呪いは茜色

 天城燐音が姿を消した。

 ESの夏の大一番『MDM』は、大盛況のうちに幕を閉じた。『Crazy:B』も登壇した。目が眩むほどのスポットライトと割れんばかりの歓声。揺蕩う光の海。この上なく幸福な時間だった。HiMERUにとって、アイドルとして生きることが、ファンの想いに応えることが何よりの悦びなのだから。
 幸いにして『問題児・Crazy:B』が首を切られることはなかった。お上の計略のもと結成させられた寄せ集めのメンバーだったが、成り行きであっても愛着は湧くものらしい。過程はどうであれ、解雇の危機をともに乗り越えたのだ。絆の萌芽のようなものは芽生えつつあった。これからもこの四人で活動していくのだと、当たり前のように夢想していた。その程度には、HiMERUも浮かれていた。

 その矢先の出来事だった。
「HiMERUくん。燐音くん、見てないっすか?」
「天城を? 見ていませんが」
 『MDM』を終えたばかりの今、ユニットのスケジュールは当分空白だ。この日は自主トレのためにESビルに足を運んだHiMERUだったが、レッスンに呼び出してもすっぽかすことすらあったニキがわざわざ自分の居場所を突き止めて訪ねてくるなど、少々意外だった。しかも話題はニキが日頃鬱陶しがっている燐音のことだ。ただ事でないことは明らかだった。
「どうしました、椎名? 珍しいですね、あなたが……」
「いないんすよ、どこにも」
「は?」
「燐音くんが! 見当たらないんす!」
 事のあらましはこうだ。ニキがアパートに帰宅すると、無造作に置かれていた燐音の着替えやら歯ブラシやらの私物が、綺麗さっぱりなくなっていた。嫌な予感がして旧館の部屋も見に行くと、思った通りそっちももぬけの殻。電話は繋がらない。まるで「天城燐音という人間ははじめから存在しなかった」とでも言うように、痕跡もにおいも残さず消えてしまった、と。 
 こはくも合流し三人で思い当たる場所を探し回った。副所長、弟にも尋ねた。何一つ情報は得られなかった。
 蒸発。不穏な二文字がHiMERUの脳裏を過った。
「ESから支給されているスマートフォンが繋がらないというなら、私用の端末はどうです?」
 苦し紛れの提案に、全員が言葉を詰まらせる。そんなもの知るわけがなかった。
 ――なんて無責任なリーダーだろう。
 『Crazy:B』の活動は軌道に乗っている。悪評を目にする機会はまだまだ多いが、応援してくれるファンもいる。ここからだという時に、あの男は。
「なんや……わしら、燐音はんのことなんも知らんかったんやね」
 こはくがやるせないといった風に零した。その日は、打つ手なしということで解散となった。



 HiMERUにとって燐音は、一介のビジネスパートナーだ。そう臆面なく言えたのはいつまでだったか。気まぐれを起こした燐音に度々抱かれるようになってから、単なる仕事仲間ではなくなってしまっていた。どうしたって情が湧く。今だって、燐音の眼差しが、においが、体温が思い出されてどうしようもなく身体が疼く。彼個人について知ることは何一つ許されていないというのに。――ああ、HiMERUは、『俺』は、もうとっくに、あの男に。
 静けさが耳に痛い夜だった。
 燐音が姿を消してから、一週間が経とうとしていた。個人で借用しているマンションの自室でHiMERUは、燻る熱を持て余していた。この熱の捌け口を知らなかった。寝るに寝られず、夜風に当たろうかとベランダに近づいた、その時だった。
 カーテンの向こうに人影。まさか、そんな、筈は。だが、確信めいたものがあった。カーテンを引き、その勢いのまま窓を開けてベランダに飛び出した。
「よォ。攫いに来たぜェ、お姫さん」
「……あま、ぎ……」
 今まさに思い描いていた人物の姿がそこにあった。月明かりを背に浴びて立っているためか表情は窺えない。HiMERUは夢でも見ているのかと目を瞬かせるが、そんな薄ぼんやりとしたものではないし、幽霊……でもないだろう。死んでまで自分の元に現れる理由がない。ただ、声が聞きたかった。
「夢じゃねェし、幽霊でもねーよ。ホラ、ちゃんと足もあるっしょ」
 重力を感じさせない軽やかさで、燐音は立っていたベランダの手摺から降り立った。その一連の動作を見届けてから、ようやくHiMERUは我に返る。
「ッ、あなた、ここ何階だと思って……っ!」
「んぁ、八階?」
「来るなら正面から来なさい、この馬鹿! 驚かされるこっちの身にもなってください!」
「だァってお宅のマンション、セキュリティ厳しいっしょ? こんな時間に俺っちみたいなのが堂々と彷徨けねェって」
「だからって! いくらあなたが人間離れした身体能力を持っているからって、危ないでしょう! イーサン・ハントにでもなったつもりですか⁉」
「意外〜。そういう俗っぽい映画も観るんだなァ、メルメル」
「話を逸らすな!」
 違う、そんなことが言いたいのではない。今まで何処にいたのかとか、どうして急にいなくなったのかとか、何故今戻ってきたのか、とか。「メルメルちょっと痩せた?」などと呑気にのたまうこの男に、聞かなければならないことが山程ある。
 どうして。どうして、『俺』に――
「――ったく、アイドルがする顔じゃねーっしょ」
「……どんな、顔、してるって……」
「俺っちにめちゃくちゃにされたいって顔、してるぜ?」
 もうとっくに、めちゃくちゃだ。あなたに会いたかったなんて。偶像にこんな感情は不要だと思っていた。この男が熱を灯したのだ、身を焦がしてやまない、地獄の業火を。
「好きに、してください」
「ぎゃはは、極上の誘い文句だねェ」



