思い立ったが
「タピオカ……?」
「そこで、なんで語尾に『ハテナ』が入るねん……。」
子どもはすっかり寝てしまって、今は大人の時間だった。
今日はたまたま、店が早仕舞いしたこともあって、シャワーを浴びてもまだ午前様になってはいない。そのことを好機と捉えてか、兄弟子はこうして落語と関係のない噺をつらつらとだべっているようだった。
乾かし切らない洗い髪のまま、日暮亭で貰って来たという一昨日の新聞を広げてパチパチと爪を切っている。
僕は既に敷かれて寝るばかりとなっている布団の上で横になり、パジャマを着込んでしまってもはや色気も素っ気もなくなった男の横顔を眺めていた。
中途半端に乾かしてまだ湿っているらしい髪は、このまま寝たらきっと明日の朝には寝癖で大変なことになるだろう。
かつてのように年がら年中仕事が入ることもなくなったので、今ではこんな風に自然乾燥を旨としているようだが、こちらが見かねて手を伸ばすのを待っているようにも見えた。
「タピオカ屋なんて、女子高生とか学生が行くとこじゃないですか。なんで好き好んで流行りもんに並ばなならんのです。」
「今はもう、雨後の筍みたいにタピオカ屋が出来てあるから、ちょっとは沈静化してるねんて。それにたまには流行りも追いかけてみればいいことあるで。若狭から、口コミでいいとこあるて聞いてるからそこにしよ。」と立て板に水だ。
「若狭からですか……?」
あいつ、子育てで流行りもんに行く時間も取れんのに、どこからそんな話題、と思っているうちに、深爪に近いところまで爪を切り終わった兄弟子は、今はやすりを掛けている。
実際、僕とこの人なら、常に爪切りが必要なのは僕の方だった。
ただ、子どもの寝かしつけと延陽伯の店仕舞いが終わるまでは、そんな雰囲気になるのが難しいこともあって、いつもは慌ただしく直前に切ることも多く、最近はなくなったが、数が少なくなったコンドームにうかうかと大きな穴を空けてしまうこともあるにはあった。
まあ、僕の爪を切るのは、もう明日でもいい。
「次の店行くぞぉ、次……ってここ、もう仕舞ってるやんか……。」
外からは、車通りの音に続いて、表からの酔っ払いの喧騒が聞こえて来る。
消費税が導入されてからというもの、ここ延陽伯では、コンビニやファミレスみたいに深夜も開いてる店の広がりとも相まって、なんとなしの不景気が長く続いていて、天狗座を見終えてから前の中華の店で一杯引っ掛けよ、という客も少なくなってしまった。
ありがたいことに、かつてのように閉店時間を過ぎてずるずると居残る酔客もおらず、閉店三十分前には客より店員の方が多くなって、今日のようにさっさと暖簾を下ろす日もあるにはあった。
バイトへのボーナスも目減りして、暖簾分けで郊外に出て行ったり、他所の店に移る人間が出て来たせいでこうして部屋が空き、ほとんどバイトもしないこの人のために、空き部屋分の賃料を払いながら隣で一部屋借りることが許されたのだが、もしこのタイミングで店が改築することになったら、この人と子供と一緒に出て行く覚悟もせなならんな、とは思っていた。
貯金が目減りすることを考え、これまでは何度か断ってた遠方の仕事の口でも何でも、積極的に受けていくことになるだろう。
(日暮亭で割りのいい仕事が増えたらええんやけど、草原兄さんの得意なタコ芝居みたいなもん、僕はようせんからな。……この人が、何かの拍子でリバイバルになって売れたら、どうなるか分からんけど。)
子どもというのはどこで言葉を覚えて来るものか、最近、食事のたびに『ハチ時だヨ!全員集合!』ということが増えた。なんでそんな言葉を使うのか、どこで聞いてきたのか、と聞くと、ゆぅチューブで上がってたから、としか言わない。
けったいな名前のケーブルテレビ局が出来たもんやな、と思っていたら、その隣で妙にそわそわして、けれど、その場ではソコヌケ、と口に出さないでいるこの人を見てると、その様子が妙に可愛らしく思えるのだった。
僕の視線に気づいた男は、こちらの肚の中まで見通してるかどうかは分からないなりに「なんぞ枕の種になるもんがあるかもしれんやろ。思い立ったが吉日や、明日行くで。」と言って笑った。
「枕の種ねえ……。」
一種の職業病か、ありとあらゆる流行りものに乗っかる気性はかつてと変わらないが、金をぽんと渡して、僕を長蛇の列になった売り場に並ばせるだけだったこの人が(そして僕も、女を引っ掛けるためのきっかけとしてそうした機会を便利に使ってはいたが)、変われば変わるものだ。
まあ、落語の稽古から逃げるためでもなく、デートの候補先の選定としてあちこち行きたいところを語る横顔には、見ていて快いところがないわけでもない。
この人の隣に一緒に付いていくのが自分であると考えるのも、嬉しいことは嬉しいが、この派手ななりをした男と連れ立って出向いた先で見舞われるあれこれ(マリトッツォやら、チーズタッカルビやら、毎回どこか似たようなシチュエーションでありながら、冗談の好きな落語の神さんが笑いながら拵えた地獄めぐりに近い何か)のことを考えると、完璧にこちらの気分が上向きになることもないのだった。
年下の男は、「タピオカなら安う済むで。」などと言って、こちらを釣り上げようという気満々で笑っている。
結局はその日の気分次第でホテルに泊まることになるのだから、出掛けた先で使う金が高いも安いもないのだが。
そう思ったが口には出さず「デートならデートらしい格好をしてくださいよ。」と言って布団から起き上がる。
身体の下にしていたせいで掛け布団も、すっかりあったまってしまった。
去り際に少しだけ、と近づいて「僕、もう行きますから、ちゃんとドライヤーしてから寝てくださいよ。」と濡れ髪を纏う側頭に触れると、年下の男はぱっと赤くなって目を瞑った。長っ尻になりそうなところを思い切ろうとしてる人間相手に、何をしてくれるんや。
……寝る前にちゃんと僕が隣に戻るように、って、決めたのそっちでしょう。
口ではどう諫めたところで、出してしまったこの手を今更引っ込められそうにもないので、とりあえず僕は、出された据え膳を素直に食べることにした。
触れた唇はひどく暖かく、一度だけのことで部屋を出て行くことは、出来そうにない。
僕は、タピオカよりもずっと魅力的なそれを、腹いっぱいになるまでむさぼることにした。
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