ペパロニピザ



「お。いいもん食ってんじゃねえか。」
一人暮らしのくせに妙にでかい譲介の冷蔵庫の底に、冷凍のペパロニピザが入っていたのを見つけた。
日本じゃL寸で通るだろうが、表示はミドルサイズという大きさで、余りゃあ残せばいいか、と据え付けのオーブンに突っ込んで、ついでに冷蔵庫の中身を点検する。
牛乳の他には水が並び、手前にヨーグルト。飲み物だけは牛乳にオレンジジュースと、ワインセラー代わりにも使っているのか、フルボトルの白らしき緑の瓶が二本転がっている。扉を閉めると、牛乳を飲むとき扉を開けっ放しにしないでください、と几帳面な字で書いてある。
Do not leave the refrigerator door open.
暮らし始めた初手に冷蔵庫の中を開けて見せられ、相手に食べて欲しくないものには名前を書くようにと言ってはいたが、未だに上の空間は空っぽに近く、譲介は近所のスーパーで軽く食べられる総菜などを買ってきて、冷凍庫の中身ばかりを補充している。あとは常温で食える林檎だのオレンジだのといった果物。
いついかなるときでも飯は食う。ここ数年はずっと、動けなくなる前にカロリーを取る必要があるので定時に隙を見て食っているという状況だったが、こっちに来た初っ端は時差でボケてたせいか、時間はまちまちだが多少の腹が減るので何か腹に入れるというルーティンが戻って来た。
とはいえ、カロリーを考えず食いたいときに食う、をしていると偏るし肉が落ちる。冷蔵庫の横に吊るしてあるメモを千切って、ペンで鶏肉と書いて貼っておいた。
冷蔵庫の中から牛乳を出して腹ごなしに飲んでいるとピザが焼ける匂いが漂って来た。
やっとか、と調味料の並びからタバスコを出し、皿とピザ用カッターを準備していると、出入口からガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえて来た。
……鼻が利くヤツだ。
そのまま扉が開くのを待ったが、鍵の音が何度か鳴っているのに、家主である三十路男はいつまで経っても顔を見せない。
「チェーン掛けてんぞ。」と言いながら内鍵で開けてやると「ただいま帰りました。」と譲介は疲弊した顔に笑みを浮かべながらハグをしてきた。
おいコラ。
そのツラは何だ。
「……二徹か三徹してんじゃねえだろうな。」と言いながら回転して扉から譲介の身体を離すと、背後でオートロックの扉が閉まる音がする。
「一応、三時間は。」と言ってこっちの背に腕を回したまま譲介は目を細めた。
背中からはガサガサと、紙袋の立てる音がするが、今はこっちが先だ。
鼻を摘まんでこのままベッドまで引き回してやろうかという短気を押さえつけ、顔を見合わせたままで「ここで寝るな。」とだけ口にした。
「一応仮眠室にはそれなりの時間いたんですけど、論文発表の詰めのところで躓いてしまって、そこが気になって寝られなかったんです。朝倉先生も最近忙しくてアドバイスを貰う時間がなくて。」と譲介が零す話に、『父に相談して、今のあなたに相応しいポストを準備しましょう。』と言うスーツ姿の小憎らしい男の顔が思い浮かんだ。
徹郎が知る男は、既に朝倉シニアと呼ばれるようになっていて、アポイントのない相手と話す時間がないという理由でこちらに肩透かしを食わせる代わりに顔を出したのが、譲介が良く知る「朝倉先生」だった。生まれも育ちもここなら、父親とは似ても似つかない精神構造をしているはずだが、いやに落ち着き払った対応だった。クエイドで働かせろという誰が聞いても突拍子のないはずの話はやけにスムーズに進み、質問に対する回答は的確。必要な部署に対応を依頼しますの盥回しもなし。気に障る理由は何もないというのに、妙にこちらの腹に据えかねるところがあった。あらかじめ用意された台詞を聞いているようなあの余裕面で、こっちにはどんな「立場」が用意されるのかがブラックボックスになって、全く話に出なかったからというのは理由のひとつだろうが、それだけでもねえだろう、という気持ちがないでもない。
譲介のことを話す野郎のツラを見て感じた警戒、あるいは妬心のようなもの。澄ましている時のKに似た、あのお綺麗な面構えの神代には感じたことのない感情。
「他に伝手はねえのか。」
先に話しに出た朝倉ジュニア本人を含めての話だが、譲介にそのことを言う必要はない。
