明日



最後の問診が終わり、患者を追い出したところで、窓の外からバラバラと、ヘリがかしましい音を立ててやって来た。
州内での大事故の現場からの救急搬送であれば、もっと早い段階でドアの外からそうしたピリついた気配が伝わって来るもんだが、今日は恐らく別の用だろう。
大学を併設するクエイドの財団本部は、研究の最前線でもある。国外から、手術に要する物資の持ち出し要請があれば、それだけでビルの屋上にヘリコプターが飛び交うことになる。
診察室の窓からは、広い屋上に着陸する機体を外から見上げる人間が見えた。
野次馬の数はさほど多くはない。今は日勤と当直の人間が入れ替わる時間で、人の出入りが多少はあるが、普段と変わらない光景だった。
徹郎はデスクの上のカルテを片付け、引き出しを引いた。
仕舞ってあったスマートフォンに譲介からメッセージ届いた気配はない。
食材を買いに行く余裕があるなら日勤が終わる夕方までにショートメッセージ。食事が出来るなら着信。帰る余裕がありそうなら、あるいは午前様かどうかの連絡はメール。

――まあ、今日も夜半に帰って来るかどうかはわかんねえってとこか。

譲介は、見たところ、三十代の自分と同じくらいにはワーカホリックだ。渡米して暫くは、仕事に励む様子を、今のように斜に構えるでもなく呑気に見守っていたが、この身に巣食う病を、手術と投薬で強引に寛解に持ち込んでからというもの、輪をかけて仕事に打ち込むようになった。
和久井譲介という男を駆り立てているのは、病を治すという医師の仕事そのものであるだろうが、徹郎の見るところ、朝倉省吾という上司個人への忠誠心が、それをより強固なものにしているようだった。
それが面白くない、と言えば面白くないが、どうあれ、まぁアイツが選んだ人生だ。
さっさと帰って鮨でも食いに行くか、と白衣を脱いだところで、診察室の外からドアを三回叩く音が聞こえて来た。
コンコンコン。
壊れたメトロノームのような寝ぼけたノック。
午後一番の予約をドタキャンしたロックウェルの親子か、あるいは、患者以外の人間か。
入れ、と言うと、半分空いたドアから「チョコレートの回収に来ました。」と譲介が顔を出した。
それなりの年俸を戴いているだけあって、クエイドの総本山で働いてるヤツらの口の金具は、滅法固いが飛び交う噂はその限りではなく、話には羽が生えている。どっから話が行ってやがるんだ、とクエイドの内部で筒抜けらしい情報の速さに苦笑すると、企業秘密です、と笑いながら部屋に入って来る。
財団に寄付をするような後援者の間でどんな口コミが広まっているのかは知らねえが、ぽつぽつと州外からの患者を受け入れていると、時折こうして手土産を持参して来る親がいる。付け届けはクエイドでは徹底して禁止されているが、この部屋の中だけはオレが法律だ。今日日鼻たれのガキに吊るしの半ズボンを履かせるような親からの貢ぎ物で、道路を百マイルもかっ飛ばして州外から通って来ているような、革靴のつま先まで完璧なセレブだった。
これもまあ噂程度の域で真偽は定かではないが、このところはその手の親の来院が増えて財団は濡れ手に粟だと聞いてはいるが、同じ職場で働いているのにこんなに長く顔を見られないなんて、と嘆く男と暮らしていると、フルタイムで働く医者をもっと増やせと言いたいところだ。
「残念だったな。それなら最後に問診に来たガキにやっちまったよ。」と三日の不在の間に多少やつれた面持ちになった男に手を振る。
これからダイナーでの仕事を控えた母親と二人、バスで家まで帰るというので、机の中に隠した箱から中身を取り出して、ポケットの中に入れてやった。見てみろ、と屑籠に入った空箱を見せてやると、譲介は「中身を全部あげちゃったんですか?」と口を尖らせる。
ここにも食い気の強いガキがいたか、と笑ってしまう。
「そもそも箱はひとつしかねえってのが分かってて来たんだろうが。」
譲介は「じゃあ、僕にも中身の詰まった方をください。」と言って一歩こちらに近づき、頬に顔を寄せ、軽くキスをした。
くすぐったい。
じゃあ、って何だよ、と笑いながら答えようとすると、譲介はそのまま顔を傾け、こちらに唇を寄せて来る。
不意打ちは好きじゃねえが、こういうのは別だ。
三日ぶりのたっぷりとしたキスで唇を潤した譲介は「甘くない。」などと嘯く。
「ひとりで食ったとでも思ったか?」
「チョコレート味のキスに興味がある年頃なんです。」と年下の男はこちらの棘をひらりと躱した。
「……いつ帰る?」と聞くと、戻る気があるのか、朝も戻れねえから誤魔化すつもりなのか、三十男の目尻の笑い皺は一層深くなった。
「今はまだ無理そうです。……っ、徹郎さん、」
余裕面がムカついたので膝蹴りを入れると、「ちょ、怒ってるなら口で言って下さい!」と笑いながら、鍛えた体幹で堪えて逆に抱き着いて来た。
早く帰って来いと正直に話すのも業腹で「足を踏むのは勘弁してやってんだろうが。」と抑えた声量で答える。
譲介は笑いながら「労って欲しくて来たのに。」と本音を漏らした。
早くうちに帰りたい、と甘えて来る男からは、嗅ぎ慣れないシャンプーの匂い。
クエイドには、ワーカホリックな人間には至れり尽くせりなことに、救急蘇生室の当直担当以外の職員や医師が使える仮眠室がある。
短い時間に一時の仮眠を取らせて、また深夜まで働かせるシステムが出来上がっていると言う訳だ。
暫く家を空けている働き蜂のような男からは、いつものアフターシェーブローションの香りもシャンプーの匂いもしない。蹴りのひとつも入れたくなるというものだ。
「おい、譲介。」
舌打ちをしたいような気分で、徹郎は恋人であり、正式なパートナーでもある男の名を呼んだ。
「……何ですか?」と拗ねた視線で徹郎を見上げて来る。
「今日帰れねえってんなら、明日でいい。コーヒー淹れに来い。」
ちったあサービスしてやるぜ、と鼻を摘まむと、年下の男は真っ赤になって「朝まで待つなんて無理です。」と言って、回した腕に力を込めた。

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