死なない光は柔らかい
仕事を終えて帰ると家が明るかった。ワンルームの真ん中に、青い火が燃えながらぷかぷか浮いていた。鬼火というのか、狐火というのか、不思議な炎が燃えている。最初は火事かと思い、次に誰か侵入したのかと思って体が強張ったが、どちらでもなかった。アサカは靴を脱いで近づいた。火は熱くなく、火の粉も飛ばなかった。中心には何もなく、向こう側が透けて見える。どこから入ってきたのだろう。カーテンをそっと開けると換気用の小さな窓が開いている。カーテンの動きに反応したように、狐火はゆらゆら動いて窓に近づき、換気小窓から外へ出る。上下の幅は明らかに狐火の方が大きかったが、そういう生き物であるかのようにするっと出ていった。窓には焦げ跡もついていない。ここから入ったのか、それとも自然に発生したのか。どちらにせよ、カーテンが燃えたりしなくてよかった。アサカは玄関に戻り、スニーカーを履いて、仕事用のカバンを掴んでお弁当箱だけ出して家を出る。
アパートの玄関に戻る。狐火はすぐに見つかった。四階にあるアサカの家の窓から出て、すぐに降りてきたようだった。部屋の中にいたのと同じように、ゆらゆら動きながらも、どこかへ向かって進んでいる。夜風が強く、炎は斜めになって揺れていたが、吹き飛ばされたり消えたりはしなかった。アサカは狐火を追いかける。動きはそれほど早くないので、ただ歩いていると近づき過ぎてしまう。炎は外で見るといっそう明るく見えた。手のひらを見ると、狐火の光でうっすらと青くなっている。仕事用のシャツも青い。たぶん顔も青いとアサカは思う。すーっと胸から肩にかけて冷たい空気が触れる。青い光はアサカを子供時代に連れ戻す。
小学二年生だった。家の玄関を開けてただいまを言う。家はおばあちゃんの代に建てたもので、玄関のドアは古い引き戸だった。お母さんが奥からすぐに出てきて、おかえり、と優しく言う。お母さんは玄関に置いたランプをつけて、青い光をアサカとお姉ちゃんに当てる。ランプは卓上スタンドみたいなやつで、首をつかんで無理やり持っている。青い光を上から下まで当てられて、玄関で上着と靴下を脱いで、お母さんが持ってきた服に着替えてようやく家に入れる。「手ぇ洗いなさいね」とお母さんが言ってランプを消す。手を洗って台所に行くと、おやつが用意されている。
学校へ上がってからアサカは一人で家に帰らなかった。お姉ちゃんは六年生だったから学校が終わるのは遅かったが、図書室で勉強したり本を読んだり、時々うとうとしたりしながらお姉ちゃんを待っていた。家に一人で帰りたくなかった。幼くても小学生だ。それくらいの年になれば、どうやら自分のうちは他とかなり違うらしいと気づいた。
「うちって変なん?」
小学校に上がってすぐくらいの時にお姉ちゃんに聞いた。「そうやで」とお姉ちゃんは答えた。他の家では誰もそんなことはしていなかった。うすうす気づいてはいたが、やっぱりという感じだった。それなのにすーっと足元が抜けていくような感じがした。
「お母さん、あれやったら私らが死なんで済むと思ってんねん。まあ気ぃ済むまでやらしたり」
お姉ちゃんは冷めたことを言っていた。だがお姉ちゃんの方も、そういうことを言わないと、お母さんの青い光を受け入れられなかったのだろうと、今のアサカは理解している。
大学に通うために家を出たとき、多分これでお母さんとは家ごと縁が切れるのかもしれないという予感がした。誤算だったのは、お姉ちゃんとも疎遠になったことだった。お姉ちゃんはアサカよりも早く大学に入学していたけれど、地元を離れなかった。ひょっとしたらそれは自分のせいなのかもしれなかった。お姉ちゃんが就活で地元の企業を回っているとき、妹であるアサカは県外の大学を受験した。合格して引っ越した後、何度かお姉ちゃんが遊びにきて、その時にお母さんには言っていない連絡先も教えてもらった。何度か使ったことはあるが、だんだん返信が二回に一回とか、三回に一回になって、アサカの方もあまり連絡をしなくなった。家の外、完全な外に出るのが初めてで浮かれていた。「私の家」に友達を呼べる。賃貸のワンルームだったけれど、それは「私の家」だった。アサカはだんだんと家に寄り付かなくなった。そしてお姉ちゃんを忘れた。お姉ちゃんは実家の一部だった。たぶんお姉ちゃんにとってのアサカもそうだった。
