【原利土1819IF】頸と心18


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十八 侵入者



 囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
 上掛けの中で身を寄せ合いながら、二人はぱちりぱちりと弾ける火の粉の音を聞いていた。汗が引き、肌が冷え始めている。薪を足した方がいいとは分かっていたが動く気にはなれなかった。甘ったるい気持ちがずっと漂っていて、どうやって扱えばいいのか手に余る。
 穏やかな時間だった。言葉がなくても満たされていた。心臓の音が聞こえる。自分のものか、利吉のものか分からない。二つの鼓動が同じ速さで打っている。
「……夢を見た」
 利吉がぽつりと呟く。囁くような声だった。黒は目を閉じたまま、その声を寝物語のように聞いていた。
「雪の夜、凍えていた時に見た夢だ。……春の夢だった」 
 あの夜のことだろう。黒が必死で利吉を温めた夜。語りながら利吉の指が黒の髪を弄ぶ。ゆっくりと。何かを思い出すかのように。
「野遊山の夢だ。家族で行った、昔の」
 黒は目を開けた。利吉の顔は見えない。見えるのは火に照らされた利吉の身体の線と、その向こうの天井だけだった。熾火の僅かな明かりの中で、利吉の唇が密やかに動く。
「夢の中では……父が笑っていた。母もそうだった」
 利吉の声は、どこか遠かった。夢の中にまだ半分いるような声だった。ひどく静かな夜だと思うのは気持ちが凪いでいるからだろうか。暫しの沈黙の後に、利吉は続けた。
「父は──どこも怪我をしていなかった」
 そう言った利吉の声色に、黒の胸は少し痛んだ。利吉の父親の傷。利吉がずっと背負っている傷。幼い頃自分が人質になったせいで父親が負ったという傷。その傷を父親が負っていない夢を利吉は見たのだという。利吉は静かに続けた。
「……そこに、お前がいた」
 黒は息を呑んだ。
「私が?」
「ああ。父の向かいに座っていた。笑って、茶を飲んでいた」
 利吉の指が、黒の髪を弄る手を止めた。
「父が、忍術学園の話をしていた。生徒のこと、同僚の教師たちのこと。お前は頷いて、時々口を挟んでいた」
「……忍術学園のことに……?」
「ああ。どうもお前が、父の後輩として働いているみたいだった」
 黒は思わず顔を上げて利吉の顔を見た。火明かりに照らされた利吉の目が黒を見ている。穏やかな目だった。夢の余韻が残っている目だ。
「……なんだそれは」
 黒は呆れたような、笑うような声で言った。
「そんな、夢みたいな」
「夢だからな」
 利吉が笑った。小さく──静かに。
「夢だから、何でもありだ」
 黒も笑って、利吉の胸に頬を預けた。奇妙で、愉快な気分だった。忍術学園。聞いたことはある。忍を育てる学校だ。子供たちのための場所。忍の世界の中でも陽の当たる場所だ。抜け忍の自分には、縁のない場所。そこで自分が働いている夢。利吉の父の後輩として利吉の家族と一緒に野遊山に行く夢。馬鹿げているし、あり得ない。
 でも──と黒は思った。
 でも、いい夢だ。
「……いい夢だったか」
 黒は聞いた。聞かずにはいられなかった。利吉は迷いなく答えた。
「ああ。いい夢だった。目覚めたくなかったくらいだ」
 黒の胸が、じんと熱くなる。
 利吉は自分が家族の輪の中にいる夢を、いい夢だと言った。それは利吉が黒を家族だと思っているということではないか。少なくとも、それに似たものになってほしいと思っているということではないか。家族──それはどういうものだっただろうか。火に焼き尽くされる前の遠い記憶はただただ眩しく輝いて、うまく思い出せない。
「……そうだな」
 小さく答える声が、少し震える。
「いい夢だ」
 利吉の腕が、黒の背中を抱き締めた。強く温かい腕だ。それと似たものをどこで知ったのかも、もう思い出せない。
「いつか、現実にする」
 利吉が言った。
「父に会わせる。母に会わせる。お前を連れていって、一緒に春に野遊山をする」
 黒は何も言えなかった。喉が詰まって、言葉が出なかった。
「忍術学園は無理かもしれないが……まあ、それは追々考える」
 利吉の声は、どこか照れくさそうだった。夢の話をしているのに本気で計画しているような口ぶりだ。黒は笑った。
「……馬鹿だな。夢の話だろう」
「夢だから、何でもありだ」
「……馬鹿だな」
 同じ言葉しか出てこなかった。言葉端が少し滲んだのに、利吉は気がついただろうか。
 利吉の心臓の音が聞こえて、黒は目を閉じた。白い曼殊沙華が瞼の裏に浮かぶ。野原一面に咲く白い花。その花の中に自分と利吉がいる。利吉の父がいる。利吉の母がいる。
 まるで夢のような光景だった。
 でも──いつか。と、黒はそう思った。思ってしまった。利吉に当てられたせいだ。こいつが全部悪いと、利吉のせいにする。甘くて、心地が良い夜。どこか泣きたい夜。
 春は、まだ遠い。
 でも、必ず来る。


