エディブル・フラワー - ネピネ
「────目玉はどうだ」
思いつきざま、ネイルはピッコロを振り返り提案を口にした。眼球であれば水気が多いし、乾いた表皮のある部位ほど嚥下に苦労がないように思えたのだ。
『相手の一部を食べなければならない』
突拍子もなく、また空間を開くにしろ閉じるにしろ封じに対してなんの道理も通らない文言が、しかしまるでまじないのように壁に綴られた空間。一瞬の意識の空白の後、気がつけばピッコロとネイルはそこへ閉じ込められていた。空間は面積にして1ha、二人によく覚えのある精神と時の部屋のように地球規模ほど際限がないわけではなく、空間把握には難のない広さではあったが壁以外何もない空間というのも思いのほか圧迫感を感じるものであるらしい、とネイルはこの時知った。では高さはどうであろうと二人そろってゆっくりと天に手を伸ばしながら飛んでみたところ、なぜかどこへも行きあたらない。天井だけが無限に広がる不可思議な空間に、ピッコロは「重力があるだけましだな」と呟いた。ネイルは今のは冗談だったかな、と考えて、それからとりあえず頷くことにした。
「それか爪かな。喉を引っかきそうだが……」
空間の発現、なんの気配も感じない一帯の空気感に、ピッコロもネイルも超常的な何かを察していた。及び知れぬ「絶対」の何かに、しかしなんの手も打たない二人ではなく、一点突破を目論んで壁の一つに気を撃ち当て続けたのは数刻前のこと。全力を尽くす勢いで破壊を目指し、そしてほとんど同時に攻撃をやめた。気を尽き果てさせるのは得策ではないと、やはり同じように悟ったからだった。
目、爪、指、足、耳、喉……坐して黙したピッコロに、ネイルはまじないの「一部」になるものを一通り挙げることで脱出の意図を伝えた。再生能力を持つナメック星人の二人にとって、「手段」としてからだのどこを損じようともあまり支障はない。
問題は、食わねばならないというところだ。ネイルは後ろ手に組んだ指を結び直す。
ネイルにも分かたれたピッコロの記憶では、神の遠い記憶に食事をしていた覚えがあるようだったが、実際の経験はない。ネイル自身に至っては固形物と呼べるものを口にしたことすらなく、新たな試みだな、と食べることに想像を馳せた。
「うまく取り出せれば比較的引っかかるところの少ない部位だろう」
白く何もない天井を見上げ、試しに眼窩に指を這わせる。瞼の上から円い輪郭をなぞると、視線に合わせて皮膚の下で球体がごろりと動いた。
「────不愉快だ」
ようやく口を開いたピッコロの声は、隠すことなく不機嫌さを表している。
「たしかにな」
「そうじゃない、お前を食おうがお前に食われようが、腹立たしいことには変わりはないがそこまでの問題ではない。指図を受けて望まないことを強いられるこの状況が極めて不愉快だ」
組んでいた足を解いて立ち上がり、ピッコロは数刻前に集中的にダメージを与え続けた壁に改めて触れた。そこは時を経て脆さが表出する……ということもなく、泰然と空間の一部であった。一見柔らかく、しかしこの上なく強固な壁に、そこで打ち留められているようでどこまでも続く天井。超常的な”問題”はそこに横たわったまま二人を眺めている。それがかえっていら立ちに爪を立てられるようで、ピッコロは悪あがきとわかっていながら一発お見舞いせずにはいられなかったらしい。激しい衝撃音が空間を揺らした。
「ここを出るぞ、ネイル。これに原因があるなら、おれはそいつを叩きのめさねば気が済まない」
ネイルはようやく腰を上げたピッコロに首肯した。
「さて、どう解決するかだな」
「お前の言うよう、まずはこのまじないに従うしかないだろう」
ネイルは壁を睨むピッコロの横顔を見てからそういえば、と少し顎を上げ、自身の触角の一つをつまんで視線だけで仰ぎ見た。「やはり目玉か。ここは神経が多いからお互いあまり気が向かないだろう」
「そんな手間をかけることはない」
言って、ピッコロは音もなくネイルへと歩み寄り背に回したネイルの手を取った。思わず拳を結んだ手を、ピッコロが至極真面目な顔で指を開かせようとするのでネイルはたじろぎ一歩後ろへと片足を引いた。
「ピッコロ」
ネイルはまずはまじないの「相手」を定めるところから話を進めるつもりだった。当然そうであるとばかり思っていたので、戸惑い気味に息を詰まらせる呼び声に、ピッコロが物珍しそうにまばたきしてから鼻で笑いを漏らす。
「一瞬だ、……気を楽にしてろ」
ピッコロは強張る手を柔く揉んだかと思うと、一番長さのない第四指を吸い込むように口の中に納めた。ネイルが目をつぶる間もなく指先はほとんど飲み込まれ、ひく、と引きつる爪がかすかにピッコロの喉奥を突いた。ぐ、だか、ん、だか息を潰すような声で呻くので、ネイルは「すまない」と口にしようとしたが、叶わなかった。
鋭利な痛みがネイルの末端を貫き、手先から血の気が引くと同時に全身の血液が心臓に集まらんと脈拍が加速した。新たに生まれた傷が大きく脈打ち、細胞という細胞が悲鳴をあげているのがわかる。皮膚に食い込んだ牙が間もなく付け根を裁断する。冴えわたった痛覚が最期の一瞬に、ピッコロの内側の温度に触れて、神経を、脊髄を伝ってネイルへと知らしめた。
骨か軟骨かが歯牙に砕かれぼぎんと耳に障る断末魔を残し、ネイルの一端はピッコロの喉を下って消えた。
「っ………う”、最悪だな、これは」
ネイルの耳は、何事か言ったピッコロの言葉を捉えることはできなかった。脳髄をめまいがぐわんとかき混ぜて、どっと溢れ出る疲労にいつの間にか止めていた息を吐き出す。荒く息をつくネイルに顔を歪めたピッコロは不可解な顔をして、そんなに痛かったか、とわずかに配慮を覗かせるほどだった。
「ああ…………思ったよりも」
「それは悪いことをしたな、だが食う方も相当だ」
げ、と喉の違和感を露わにするピッコロはまさに苦虫を噛んだような顔で、そこでネイルもようやく顔のこわばりを解いて口端を上げた。首の後ろにかいた汗をぬぐうと同時に、沈黙していた空間が開錠の音を一つこぼした。見遣ればたしかに、部屋の一角にドアに似た長方形の区切りが生まれてわずかに風が吹き込んできている。
「呆気なく開きやがって……なにからなにまで不愉快だ」
「私は嬉しいよ、これ以上まじないか何かが続かなくて」
「……そう思うことにしよう」
ず、と粗削りな肉の内から滑り出た新しい指には、新鮮な空気の流れに触れるのもどこか生々しい感覚が這う。ネイルは失せた指が覚えた恍惚を振り払うように、付け根から爪先に残る血と体液を早々と拭った。
「行くぞ」
「ああ」
謎の空間も、ここで過ごした時間も、にわかに覚えた「食べること」の悦びもこの場に置き去るのが尤もだ。ネイルはそう判断しピッコロの背中を追った。戸口をくぐるとき、一瞬胸の内をよぎった疑問──あるいは「食べられること」?──は、部屋に残ったか、この時のネイルにはわからなかった。
@__graydawn
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