「こんばんはあ」
とすれ違った人が言う。ワンピースのおばあさんだった。アサカもこんばんは、と返す。青い炎は少し前を揺れながら進んでいく。おばあさんは、炎に驚いている様子もない。振り返ると、しゃんとした背中が遠ざかっていく。
「駅はまっすぐであってますよ」
おばあさんが振り向いて言った。ありがとうございます、と会釈をして狐火の方を向く。そう遠くへは行っていなかった。アサカは狐火を追い越して、そのまままっすぐ進んだ。ほどなくして駅が見えてきた。
駅には改札がなく、駅員もいなかった。ホームは一つしかなく、上り下りの区別もない。看板は擦り切れていて、駅名が読めなかった。ベンチに座って待っていると、狐火が追いついた。さっき家で見たよりも近かったが、熱くなかった。燃えなくて熱くもない火は、安全な火だ。死ななくすることはできないにしても。
ひび割れたチャイムの音がした。と思うと、まるで狐火に呼ばれたように電車がホームに滑り込んでくる。実際、狐火は線路の上で誘導するような動きをしている。扉が開いて、乗客が一人降りる。アサカはその人と入れ違いに乗り込んだ。
「これ、どこに行くんですか?」
電車は一両で、客はアサカしかいなかった。先頭には運転士がいた。運転士は、「戻りですよ」と言った。
「車庫に戻るんですか?」
「……? いいえ。過去ですよ」
戻るといったらそれしかないだろう、という顔をして、運転士は答えた。過去? と聞き返す前に発車のベルが鳴った。どうしますか、と運転士が尋ねる。アサカは近くの席にすとんと腰を下ろした。扉が閉まり、発車した。
狐に化かされているんじゃないだろうか。
発車してから今更のように思う。運転士は狐っぽくないが、狐が化けたからと言ってきつね顔になるわけでもないだろう。あの青い火は、アサカが勝手に狐火と呼んでいるだけで、その通りだという保証もない。そもそもここはどこなんだろう。明日も仕事なのに、帰れるんだろうか。仕事用のカバンで出てきたから、社員証も財布も定期も全部入っている。最悪、明日の朝帰れれば出社できる。こんな状況になってまで出勤のことを考えるのに笑ってしまう。でも欠勤になって、事情を説明するのは想像するだけで気が重い。こんな状況、信じてもらえるわけがない。とっさに乗ってしまったが、「戻り」の電車にいることでアサカの今は過去に結びついてしまった。それが何より、気が重い。
アサカは自分のことを話すのが苦手だった。「私」のことを少しでも深く話そうとすると、すぐにお母さんのことになる。お母さんがああなったのは、おじいちゃんとお父さんが続けて死んだせいだ。二人とも大腸ガンだった。おじいちゃんはアサカが生まれる前に亡くなった。お父さんは体が悪くなったと思ったらあっという間にお葬式になった。アサカは小さくてよく分からなかった。少なくともお母さんはそう言った。まだ小さかったもんねえ。よく分かってへんかったもんねえ、あんた……。お母さんはそう言ってアサカを気の毒そうに、愛おしそうに撫でた。六つは小さいのかどうかわらかないけれど、棺桶の中に寝ているお父さんを覗いたとき、中のドライアイスのせいで冷たくなった空気がアサカの胸から肩をすーっと撫でて、その冷たさをアサカは今も忘れられない。