***


 朝の光が、薄く窓から差し込んでいた。
 黒は目を開けた。身体が重い。腰が痛い。腹の奥が妙な具合に気持ち悪い。起き上がろうとして思わず呻くと、静かな声がかかった。
「動くな。じっとしていろ」
 声の遠さに、黒は利吉が夜具の中にいないことに気づいた。いつの間にか起きていたらしい。囲炉裏の火を起こして湯を沸かしている。手つきは手慣れていて迷いがないが、無心さはどこか照れているようでもある。
「……水がほしい」
 黒が言うと、利吉はすぐに椀を持ってきた。雪を溶かした冷たい水が喉を通っていく。少しだけ気分が落ち着いた。
「腹は空いているか」
「……分からない。気持ちが悪い」
「粥を作る。少しでいいから食え」
 利吉は黒を再び寝かせ、上掛けを掛け直した。丁寧な手つきだった。昨夜あれほど激しく自分を貪ったのと同じ手とは思えないほど穏やかな手つきだ。黒は利吉の背中を見つめた。いつもの通りのまじめな顔で、囲炉裏の傍で粥の支度をしている。米を研ぎ、水を量り、鍋を火にかける。その一連の動作が妙に慣れている。男にしては珍しい。家事をしたことがあるのだろうか。
「……意外と甲斐性があるな」
 黒は言った。声が掠れている。喉を使いすぎたせいだ。昨夜、何度も名を呼んだ。利吉は振り返らなかった。けれども耳が僅かに赤い。黒はそれを見逃さなかった。
「……黙って寝ていろ」
「照れてるのか?」
「照れてない」
「嘘をつけ」
 黒は笑った。笑うと腹が痛んだが、構わなかった。笑えることが嬉しかった。利吉は黙って粥をかき混ぜている。その背中を見ながら、黒は昨夜のことを思い出していた。
 忍務で、閨事の経験はある。幼げで線のまるい自分の顔は、色忍務ではそこそこ役に立つことが多かった。標的に近づくため。情報を引き出すため。油断させるため。使えるものは使うのが忍だ。だから使った。
 何度も色を使ってきたが、そこに感情はなかった。最中にいつこの相手を殺すか、どうやってここから抜け出すか、そればかりを考えていた。偽りの声を出しながら、頭の中では逃走経路を描いていた。相手の首筋を見ながら、どこに刃を入れれば一番早いかを計算していた。身体は単なる道具に過ぎない。だから快楽など感じる必要もなかった。むしろ快楽は思考の妨げになって邪魔で、だから意識的に感じないようにしていた。
 だが──昨夜は違った。利吉の手が身体に触れた。それはこれまでと何もかもが違った。殺し方を考えなかった。逃げ方を考えなかった。頭が真っ白になって、何も考えられなかった。ただ利吉の熱を感じていた。利吉の息を聞いていた。利吉の名を呼んでいた。
 行為自体は久々だった。抜け忍になり追われるようになってからは誰かに触れることも触れられることもなかった。だから最初は身体が強張った。慣れた動きをしようとしてできなかった。出した声は偽りの声ではなかった。自分でも驚くほど、昨日上げた声は本当の声だった。堪えようとしても堪えられず、隠そうとしても隠せなかった。利吉に触れられるたびに身体の奥から何かが溢れ出した。それが一体何なのかが黒には理解できなかった。
 快楽──という言葉では足りない気がした。もっと深い、もっと根っこの部分にある何かだった。身体がただの器ではなく、自分自身のものになる感覚。利吉に抱かれている間、黒は初めて、自分に身体があってよかったと思った。
 身体が、利吉に触れている。身体があるから利吉を感じられる。利吉と繋がることができる。それが嬉しかった。
「……できたぞ」
 利吉の声で、黒は我に返った。
 利吉が湯気の立つ椀を持って傍に来る。米の甘い匂いがする。黒は身体を起こそうとして、また呻いた。腰が痛い。
「無理をするな」
 利吉は黒の背中に手を回して支えた。黒は少しずつ粥を啜った。温かかさが胃の中に染み込んでいく。
「……美味い」
「そうか」
「お前が作ると、何でも美味いな」
「世辞はいい」
「世辞じゃない」
 黒は利吉の顔を見上げた。利吉は相変わらず仏頂面だったが、その目はどこか柔らかい。黒を見る目が、昨日までとは違う。
 昨夜、全部を見せた。
 偽りの声ではない本当の声を聴かせて、硬い殻の奥にある柔らかい部分に触れさせて、利吉はそれを全部受け止めた。照れくさいのは、こちらも同じだ。黒は椀から口を離した。
「……利吉」
「何だ」
「粥が美味い」
 利吉の目が、僅かに見開かれた。それから、ふっと緩んだ。
「そうか」
 それだけ言って、利吉は黒の髪をそっと撫でた。犬猫を扱うのとは少し違う。それがまた照れくさくて、黒は目を閉じた。