 HiMERUを抱く時、燐音は存外に静かだ。はじめこそ怖かったものの、彼の声音や愛撫する手付きからは本来の優しい心根を感じ、普段の高圧的な態度はなりを潜めてしまう。それもまた、HiMERUが燐音を理解できない理由のひとつだった。
「大丈夫か?」
「だい、じょ……んッ、ぶ、です」
「……、そ」
 久しぶりの行為では上手く息が継げない。気遣われるのは不本意だが、内側から与えられる刺激に眉を顰めてしまう。そんなHiMERUを見てか、不意に燐音がぶはっと吹き出した。
「ククッ、メルメルよォ、しんどい時はしんどいって言えた方がいいぜ? そっちの方が可愛げがあるってモンだ」
「んっあ……何を……っひ、」
「お、みィつけた」
 指先でHiMERUの弱い所を探り当てた燐音は、執拗にそこを擽る。意思に反して喉から飛び出る高い嬌声に羞恥を煽られながらも、HiMERUは感じ入ることを止められない。
「あっん、は……あまぎ、天城」
 縋るように伸ばした手は燐音に捉えられ、両の手首を束ねていとも容易く頭上で拘束される。空いている方の指先をHiMERUの唇に宛てがい、燐音は間近で囁きを落とす。
「燐音、だろォ? メルメル」
「っ、り、んね」
「ん、いいこ」
「ひっあ! ああ、やらっ、やああ」
 褒美だとばかりに指が動きを再開する。HiMERUは堪らず背を反らして快感を逃がそうとしたが、顎を捕えられ口付けられた。
 ――なんで。
 れろ、と口腔内に入り込む燐音の舌を受け入れながら、HiMERUはぼんやりと思考を巡らせた。これまで身体を重ねることは幾度かあっても、キスをしたことはなかった。何故だかそれは神聖な行為であるような気がして、汚れきった自分たちには似つかわしくないものだと、HiMERUにはそう思われたのだ。絡め取られる舌が熱い。吐息が、指先が触れたところからじわじわと火傷に侵されていくようだ。息苦しくなり瞼をゆるゆると上げると、こちらを見つめる燐音のターコイズブルーとかち合うこととなり、その瞳が愉快そうに細められるのを見届ける前に慌てて目を閉じた。行為の間否応なしに包まれることになる燐音の香りが、今日は脳を犯す毒のように濃厚に感じられる。けぶるような雄の香りと官能的な月下香に酔わされる。自分の輪郭が溶けてなくなる。癖になりそうだ。
 ようやく解放される頃には、HiMERUの理性はもうぐずぐずだった。器用に口付けを繰り返しながらも、燐音は中を弄る手を止めてはくれず、HiMERUは幾度か達していた。もう何度目かも覚えていない。それよりも初めて交わす口付けの心地好さに惚けていた。それ故に、ぽろぽろと零すように、包み隠していた想いを口にしてしまった。
「燐音、抱いて」
 燐音は、どんな表情をしていただろうか。
「きっとこれが、最後なんでしょう? だから、口付け、したんでしょう? あなたは『俺』の、俺達の世界からいなくなる。はじめからそのつもりだったんでしょう……?」
 未練がましくこの世界にしがみついている癖に。まだここで、歌って、踊って、笑って、生きていたい癖に。自分の首ひとつで誰もを救った気になって、勝手に満足して死のうとしている孤独な革命家。新陳代謝の活発なアイドル業界では、燐音のことなどすぐに忘れ去られる。後ろ暗いことは何もないような顔をして、偶像達は輝き続ける。まばゆい煌めきの一方で、その光が届かない場所は寒くて、寂しくて、息苦しい。よく知っている。
 だから、とHiMERUは思う。『俺』は忘れてやらない。刹那の輝きでも誰かの心に火を灯すことが出来たなら、忘れられていないなら、それはアイドルとしての終わりではない。俺が、あんたをアイドルでいさせてやる。
「忘れさせないで」
 息を飲む音が聞こえた、気がした。
「抱いてください、燐音」
 蕩けて零れ落ちそうな蜂蜜色が燐音を映す。その灯火はもう揺らがなかった。
「チッ……。こっからは、優しくしてやれねェぞ」
「構いません。ぜんぶ、あなたのものだ」
「――ッあああ〜もう‼ 後悔しても知らねェかんな!」
 後悔なんて、馬鹿なことを言う。あの日、あなたに賭けた時から、俺の運命はあなたと一蓮托生、同じ盤上だったじゃないか。地獄への道行き、今更降りる気など毛頭ない。ぜんぶあげる。だから、何もかも、奪ってくれ。