お母さんが青い光に頼るようになったのは、お父さんのお葬式からだ。お母さんは一人になるのを怖がった。同じくらいの時期に、小学校に不審者が侵入して、たくさん小学生が殺される事件が起きた。それがお母さんに決定的な消えない恐れを刻みつけてしまったのだと、今のアサカは思っている。でも本当のところは分からない。お母さん本人も分からないかもしれない。おばあちゃんの代に建てたという一軒家には、おばあちゃんのものも、おじいちゃんのものも、お父さんのものもほとんどそのまま残されていて、お母さんはそれを季節ごとに虫干★し★し、整理した。アサカとお姉ちゃんもそれを手伝った。
恋人がいたこともあったが、アサカは自分の家のことや、それについて自分がどう思っているかをうまく伝えられなかった。その人は、アサカの家の「複雑な事情」に重さを感じて、あなたのような難しい子と付き合うのがしんどくなった、と言って離れていった。難しくない。こんなに単純な人間なのに、とアサカは思う。家のことが嫌になって、進学をいい機会だと逃げたばかものだ。
「アサカさん、お休みどう過ごされます? 帰省されたりするんですか?」
職場でしばしばあるこういう雑談は、最初は答えるのが苦痛だった。今は「あー、まあ」と「今年はもういいかなって思ってます」を交互に答えるようにしている。単なる雑談だから、あまり突っ込んだ話にはならない。話が広がりそうな時は、転職前の職場の同僚から話を借りた。おしゃべりな人で、仕事の合間に何でも話す。自分の話をしなくていいから楽だった。その人はアサカと同じ近畿圏の出身だった。アサカのお母さんとは違う自治体に住む、その人の母親、父親の話を借りた。青い光のことを外してお母さんのことを話すことはできなかったし、お父さんのことをお母さんから切り離して話すのもできなかった。お姉ちゃんのことだけ本当の話だった。
ブレーキの音がして電車が止まる。座席が少し沈む。ぷしゅう、と電車の扉が開いて、人が乗ってくる。ああ、そうか。さっき降りていった人もいるのだから、当然乗ってくる人もいる。ごく普通のサラリーマンのように見えた。年はよくわからない。その人は乗ってすぐに腕を組んで目を閉じた。
窓の外は暗く、中の明かりが反射するから外はよく見えない。暗い車窓を見ていると、修学旅行のことを思い出した。アサカの行っていた高校では、当時の公立高校としてはめずらしく修学旅行で海外へ行った。アサカの年は上海だった。旅行中は、海外に行くよりも、帰るたびに青い光を浴びなくていいのにはしゃいだ。「アサカさん、そんなテンション高い人やったっけ」とクラスメートに言われた。「海外、初めてやねん」「私も〜」と言いながら、何をしたのかもあまり覚えていないけれど楽しかった。帰りの飛行機が遅延して、日本に着いたのは夜になった。空港に迎えにきたお母さんを見たとき、いつ「無事でよかった」「死なないでよかった」とかいい出さないかひやひやしたが、お母さんは「おかえり」とだけ言った。口調も表情もあっさりしたものだった。周りの子の方が、熱烈に心配されているくらいだった。お母さんと二人で、空港のバーガーショップで食事をした。お母さんはアサカの荷物を代わりに持って、一緒に最終電車に乗って帰った。
ぴんぽーん、と音が鳴った。車内のあちこちに小さなランプが付いていて、狐火と同じ青い色に光っている。アサカの座る席のそばにもランプがあって、「次、止まります」と書かれている。これを押さないと降りられないのか。
電車が止まる。アサカが乗ってきたのとよく似た小さな駅だった。さっき乗ってきた人が降りる。駅には改札がなく、さっきの人は切符も出さずにそのまま駅を出た。発車のベルが誰もいないホームに響く。扉が閉まり、電車が発車する。
自分はどれくらい乗っていて、今どこにいるんだろう。あるいは、いつにいるんだろう。運転士に尋ねればわかるだろうけれど、アサカは決めかねていた。どこまで戻ればいいのか分からなかったし、自分がどこに戻りたいのかもよく分からなかった。恋人と別れる前なのか、大学時代なのか、家を出る前なのか、お父さんが死んでお母さんが青いランプを持ち出すまでなのか……お父さんが死ぬ前なのか。大学では、履修の仕組みがわからず必修科目を一つ取り忘れ、一年留年することになった。それも心残りといえば心残りだ。
