あめのいろ ゆきのにおい
部屋の中には、しみじみと、雨が降っていた。
「『雨は林檎の香のごとく』……」
やわらかな声が、言の葉を紡ぐ。
雨の降る街をゆく人々の姿が、舗石を叩く雨粒が、冬の雨の冷たさとさみしさが、かわるがわる胸に去来する。
「……『しみじみとふる、さくさくと。』……」
すぅ、と最後の呼気が拡散し、空間へ溶け消えたことを感じ取って、露風はようやく息をついた。
ぱち、ぱち、ぱち。
軽く手を打ち鳴らしたのは、隣に座る白秋だ。
「やはり、素晴らしいね。君の朗読は、とても心地よい」
「……あ、ありがとうございます」
頬を紅潮させて、本を手にしたままの和仁がうつむく。
君はよい声を持っているのだから、詩のひとつでも詠んでみるといい──そう提案したのは、他ならぬ白秋だった。不定期にではあるが、こうして談話室で朗読に耳を傾けるのが、ささやかな楽しみになっているという。
露風はそれをやや意外に思っていたが、ひとりの詩人として、また友として、ライバルと目する白秋の詩がどのように詠まれるのか、興味の方が勝った。以来、席を共にすることにしている。
「『銀座の雨』……この詩を選んだことに、何か理由はあるのかい?」
「はい。この前、街で通り雨にあった時……雨宿りに入ったお店の軒先で周りのざわめきを聞いていて、ふとこの詩のことを思い出したんです」
「それは嬉しいことだね。そんなふうに思ってもらえるのなら、僕がこの詩を書いた甲斐もあったというものなのだよ」
穏やかに微笑む白秋の隣で、露風も静かに頷き、微笑を和仁へ向けた。
「そうですね。ふとした時に思い出してくださること……文士として、この上ない喜びです」
「露風。共にひとつの時代を築いた者として、感想を聞かせてもらいたいね」
「……そうですね」
少し考えてから、ゆっくりと口を開く。
「その景色の美しさ……降りしきる雨の中、街行く人々の姿……そこに立ちのぼる独特の香りまでもが、感じられるようです。『匂やかな』……とでも言いましょうか。詩人だというのに、うまく表現できないことが、もどかしく悔しいですね」
「そ、それは、白秋先生の言葉があってこそですから……」
和仁が恐縮したように首をすくめた。その様子を見て、白秋がくすりと笑う。
「そうそう。和仁くんはね、君の詩も詠みたくて練習していると、そう言っていたのだよ」
「……え?」
きょとんと目を見開く露風の前で、和仁はますます顔を赤くしている。
「せ、先生、そんな、今言わなくたって」
「おや、どうしてだい? ちょうどいい機会じゃないか」
「……私の詩を、詠んでくださるのですか?」
露風は驚きのままに、問いかけた。
「はい、あの、もちろん、ご迷惑でなければですけど……」
恥ずかしそうにうつむきながら、ちらりと視線を送ってくる。和仁のそんな仕草が微笑ましいような、面映ゆいような気がして、露風は思わず笑みをこぼした。
「光栄です。是非、お願いします」
和仁は小さく頷くと、テーブルに置かれていた本を拾い上げ、そっと開いた。
意を決したように、深呼吸をひとつ。
「『心の上に暮れ方の』……」
しん、と、空気が冷える。呼気さえ白くなりそうな──そんな、錯覚。
『雪の上の鐘』。
静かな、それでいて深い情感を湛えた声が、言葉を紡ぐ。
胸のうちに、静かに降りつもる雪。愁いを覆い隠すように。
音もなく、ひそやかに。どこまでも深く、果てしなく。
誰も知らない、一面の銀世界。
微かな呼吸すら聞き逃したくない──そう思ってしまうほどに、静謐で、美しかった。
「……ああ、思った通りだね。君の澄んだ声は、露風の詩にぴったりだよ」
白秋が吐息まじりに呟く。その声に我に返り、露風は拍手を送った。
「本当に……素晴らしかったです。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……聴いて頂けて、嬉しかったです」
「私も、伺っていいでしょうか。なぜ、この詩を?」
「ええと……」
和仁は慎重に言葉を探し、ややあって小さく微笑んだ。
「この詩は、静かに春を待つような、そんな感じがするからです。さえざえとして寂しい空気に満ちているのに……でも、あたたかいんです」
「……」
露風は、己の手のひらへ視線を落とした。この詩を、あの詩集を認めた時の心持ちを、じっと思い返すように。
「……ありがとうございます。そのお言葉だけで、十分すぎるほどに胸が満ち足りる思いです」
和仁へ向かって頭を下げる。そうして、隣に座る白秋へと向き直った。
「白秋、君にも。ありがとうございます」
「おや、それは何に対してだい」
「私の詩を認めてくれていることに対して」
「それはそうだよ。僕と君とは、一度ならず同じものを志した間柄じゃないか」
白秋の浮かべる笑みには、照れも驕りもなかった。
「君にそんなことを言われると、背筋が伸びる心地になるね。僕も、日々精進あるのみだ」
「ええ、その通りですね」
白秋と露風の姿に、和仁もまた、嬉しそうに微笑む。遠慮がちに、そっと椅子から立ち上がった。
「あの……先生方。本当に、ありがとうございました! 僕、本を元の場所へ戻してきますね」
そう言って一礼すると、和仁はぱたぱたと談話室を去っていく。その後ろ姿を見送って、露風はひとつため息をついた。
「気を遣わせてしまったでしょうか」
「あの子なりに、思うところもあったのだろうね」
言いながら、白秋はいつの間にか取り出した煙草に火をつけた。きん、とも、りん、ともつかない小気味よい音が、手元で響く。ゆったりと紫煙をくゆらせ、白秋は独り言のように呟いた。
「それにしても……やはりあの子は、君と似ているよ」
「……そうですか?」
「少なくとも、僕はそう思うよ。君たちを見ているとね」
白秋の言葉は、いつも率直で迷いがない。それを少し羨ましく感じながら、露風は微笑とともに頷いた。
「……そうかもしれません。優しき隣人であり、得がたい友であると感じます」
ふと窓の外を見やれば、傾きかけた午後の陽差しが、窓辺をやさしく照らしている。その風景の美しさに、露風は目を細めた。
「胸に燻る寂しさなど、はじめからなかったかのように、心が穏やかに凪いで……どうにも、不思議です」
白秋は、ただ静かに紫煙と戯れている。露風も、その言葉に答えを求めてはいなかった。
心地のよい沈黙。じりりと、煙草の種火の音さえ聞こえるかのようだった。
「……では、僕もこれで失礼するよ」
最後の紫煙を吐き出した白秋が、安楽椅子から立ち上がる。
「そろそろ弟子たちが戻る頃だからね」
「ああ……そうでしたか」
時計を見ると、まもなく夕刻に差しかかろうというところだった。
「今日は、どうもありがとう。とてもよい時間を過ごすことができたよ」
「ええ、こちらこそありがとうございました」
ひらりと裾をひらめかせ、白秋は談話室をあとにした。露風はその背中を見送り、それからもう一度、窓外の景色に目を向ける。
(……まるで、彼のようですね)
中庭に降り注ぐ陽差しはやわらかく、あたたかかった。
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