***


 山は静かだった。
 雪はあの日から少しずつ溶け始めていたが、日陰にはまだ白いものが残っている。黒は獣道を辿りながら食べられる木の実や根を探していた。背には蔓で編んだ籠を背負っている。背負紐は集落から拾ってきた縄で黒が編んだ。籠は利吉が作ったものだ。
 利吉は狩りに出ている。初冬の山は急激に食料が乏しくなる。獣たちは脂を蓄えて動きが鈍くなるが数が減る。木の実は落ち尽くし、草は枯れる。今のうちに取れるものは取っておかなければ本格的な冬を越せない。
 黒は枯れ葉を踏みながら歩いた。乾いた音が静かな山に響く。息が白く上がり、指先が冷える。けれども身体の芯は、不思議と温かかった。
(それにしたって、猿じゃあるまいに)
 黒は心の中で苦笑する。初めて情を交わしてから数日が経っていた。その数日の間に、何度抱き合っただろう。少し距離が近づけば自然と手が伸びた。唇が触れて、そのまま上掛けの中に倒れ込んだ。そんなことを幾度も繰り返して、日に何度もという時もあった。
 朝、目が覚めて、利吉の顔を見た瞬間に欲しくなる。昼、狩りから戻ってきた利吉を見てまた欲しくなる。夜、囲炉裏の傍で肩を寄せ合っていたら、我慢できなくなる。
 どちらかというと欲しがるのは自分の方で、黒はそんな自分に呆れていた。あれほど身体は道具だと思って、あれほど情など要らないと思っていたのに、今は利吉に触れたくてたまらない。利吉に触れられたくてたまらない。
 呆れているが、止められるものでもない。第一止めたいわけでもない。黒は空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込めている。また雪が降るかもしれない。あの夜のような大雪ではないだろうが、山の天気は読めない。
(いつまで一緒にいられるだろう)
 その思考が、ふと胸をよぎった。
 黒は時を跳んだ。数年先の世界に落ちてきた。それがなぜ起きたのかは未だに分からない。それであれば同じことがまた起きるかもしれない。ある日突然、何の前触れもなく元の時代に引き戻されるかもしれない。利吉と共に眠っていたはずなのに、目を覚ましたら見知らぬ場所にいるかもしれない。二度と利吉に会えなくなるかもしれない。その不安が、黒の腕を伸ばさせていた。
 利吉に触れるたびに、確かめている。まだここにいる。まだ一緒にいる。そうして利吉の体温を感じるたびに安堵している。これは依存だ、と黒は思った。けれどももう、それでいいと思っていた。
 依存でも執着でも、何でもいい。名前などどうでもいい。利吉の傍にいられるなら。利吉に触れていられるなら。それだけでいい。
 黒は歩き出した。足元に椎の実が落ちていた。拾い上げ、籠に入れる。また一歩進んでは、また拾う。そうやって使えそうな草木を探した。食べられる根、薬になる葉、燃料になる枝。生き延びるために必要なものを、少しずつ集めて回る。
 その時ふと、足を止めた。見覚えのある木があった。すっかり葉は落ちていたが、紫陽花に似た花が枯れたものが細い枝先に揺れている。間違いない。
「|木楡《にべ》か」
 黒は独りごちた。木楡の木だ。|糊空木《のりうつぎ》とも呼ぶ。寺にいた頃、和紙を漉く手伝いをさせられたことがある。この木の樹皮の内側から取れる粘液は紙を漉くときの糊——ねりとして使う。黒の口元がにやりと上がった。
「……いいものを見つけた」
 黒は腰の小刀を抜き、樹皮を剥ぎ始めた。その時──ふと黒は振り返った。 誰かがいる。人の気配だ。
 黒は咄嗟に木の陰に身を隠し、息を殺した。こんな山奥に人がいるはずがない。人がいないからこそ自分たちはこのあたりに潜んでいるのだ。