そもそも戻って何をすればいいのだろう。暗いガラスに映るアサカは、ずっとそのままで若返っているわけではない。どこかに着いて、降りて……そしてどうすればいいんだろう? どこに着くのかな? さっきの人に尋ねればよかった。
アサカが迷っている間に、電車は進み、いくつもの駅に止まる。人が乗って、また降りる。乗ってくる人は、アサカが普段乗っている電車やバスと同じでまちまちだった。若い人もいたし、歳をとっている人もいた。一人だけの人が多かったが、二人連れで乗ってくる人も一組だけいた。制服の子供。買い物で膨らんだエコバッグを持った人。ひどくくたびれた上下の人。メガネをかけた人。帽子をかぶった人。音楽を聴いている人。歌いながら乗ってきて、ずっと歌っている人。杖をついている人。腕を怪我したのか三角巾で吊っている人。スーツケースを引いている人。何も持っていない人。スカーフを頭に巻いている人。鼻をしきりにかんでいる人。赤い服の人。着物の人。楽器ケースを持った人。車椅子の人。長靴を履いている人。傘を畳みながら入ってきた人。派手な羽の鳥。オスの鹿。リクルートスーツの人。結婚式帰りっぽいドレスの人。マスクをしている人。大きなカゴみたいなものを持っていると思ったら、中からにゃーという声が聞こえてきた人。封筒か何かを握りしめている人。ノートに何かを書いている人。たぶん今から帰る人。今から仕事に行くだろう人。結構長く乗っている人もいたし、すぐに降りてしまう人もいた。降りるたびに青いランプが灯る。青いランプを見て、あ、あれを押すのかという顔をしている人もいる。アサカと同じだ。
いまどこ(いつ)なのか、運転士さんに尋ねてみよう、とアサカが立ったところで、またブレーキの音がした。アサカはとっさにドアのそばの手すりにつかまる。
電車が止まる。ぷしゅう、と音がして扉が開く前に、アサカはあっと言いそうになった。
お母さん?
開いた扉の向こうにいたのは、お母さんだった。たぶん。自信がない。いや、ひょっとしたら似ているだけの人かもしれない。大学に入学して以来ほとんど会っていない。就職してからは没交渉だ。こんな顔やったかなあと内心首を傾げ、親の顔すら忘れるものだなと変なところで関心する。やっぱり違うかもしれない。半袖の白いブラウスに紺のロングスカートという服装は、何だかひと昔前の服装という感じだし、何よりお母さんにしては若すぎる……
「あ」
へんな声を出したせいで、その人はアサカを怪訝そうな顔で見たけれど、アサカのことには気づいていなかった。彼女は電車には乗らず、運転席の横に回って、「これはどこ行くの?」と尋ねた。アサカと同じ、関西弁のアクセントだった。
「戻りですよ」運転士がアサカにしたのと同じ答えを言う。
「車庫に戻るん?」アサカと同じことを尋ねる。
「いえ、過去です。過去に戻ります」運転士さんは、少し苛立ったように言った。「乗りますか?」
その人は電車の中を見た。布張りの座席、木目調の手すり、赤みがかった色の電灯、ブラインドの降りた窓、開いた窓、次止まりますのボタン、乗客のアサカ。
「やめときます」
と言って止める間もなく踵を返し、ホームの椅子に座る。発車のベルが鳴り、扉が閉まり、電車が動き出す。椅子に座っているお母さんが遠ざかる。お母さんは顔をこちらに向けていて、電車を目で追っているのがわかった。すぐに見えなくなってしまったけれど、やっぱりお母さんだ。若い頃のお母さん。まだ、お父さんが死ぬ前の。