 腹の奥まで貫かれる感覚に目の奥が白黒する。暴力的なまでの快楽に意識を持っていかれる、保っていられない。
「こぉら、落ちるのはまだ早いっしょ……?」
「いぎっ⁉ ああ、だめ、だ、っめえ! ァ、あ、あ!」
 ぐるりと胎内を掻き回され、正気に引き戻される。燐音は軽々とHiMERUの身体をひっくり返すと四つん這いの体勢にさせ、再び深く穿ち始めた。同時に背中から手を伸ばされ乳首を苛められれば堪らない。
「アッ、や、それぇ、やですっ……りん、ねっ」
「ン〜? メルメルはちょっと痛いのが好きだもんなァ?」
「ひィ、あああ! んあ、は、ァんっ! んふ、んん〜ッ⁉」
 強めに抓られるのが気持ちいい。奥を抉られるのが、気持ちいい。もう呼吸もままならないのに、キスで唇を塞がれるとくらくらしてもっと気持ちがいい。燐音から与えられる快楽は麻薬のようにHiMERUの意識を蝕む。わけがわからないのに、もっと、もっとと求めてしまう。
 じゅう、とHiMERUの舌を強く吸って唇をべろりと舐めると、燐音が身体を起こそうとする。少しの間でも体温が離れるのを嫌い、HiMERUは燐音の首を引き寄せ唇に噛み付いた。もっと欲しい。
「ん、はは、そんなお強請り上手になれなんて言った覚えはねーんだけど?」
「ね、もっとほしい、りんね、くださいはやく」
「カワイーねェメルメルは。オニーサン手離したくなくなっちゃう♡」
 なら、手離さなければいいのに。いくらでも側にいてやるのに。などと。彼の重荷になりそうな言葉は音になる前に飲み込んだ。
 燐音が息を詰める。限界が近そうだが、かたやHiMERUはとっくに身体を支えることもできなくなっていた。エアコンの効いた室内で、それでも汗が浮いている。素肌に触れる空気は冷たいのに、お互いの触れ合ったところだけが異様に熱い。おかしくなりそうだ。
 燐音は一度動きを止めると、ゆっくりとした動作でHiMERUの身体を抱え、燐音の太腿の上に向かい合ったHiMERUが座る形に体勢を変えた。
「ほらよ、おまえの顔がよく見えるぜ」
「悪趣味……」
「ぎゃはは! 趣味は良いっしょ、メルメルは俺っちが隣に立つことを認めた別嬪さんだ、時代が時代なら国が傾くかもなァ」
「言外に自分の顔を褒めないでください、まったく調子が良いんですから」
「え〜? メルメルだって俺っちの顔好きっしょ?」
 眇めた瞳で見つめられHiMERUはぐっと言葉に詰まった。そうなのだ。悔しいが顔だけは本当にいいのだ、この男は。
「まァ冗談はさておき……だ。このままだと終わった瞬間に落ちちまいそうだしな、おまえ。先に言っとくわ」
「燐音……?」
 不意に声を潜めて真面目な顔で視線を合わせてくるのだから狡い。これでは目を逸らせない。諦めて聞けということか、とHiMERUは身体の力を抜いた。燐音はふう、と息を吐き出すと、誰かの幸せを言祝ぐまじないのように、手にした宝物を愛おしむかのように優しく、言葉を紡いだ。
「おまえを、愛してる」
「……、は、」
「愛してるよ。おまえは?」
 動揺で、上手く声が出せない。横っ面を殴られたかのような衝撃。そのあとに、HiMERUは唐突に理解した。
 これは、呪いだ――天城燐音が、死んでもなお未練がましくこの世と繋がっていられるための、HiMERUが死ぬまで解けない、呪いなのだ。
 理解して、そして、猛烈に泣きたくなった。
「ぎゃはは、なに泣いてんだよ、やりづれェな」
「っく……ばか、ばかりんね」
「俺っちが馬鹿ならてめェはなんだァ? ん〜?」
「うるさい、うるさい……! いつもいつも勝手なんですよ、あなたは!」
「……。んーん、もう大丈夫だ、おめェらは俺っちがいなくてもやれるよ」
「あなたが勝手に決めないでください!」
「口が減らねェなァ。キスで塞いでやろうか」
「この野郎……!」
 何が楽しいのか、燐音は先程からケラケラと笑っている。HiMERUの頬を伝う雫を指先で拭っては、大きな掌で髪を梳いてくれる。思えば背丈は三センチしか変わらないのに、掌も肩幅もHiMERUよりも随分と大きいのだ、燐音は。頬をするりと撫でていくその手のあたたかさにまた泣いてしまったHiMERUの眦に燐音は唇を落とす。
「で、返事は?」
「……堪え性のない男は嫌われますよ」
「おーこわい」
 わかっている。燐音には時間がない。行くべき場所があるのだと、わかっている。なればこそ気掛かりを残してやるべきではない、と、思うけれど。少しの意地悪くらいは許してほしいものだ。
 HiMERUはどこまでも完璧な営業スマイルを張り付けて、ファンに愛を囁くように告げてやった。
「あなたを愛していますよ、殺したいくらい」