 そっと覗き見ると、木楡の根元に老爺が立っていた。真っ白な髪だった。顔は皺だらけで、目元はほとんど見えない。深い皺の奥に目があるのかどうかすら分からない。杖をつき、腰に小さな籠を下げている。何かを採集しようとしているようだが、しかし、ただ者ではない。
 黒の忍としての勘が、そう告げていた。この老爺はただの山の住人ではない。何かが違う。空気が違う。纏っているものが違う。だが殺気はない。ただそこにいるという感じだ。木や岩と同じように、当たり前にそこにいる。
 黒がどうすべきかを迷っていると、老爺がこちらを向いた。見えていないはずの目が、黒を捉えたような気がした。
「おるのは分かっておるよ」
 皺がれた声だった。だが不思議と通る声だ。黒は身構えた。老爺には相変わらず敵意はない。
「隠れずとも良い。儂は何もせん」
 黒は観念して、木の陰から出た。警戒は解かないまま老爺との距離を保つ。老爺は黒を見て──見ているのかどうか分からないが──ゆっくりと頷いた。
「おぬし、ここの者ではないの」
 黒は息を呑んだ。
「……何のことだ」
「とぼけずともよい。風が違うからの」
 老爺は皺だらけの顔で笑った。
「この時の風ではない。どこから落ちて来たのかのう」
 黒の心臓が、一気に騒がしくなった。この老爺は、知っている。黒が時を跳んだことを。ここの者ではないことを。どこかから落ちてきたことを知っている。
「お前は……何者だ」
 黒は低く問うた。声が震えないように気を張った。老爺は飄々と答えた。
「儂は糊を取りに来ただけじゃよ。ここは木楡がたくさん生えておるじゃろう。文を書くのに、季節の葉を入れた紙を作ろうと思っての」
 黒は眉を寄せた。
 糊を取りに来た。だがそれが本当かどうか、分からない。この老爺は何かを隠している。何かを知っている。
「お前は、どこから来た」
 黒は問い直した。
「こんな山奥に、一人で。どこに住んでいる」
 老爺は答えなかった。ただ皺だらけの顔で黒を見つめていた。見えないはずの目が、黒を真っ直ぐに射抜く。
「──もし戻りたければ」
 老爺が言った。唐突に。脈絡なく。
「足掻くことじゃな」
 黒は息を細く吐いた。何だ──何の話をしている。戻る、とは。
「何の話だ」
「引っかかれば、うまくいく」
 老爺の言葉は、謎かけのようだった。意味が分からない。足掻く。引っかかる。何に。どうやって。
「待て。それはどういう──」
 その時、背後で音がした。枯れ枝を踏む音。小さな軽い音だ。黒は反射的に振り返った。何のことはない、鼬だった。茶色い毛並みの小さな鼬が、雪の上に立って黒を見ている。丸い目がきょとんとこちらを見つめている。黒は息を吐いた。警戒しすぎた。こんな小動物に反応するなど、らしくない。
 けれども再び振り返ると、老爺はどこにもいなかった。黒は目を見開いた。足跡を探した。老爺が立っていた場所を見た。老爺が立っていた場所には確かに足跡があった。けれどもその周囲には何もなかった。どちらへ行ったのかが全く分からない。足跡ひとつ残っていなかった。
 黒は暫くその場に立ち尽くしていた。
 風が吹いた。冬の冷たい風だ。木楡の枝が揺れ、雪が舞い落ちる。
 ──足掻くことじゃな。引っかかれば、うまくいく。
 老爺の言葉が、耳の奥で響いた。意味は分からない。分からないが、胸の奥に引っかかった。
 戻りたければ──と老爺は言った。
 戻る。元の時代に。元の世界に。
 黒は目を閉じた。戻りたいのだろうか。自分は。
 ここには利吉がいる。利吉との約束がある。春になったら、氷ノ山の利吉の家に行く。両親に会う。本を読む。一緒に。そう約束した。
(戻りたくない)
 ここにいたい。利吉の傍にいたい。それが黒の正直な気持ちだった。けれども同時に、先程の言葉が胸に刺さっていた。
 足掻けば、戻れる。
 引っかかれば、うまくいく。
 戻る可能性があるということが、黒の心を揺らしていた。