アサカたちが子供の頃、家には色んな大人が来た。叔母や伯父、祖父母の兄弟たち、年上の従兄弟、お母さんやお父さんの知り合いの人、会社の人たち。お父さんが死んで、お母さんが青いランプを持つようになって、残された子供たちを心配した大人が、一人とか二人ずつとかで様子を見にやってくる。お母さんは、青いランプのこと以外は家のことをちゃんとしていた。アサカが小学校三年生に上がる前に、仕事を見つけて働きに出ていたが、それはお母さんの気持ちを紛らわさなかった。休日もお母さんはあまり出かけず、なるべく家にいるようにしていたし、家にいるときは帰ってきたアサカたちに着替えを用意して、青いランプで照らした。お母さんがおらんでもちゃんとできるよね、とお母さんに問われてアサカたちは頷いた。大丈夫? という大人の問いかけにも、アサカたちは頷くしかなかった。困ったことはない? という問いかけに、アサカたちは頷けなかった。たぶん頷いたら、お母さんと引き離されると思った。
お母さんは、アサカたちが自分の言いつけを守らず、自分がいない間に青いランプを浴びていなかったのを知ると、怒り、ひどく悲しんだ。引き裂かれるような声でお母さんは泣いた。アサカとお姉ちゃんは、その日から誰も見ていなくても、帰ってきたら青いランプを浴びた。ばかみだいだと思った。青い光を浴びるたびにうんざりした。だけどやめられずに、真面目な顔をして死なないための光を浴び続けた。そうして、たぶん一番ひどいやり方で、お母さんから自分を切り離した。
電車は走る。暗い夜だった。窓の外を透かすと、家並みが見える。今まで何度ももし、と思った。たぶん誰でも一度は思う。もし、過去に戻れたら。今あるのとは違う過去が選択できるなら……。
アサカは窓を見つめた。窓に映るアサカも見つめ返した。アサカを透かして窓の外、夜の町の輪郭が流れていくのがおぼろげに見える。電車はアサカを乗せて、どんどんアサカの時間を遡っていく。
でも、このまま乗り続けて、恐竜の時代に行ったって別にいいんだ。
アサカは運転士さんに尋ねた。
「これ、戻れますか。戻れますかっていうのは、乗ってきた駅にってことなんですけど」
「できますけど、もうそっち向きの電車は出ていないので、線路沿いに歩いてもらうことになりますけど」
「いいです、歩きます」
「結構遠いですよ」
「大丈夫です。歩ける靴なんで」
「それならボタンを押して、次の駅で降りてください」
アサカはボタンを押した。青いランプがついた。次の停車駅で降りて、線路に降りる。振り向くと電車の青い光が遠ざかっていった。
*
「それで、どうなったん?」
とお姉ちゃんが尋ねた。
「信じるん?」
「うん。私も見たもん、その人魂みたいなやつ」
アサカがお姉ちゃんと直接会うのは、たぶん六年ぶりくらいだった。お姉ちゃんは突然連絡をよこしたと思うと、「部屋を借りたいから保証人になってほしい」と言ってきたので、ともかくも一度会おうと半分強引に呼び出した。アサカの家で会うか、外で会うか迷ったけれど、結局アサカの家から数駅の、チェーンの喫茶店で会うことにした。
「帰れたよ。見たらわかるやろ。しばらく歩いたら行き止まりになって、元来たホームにおったわ。結構歩いたと思うねん、着いたら明け方やったから。でも電車にはもっと乗っとったと思うねんな」
「へえ」
お姉ちゃんは大して興味もなさそうに頷き、カフェオレを一口すすった。きっと信じてもらえないだろう、妄想扱いされるだろうと思っていたのでアサカは拍子抜けした。ホームは乗った時よりも小さく、ぼろぼろに見えた。外に出ると、使われていない路面電車の廃線跡だと知った。
「てかお姉ちゃんも見たんや。あの火の玉」
「見た。あんたみたいに追いかけへんかったけど」
「なんで?」
「青嫌いやねん」
青色のスマホを持っているくせに、お姉ちゃんはそんなことを言う。
「まあ、お母さんそれなりに元気でやってるみたいやし、あんま気にしなや」
「なんで知ってんの?」
「おばちゃんが教えてくれてる」
「私、知らんで」
「私が連絡せんでええ言うた」
