何も聞かなかった。二人はそのまま教室を出ていった。
これが、僕が今でも窓辺に立つと、ときどき足がすくむ理由だ。
冬になる頃、彼らはまた転校していった。里親が変わったらしい、と後から聞いた。
あの日以来、僕は彼に話しかけられなかった。彼はそんなことを気に留める様子もなかったけれど。
そのまま、彼らは僕らの前から消えた。
僕は最初、「彼を見かけた」と言ったね。正確には「彼ら」だ。公園ですれ違っただけなんだけどね。
僕は思わず立ち止まって振り返った。彼は振り返らなかった。でも、その隣を歩いていた兄の方は、一度だけ振り返った。十年前と同じ黒い目だったよ。それだけだ。
さあ、僕の話はこれでおしまい。え? 本は返ってきたのかって? 返ってこなかったよ。でも、別にいいんだ。
あの頃の彼が、一行でも読んでくれたならそれでいい。でももし、今でも持っているなら。
彼の本棚のどこかに、十五歳の僕が貸したサリンジャーが残っているなら。
それは、僕からあの兄へのちょっとした復讐になる。
まあ、それくらいは許されるだろ?
おわり
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