***


 利吉は最近、どことなくきな臭い空気を感じ取っていた。
 山を下り、里に降りて雇い主に情報を渡す。それが利吉の仕事だった。雇い主との接触は月に数度。決められた場所で、決められた手順で、情報と報酬を交換する。それだけの関係だ。深入りはしない。
 だが今回は、少し様子が違った。
 雇い主──正確には雇い主の下で働く男──は、いつもよりも口数が多かった。報酬を渡しながら、世間話のような口ぶりで言う。
「最近、どうも鼠が紛れ込んでいるようでな」
 利吉は表情を変えなかった。相槌も打たなかった。ただ黙って聞いていた。余計なことを言わない。余計なことを聞かない。それが鉄則だ。男は関係ないとでもいうふうに続けた。
「二人組だ。今うちの忍者隊が追っている」
 ──二人組。
 鼠と聞いた時には、一瞬、黒のことかと思った。黒の存在に感づかれたのだろうかと。だが二人と言うのであれば違う。ではその二人組とは何だ。
 利吉の中で、引っかかっていることがあった。黒の追手が、まだ残っているはずだ。
 黒が逃げてきた時、目に見えて追っていた忍は二人だった。その二人は利吉が始末した。黒はもう二人始末したと言った。けれども黒の話からするとあと二人が残っている。逃走ルートを塞ぐ役をしていたという二人はまだ生きているはずだ。もしかしてその二人は、まだ黒を追っているのではないか。黒を探してこの辺りをうろついているのではないか。それが「二人組の鼠」として、雇い主の国に捕捉されたのではないか。
「……どのような者たちですか」
 利吉は慎重に聞いた。興味を示しすぎないように。だが無関心すぎないように。雇い主側の男は苦々しげに言った。
「詳しくは分からん。だが手練れのようだ。うちの忍者隊が何度か接触したが逃げられている。もし見かけたら、報告しろ。報酬は弾む」
「承知しました」
 利吉は報酬を受け取り、男に頭を下げてその場を離れた。足取りは普段通りだ。急いでいる様子は見せない。見せれば怪しまれる。だが心の中は、穏やかではなかった。

 山道を戻りながら、利吉は考えていた。
 二人組の間者。手練れ。何度も逃げている。
 黒の追手である可能性は高い。黒を追ってこの地域まで来たのかもしれない。黒を見つけられず、うろついているうちに、雇い主の国の忍者隊に見つかった。
 もしかしたら考えすぎかもしれない。この辺りにはいくつもの国がある。いくつもの勢力がある。間者が紛れ込むことなど珍しくない。何も関係がない二人組の鼠がたまたまこの辺りに現れた。それだけのことかもしれない。
 だが、もしそうではなかったら。
 もし、その二人組が黒を追っている者たちだったら、利吉が黒と一緒にいることもいずれ知られるかもしれない。そうなったら──どうなる。
 更にそこから、雇い主に知られたら。黒が敵国の抜け忍だと知られたら、利吉は裏切り者として処分されるかもしれない。最悪父や母にも迷惑がかかるかもしれない。利吉は唇を噛んだ。だが──と思った。
 だから何だ。黒を手放すつもりはない。黒を差し出すつもりもない。たとえ追手が来ても、雇い主に知られても、自分は黒を守る。それはもう決めたことだ。
 利吉は山道を駆け上がった。雪を蹴散らし、枝を払い、息を切らせながら走った。早く帰りたかった。早く黒の顔が見たかった。あの飄々とした顔を。あの時折見せる脆い顔を。