 陽が昇る。東の空が燃えるような茜色に変わってゆく。彼の、色。
 HiMERUの意識が浮上する頃には、燐音の姿は跡形もなかった。煙のように消えてしまっていた。月夜にその存在感を増す、甘ったるい月下香の香りだけを残して。
 終盤は殆ど記憶が無いに等しかった。向かい合って抱えられる体勢のまま、「なァ、一緒に、いこうぜ……?」と珍しく切羽詰まった声音で告げられ、それからのことは切れ切れにしか思い出せない。つう、とひとすじ涙が零れていき、HiMERUは思い出したようにサイドテーブルに置かれた水の入ったペットボトルを手に取った。ボトルに纏わり付いた水滴が手を濡らすのが煩わしかった。
 ついに燐音がHiMERUに会いにきた理由はわからないままだった。否、本人の口からは聞けなかった。HiMERUにはぼんやりとは、わかっていた。
 天城燐音はアイドルでありたかったのだ。彼の愛するアイドルを守るために生命を燃やし、文字通り生命を削ってきたのだ。『ESのアイドル・天城燐音』は死ぬ。それでも彼の燃え殻は、誰かの記憶に残る限り小さくあたたかな火を灯し続ける。彼はアイドルであり続けることができる。その願いは、HiMERUにしか託せないものだったのだろう。
 馬鹿馬鹿しい、と思う。あんな呪詛など遺さなくたって、HiMERUは覚えている。あの男が放つ燃え尽きる間際の彗星のような眩しさは、あの熱量は、唯一無二のものだ。他の誰のものでもない、天城燐音だけのものだ。忘れるわけがないだろう、最期の時を隣で看取ったHiMERUはその輝きを知っているのだから。
(馬鹿な人……。けれど、今日の夜明けは)
 何かがいつもと違う夜明け。
 どうせ自分もあの人も、行き着く先は地獄と決まっている。再会はいつになるだろうか、それまで待っていてくれるだろうか? 待っていなくとも、追いかけて捕まえて今でもあなたは死に損なったままだザマアミロと伝えてやろう。どんな顔で笑うだろうか。
 このひと夏の短い物語も、アイドル天城燐音の生涯も、俺達ふたりが背負う誰にも言えない咎も、――何ひとつ無駄ではなかったと、告げてやろう。だからそれまで、さようならだ。
「また、会いましょう。燐音」
 HiMERUの唇から零れ落ちた密やかな呟きは、朝靄の中に溶けて消えた。

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