「大学の同級生は皆無ではないですが、こちらは基本的に個人プレイの国なので。」
「役に立つか分からねぇが、他に誰もいねえってんならオレが見てやる。」
ここに持ってこい、と口に出して言うより先に、「徹郎さんがそうしてくれると助かります。」と譲介は言って、頬にキスをした。
トップダウン型で頭が有能なら、組織は回る。こいつはこいつで、頭がああなら下はまあこうなっちまうだろうという見本のようなツラをしてやがる。
「……脳卒中でポックリ逝きたくなきゃ、少し寝て来い。」
「食事を済ませたらそうします。」
おめぇの死に水を取るのは御免だ、と余計な言葉が口先から転び出そうになって、「メシの前に手を洗って来い。」と言いながら背中を叩いてやると「分かりました。」と言いながら譲介は身体を離し、リュックを背から足元に降ろした。
そうして何かに気付いたような顔をして鼻先をうごめかせる。まあペパロニピザが焼ける匂いは、風邪で鼻が詰まってなきゃ分かるだろう。
「夕食、もう済ませちゃいましたか?」と残念そうな顔つきになった譲介の手には、今夜の食事のために買って来た『何か』が入っているらしいビニール袋と、酒が入っているらしき紙袋。
引っ越し祝いにしちゃ、遅すぎるか。
昼にクエイドに潜り込んで談判した顛末が朝倉のガキから直に話が行ったってことなら、今日のコッチの言い分がトップダウンで通ったということか、あるいは、考えようによっちゃ残念賞を持たされた可能性もある。どっちにしろ、耳が早いことだ。
「おい、ソイツは祝いの酒と敢闘賞のどっちだ。」と酒を指さすと、譲介はぱっと顔を上げた。
「敢闘賞なら冷蔵庫の白を空けてました。あの、徹郎さん、おめでとうございます。」と言って袋ふたつをこちらに差し出した。
なるほどなァ。
身体がふらついてるような時は他人に気遣いなんかしねぇで真っ直ぐ帰って来い、と拳骨をくれてやるところだが、相手がオレで、場合が場合だと考えたことくらいは分からないでもない。そもそも、目上の相手に対する気配りってヤツを、ガキの時分のこいつに叩き込んだのはオレ自身だ。
「食わねえで待っててやるから、先にシャワー浴びて来い。」
差し出された袋を受け取って空いた方の手をその髪に遣ってくしゃくしゃ混ぜっ返すと、途端に真っ赤になりやがった。
くそ。
目の前の男がもう十代のガキでもねえのは分かっちゃいるが、妙にやりづれぇ。
性分か照れがあるのか、呼び名を変えた日からしばらく、こちらが寝入ったのを見越した時間にベッドに入って来るという念の入りようで、気づかねえフリでもした方がいいのかと思ったほどだが、仕事以外で小芝居をするのも面倒だ。
「さっさと慣れろ。」と言うと、譲介は赤みが差したままの顔を上げ「……すいません。」と言い、口元を引き結んだままで、こちらの真意を確かめるような視線を浴びせてくる。
「謝るな。別に迷惑でもねぇ。」
ペパロニピザが焼ける匂いが漂う空間で、そぐわない愁嘆場を演じるつもりも、色恋に浮かれる気持ちを錯覚だのなんだのと切って捨てるようなことをしたくもなかった。問題は、こいつのじゃれつきにこっちの方でミリもその気が起きないことだろうが、それを口にしたらまた面倒になるのは目に見えてる。
腹の中で何を考えていようが、こいつはこいつでオレはオレだ。
ただそれだけの話だと言うのに、譲介はパッと顔を輝かせて「直ぐに戻ってきます。」とバスルームへと駆け出していった。



「で、焦げたんですね。」
シャワーを浴びたばかりと言った様子で、頭に掛けたタオルで水気を拭いながら台所にやって来た譲介が、皿に載ったピザを見るなり言った。
端だけでなく一部のペパロニまでが丸焦げで惨憺たる有様になったM寸のピザを苦々しい思いで眺めていると、譲介はアハハ、とガキのような声を出して笑った。
「徹郎さんって、この手の失敗を気にする人だったんですか?」
「だから、もう一枚焼いてやってるだろうが。」と言うと「あの頃、外食が多かったはずだ。」と言って、譲介は笑いながら席に着いた。
さっきまでの寝ぼけ眼はどこへ行ったのか、余りにも面白い、という顔をするものだから毒気を抜かれてしまった。
まあ、焦げちゃいるが、食えるところはある。
「酒は後でいいな。」
どこで知恵を付けたのか知らねえが、シャンパンなんかを買って来やがった。