 家の窓からは囲炉裏の煙が立ち上がっていた。黒が火を焚いている。黒がいる。無事でいる。利吉は戸を開けた。黒は囲炉裏の傍で何かを煮ていた。独特の匂いが部屋に漂っている。利吉の足音に気づいて顔を上げた黒に、利吉の胸の奥が少しだけ緩む。
「……どうした。何かあったのか」
 黒が眉を寄せた。利吉の様子がいつもと違うことに気づいたのだろう。利吉は荷を下ろし、囲炉裏の傍に座った。いつもより少しだけ黒の近くに座る。黒は怪訝そうな顔をしたが、何も言わなかった。
「話がある」
 利吉は言った。回りくどいことは苦手だった。黒の手が止まる。鍋をかき混ぜていた棒を置き、利吉の顔を見た。既に何かを察しているような眼だった。
「鼠が入り込んでるらしい。今日、里で聞いた」
 利吉は淡々と話した。二人組の鼠が紛れ込んでいること。忍者隊が追っていること。詳細は分からないが、この国をうろついているらしいこと。そのすべてを黒は黙って聞いていた。表情は変わらなかったが、その肩が僅かに強張ったのが利吉には分かった。
「お前の追手かもしれない」
 言わずにいることもできたが、利吉ははっきりと言葉にした。どのみち困難が起こる可能性はある。知らないまま巻き込まれるより知った上で備える方がいい。黒も同じ考えだろう。黒は薪を一つ持ち上げて、囲炉裏に足した。
「……そうかもしれないな」
 黒は静かに言った。否定しなかった。動揺も見せなかった。ただ事実として受け止めている、という声だった。
「お前は、追手は全部で六人いたと言っていたな」
「ああ。二人は落ちる前に仕留めた。その後お前が二人仕留めた。残りは二人だ」
 二人。やはり黒の追手かもしれない。黙り込んだ利吉に、黒は笑った。
「何を不安がってるんだ。お前らしくもない」
「……お前のいた忍者隊は、手練れが多いと聞いている。実際、この国の忍者隊の連中ももう何度も取り逃がしている」
「一緒にいると言っただろう。春になったら、お前の家に行く。お前の家族に会う。本を読む。一緒に花を見る。それは変わらん」
「……そうだな」
 利吉は頷いた。黒はまた笑った。けれども黒の瞳がほんの僅かだけ揺れていることに利吉は気付いてしまった。笑っているのに、その奥で何かが翳っている。利吉にはその理由が分からなかった。
 追手のことが気がかりなのか。逃げることを考えているのか。それとも別の何かなのか。聞きたかったが、聞けなかった。聞けばその翳りが形を持ってしまう気がした。形を持ってしまえば、消せなくなる気がしていた。
 黒は囲炉裏の火を見つめていた。
 その目は、どこか遠くを見ていた。ここではない、どこか別の場所を見ているようだった。
『一緒にいる』
 そう利吉に言った。けれどもその瞳の奥で、黒は別のことを考えていた。あの老爺の言葉を。足掻けば戻れる。引っかかればうまくいく。意味の分からない言葉。だが胸に刺さったまま消えない言葉。
 一緒にいる──本当にそうだろうか。それはいつまで。
 黒は利吉に寄りかかった。肩を預け、目を閉じた。隠し切れているか分からなかった。利吉は聡い男だ。自分の揺れに気づいているかもしれない。気づいていて、聞かないでいるのかもしれない。
 囲炉裏の火が、静かに燃えていた。二人の影が、壁に重なって揺れていた。

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