なんで、と言う前にお姉ちゃんは「でももう大丈夫かな。私も年取ったし、大丈夫なんやったらおばちゃんにそう言うて」と言った。
「おばちゃんの連絡先同じやんな?」
「何あんた、そんな連絡とってへんの?」
「わからん、たぶん。年末年始の挨拶は時々」
「時々って何やねん。ずっと変わってへんよ。連絡したり。喜ぶで」
お姉ちゃんは結構変わった。なんというか、険しくなった。性格がキツそうとかではなく、自然に自分の体をさらして、今の形に削り出された、という感じだ。それはお姉ちゃんから聞いた近況が影響しているのかもしれなかった。地元の企業に就職したお姉ちゃんは、実家で暮らしながら数年勤めて、お金を貯めて会社を辞めた。それから旅行に出かけた。最初はパックツアーで、だんだんと自分で旅程を組んで一人旅をするようになった。お金がなくなれば帰国して、実家に帰り、また仕事をしてお金を貯めて旅行に出る。有名スポットに順々に行っていたのが「ネタ切れ」してきて、山奥とかすごく寒いとかすごく暑いとか、だんだん厳しい環境の方に行くようになった。もっと色々な場所に行くために、お姉ちゃんはクライミングを習い、ダイビングの資格を取得した。そんな生活を続けていたのだが、一年ほど前にもういい加減身を落ち着けなさいとお母さんに追い出されたらしい。
「お母さんて……」
「あるある、まだやるよ、あの死なへんランプ。でももう何か、何やろな、儀式っていうか、ほんまただいまの挨拶みたいなもんって感じやな。あれ壊れたらもうやらへんのちゃうかな」
そうやったらええねんけどな、とお姉ちゃんは小さく付け加えた。アサカは頷いた。
私はまだ死んでいない。だけど不老不死ではない。アサカは思う。大病はしていないけれど、完全に健康というわけではないし、就職してすぐの頃に骨折したときは治癒に人並みの時間がかかった。そしてたぶん、本当はたぶんじゃなくて絶対いつかは死ぬ。お母さんの望み通りにはならなかった。お母さんの青い光を浴びている間からずっと、私たちはずっといつでもそうだった。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「もしまた青い火を見たら、お姉ちゃんは追いかける?」
お姉ちゃんはアサカをじっと見て、目を伏せ、静かに首を横に振った。「追いかけへんよ」と呟くように言ってカフェオレカップを両手に包み込むように持つ。アサカはお姉ちゃんの指がカフェオレカップの縁をなぞるのを見つめている。
「ええもん見せたろ」
とお姉ちゃんは調子を変えるように明るく言い、伏せていたスマホをひっくり返した。写真アプリを開き、動画をタップする。
動画には海が映っている。寒そうな黒い海だった。船の上から撮影したらしく、水平線はまっすぐなのに上下動している。波は波でうねうね動いているのが気持ち悪い。
「酔いそうなんやけど」
「もうちょい待ち。あっ、来た」
黒い海の底から、すうっと何かが浮かび上がってきた。つるりとした体表に、ぼこっと穴が空いている。お姉ちゃんが何か喋る合間に、興奮したような外国語の叫びが聞こえる。
船の側に泳いでいるのはクジラだった。「クジラとしては小さいねんけど」とお姉ちゃんは言う。クジラは海面でくるりと横に一回転した。それから沈んで、また浮き上がる。クジラの体のあるところだけ、海は澄んだ青色になる。クジラの尾びれは海の中に消えている。黒じゃないんだ、とアサカは思う。どこまでも深い、深い青色だ。澄んだ水が幾層にも重なってそんな色に見えている。ここに落ちたらきっと死んじゃうな、とアサカは思った。怖くもあったが、事実だという気もした。
「すごいな、これ」
「せやろ」
「何か、死にそう」
死んじゃいそうな綺麗な青だ。
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