十八歳の年からはずっとコーヒー以外の嗜好品ってもんを敬遠して生きて来たが、不眠が続いた後の寝酒は論外だ。
譲介は「あ、はい。」と返事をしながら、手を伸ばそうとしていたピザ用のカッターを手に取った。
「僕が焦げたところを食べますから、大丈夫なところを徹郎さんが食べてください。」
紺地のTシャツから出た譲介の腕は、神代の山を下りた今、ジムかどこかでトレーニングをしているのだろうと思わせる筋肉の付き方だった。
その腕を伸ばして、カッターでピザを切り分けるのに奮闘している様子を見ていると、どんな名医も道具が悪けりゃそこまでだな、思う。
シンクの横から包丁を取って来た方が早い。
「炭化したところを食ったらガンになるぞ。」
「焦げた食べ物が発がん性物質かどうか、まだ正確な相関関係は解明されてないらしいですよ。それに、毎日食べるものでもないです。」
譲介はこっちに焦げてない半分をこちらの皿に開けると、大口を開けて黒焦げのペパロニを口に放り込んだ。
咀嚼しながら「三日ぶりです。」とそう言った。
いくらなんでも、家を留守にしたこの三日、何も食べてなかったわけはねえだろうと眉を上げると、妙に嬉しそうな顔でこちらを見た譲介と視線が合った。
……オレとのメシの話かよ。
飯に集中しているような顔をしてピザにかぶりつくと、久しぶりのペパロニピザは、妙にチーズが伸びた。
「そういやあ、省吾のヤツ、おめぇに何て言ってた。」と話を逸らすために口にすると、譲介は、こちらがはっきりと分かるほどに顔を引き締めて背を伸ばし「あなたさえ良ければ、数年椅子が空いていた産婦人科のチーフはどうかと。」と言った。
「産科だとぉ?」
食っていたピザが喉に詰まるかと思った。コップに並々注いだ牛乳でピザを流し込むと、譲介は困った顔で言った。
「クエイドはどこも殺人的に忙しいですけど、産科はそこまででもないです。勤める家族の掛かりつけにするのに、小児科との兼任になってしまうので忙しいは忙しいですけど、財団の方針でスタッフも医師も実際充実してます。外科や内科とも連携が取れてますけど、徹郎さんの経験があれば、産婦人科の外に持って行かなくていい案件が増えるし、難点がないわけじゃないですけど、あなたに合ってる、と僕は思います。」
「……なるほどなァ。」
あの野郎、こっちの素性をこいつの口から聞いて事前に調べたかしたに違いねえ。
今日のあれが、もとから準備された台詞を出して来たんじゃねえかと思ったのも、こっちの思い過ごしじゃなかったってことか。
まあ、オレ自身も散々してきたことだ。あれだけの組織の上にいる男が新しい秘蔵っ子の周りに妙な輩がうろちょろしてねえか調べるのは当たり前ってもんだが。
「徹郎さん、あの、そろそろ、二枚目が焦げ始める頃じゃないですか?」と譲介が口にして、はっとオーブンから漂って来る匂いに気付いた。
「おい譲介、おめぇなあ……気づいてるなら早く言え!」
うっかり怒鳴って怒鳴られてで「はい!」と勢い良く立ち上がったはいいが、譲介は、立ち眩みか足元がふらついている。
ったく、手間のかかるガキだ。座ってろ、と肩を抑えて椅子に戻すと、オーブンの中にはさっきよりはマシな部分が多い二枚目が入っていて、溶けたチーズが湯気を立てている。
皿の上からそのままナイフで八つ切りに切り分け、「さっさと食って寝ろ。」とピザの載った皿を差し出すと、譲介は食べられるだろうか、という顔つきになっている。そういや、こいつももう三十半ばか。
まあ、こっちが二枚目を焼くっつったときに止めねえヤツが悪い。
責任を取って食え、という目で睨むと、やにさがったようなツラが返って来て妙に尻の座りが悪い。
ピザを黙々と頬張っていると、中途で途切れた話のことを思い出した。
「それで、おめぇが考える、その小児科の難点ってのは何なんだ。」と言って四切目を齧ると、伸びたチーズと格闘していた男は、皿から顔を上げた。
そうして、丸吞みにしたピザを旨そうに咀嚼してから口を開いた男は「産婦人科と小児科のある場所って、僕が普段いるフロアと食堂から、凄く遠いんです。」ランチを一緒にしたいときは前もって連絡しますね、と言って、朗らかに笑った。

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