サンプル①
✦ 一 ✦
それはきっと、遅かれ早かれ気付く感情だった。
ベッドへ転がっていた穹は、唐突に訪れた感覚に手元の端末を呆然と眺める。どうして腑に落ちると言うのだろうかという疑問が一瞬で解決するほど、その感情はすとんと穹の中に収まった。
握っていた端末の画面にはゲームオーバーの文字がでかでかと書かれている。それを見たから気付いたのか、気付いたから手元が狂ったのかはわからない。
わかるのは一つだけで、ゲームオーバーも気付いてしまった感情も、どちらも穹にとっては良くないものであるということだけだ。マイナスにマイナスを掛けてもプラスにならないのが感情の嫌なところだ。まさに踏んだり蹴ったりという言葉が相応しい。
スタート画面へと戻ったアプリを終了し、穹はごろんと転がる要領で仰向けになる。同時に投げ捨てた端末は柔らかいマットレスの上を小さく跳ね、ぽすりと枕横へ収まった。
空いた腕を乗せるようにして目元を隠せば、ゲームオーバーの画面のように目の前が真っ暗になる。今は何も見たくない穹にとって、その暗闇こそが唯一の安寧だった。
「……気付きたくなかったなぁ」
どうして気付いてしまったのか。気付かなければ幸せだっただろうに。
暗く自虐的な考えがぐるぐると脳内を巡る。無理矢理上げていた口端が震え、ひくりと引き攣った喉からは今にも嗚咽が漏れそうだった。
「っ、こんなことなら、いっそ、」
――器でしかない人形なら良かったのに。
歪とも言える表情で嗚咽の代わりに零した小さな呟きは、誰に聞き咎められることもなく宙に溶ける。その静けさが考えを肯定しているかのようで、穹はより一層思考を混沌へと陥らせていく。
もしも、もしも、もしも。
山のような仮定が脳内で生まれ、その度にあり得ないと穹の理性が否定する。冷静であればあるほど、気付いてしまった感情が心の柔いところを突き刺した。ひとりぼっちでぼろぼろとなっていく心が、見えない血を流しながらやめてくれと悲鳴を上げている。
穹は横向きへと体勢を変えると、腕で隠していた顔を閉じられたドアへと晒す。その表情は泣き笑いのようなもので痛々しく、普段の煌めきを失った琥珀は仄暗い。
そんな穹を慰める者はこの場に一人としていない。それどころか、そんな考えを持つべきではないと叱咤する者すらいなかった。
この場所に誰か一人でも穹の友人がいたのなら、彼の思考は途切れ、これ以上のことを考えることも無かっただろう。そうではないからこそ、穹は気付き、思い、確信してしまったとも言える。
ただの器でしかない自分は誰の一番にも成り得ず、この先ずっと、|誰か《にんげん》の一番になる日もこないのだろう、と。
そんなことを考えていたのが良くなかったのだろうか。
穹はかぱりと大口を開けた奇物を前に思わず固まる。アスターに頼まれて回収しに来ただけの奇物が、まさかそのような動きをするなど思いもしなかった。動くとは聞いていたが、人を襲うようなものであるとは聞いていない。
やはりアーランに確認すべきだったと穹は今更ながら後悔した。あのお嬢様はしっかりしてそうで何処か抜けているところがあるのをすっかり忘れていた。
(あ、やばい)
だが、予想外であるかどうかなど奇物には関係ない。大口を開けた奇物が穹を丸呑みしようと覆い被さってくる。硬直した身体では避けることすら叶わず、せめて碌でもないことだけは起こりませんようにと願いながら腕で顔を庇った。
ごくんと呑み込まれる瞬間に聞こえたのは、らしくもない丹恒の叫び声だった。
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大口を開けた見覚えのない生物。それを呆然と見上げる親友。その光景を見た瞬間、アーランに頼まれて資料を届けに来た丹恒は全身の血の気が引くのを感じた。
どう見ても穹を襲おうとしている生物は、真っ赤な一つ目が埋め込まれた黒い球体の頭と、そこから生えた甲殻類のような四本足という不気味な形状をしていた。一つ目の下が伸びることで顕になった大きな口には、元から咀嚼の機能がないのか歯の類いが全く無い。
話に聞いていたサイズ感とは異なるが、形状からしてその生物がアーランの言っていた奇物で間違いないことに丹恒は気付く。どうやら自律型の奇物でもあったらしい。今の丹恒にとってはどうでも良い話であるが。
「――っ、穹!」
片手に抱えていた資料を投げ出し、らしくもない叫び声で穹の名を呼んだ丹恒は駆け出す。いつもであれば容赦なく敵を屠る穹の無防備さが気になりはするものの、自分の声で正気付き、避けるなり反撃するなりしてくれれば良いとそう思ったのだ。
しかし、穹は丹恒に気付かず、腕で顔を庇いながら奇物に呑み込まれていった。ごくんと鳴った奇物の頭部に、穹が――仲間が喰われたのだと丹恒は明確に理解する。同時に腑が煮え繰り返るような怒りに脳が焼けた。怒りで赤く染まる視界越しに睨み付け、丹恒はその手に撃雲を招来する。
(あの形状の生物であれば、弱点として考えられる部位は……)
生物学者としての知識。そして不朽の龍の末裔としての直感が告げる。丸呑みにされただけであるのなら助かる見込みがあった。迅速に仕留め、腹と思わしき部位を開けば良い。
丹恒の中で方針が決まったところで、一撃で奇物を破壊するために狙いを定める。必ず助ける。そう思えば思うほどに撃雲の柄を握る手に力が入った。
けれども焦りは禁物だ。焦れば穂先を歪ませ、助ける機会を永遠に失わせるだろう。
丹恒は深く息を吐くと、少しだけ吸って止める。撃雲を放つ体勢を整え、タイミングを見計らうように奇物を見つめた。未だもぞもぞと頭を動かす様がこの上なく憎たらしい。
撃雲を構えてからほんの数秒。永遠にも感じる時間の中、逸る気持ちを押し殺してその時をじっと待つ。迅速に屠らねばならない反面、助けたいと思うからこそ気を急いてはならない。現状にもどかしさを感じながらも、丹恒は静かにその時を待ち続けた。
二、三、五、七、十一……。
突然奇物がぴたりと動きを止めた。今がその時か。撃雲を放つために腰を落とし、バネとなる脚に力を込め――ぷるぷると頭部を震わせ始めた奇物に、丹恒はぴたりと動きを止めた。
タイミングを見誤ったか。
内心で舌打ちをしつつ睨み付ければ、まるで水を含み過ぎた砂の彫刻のように奇物の姿が崩れていく。個体から粘度のある液体へ変わる様は凝固の解けたスライムに近いかもしれない。どちらにせよ、丹恒が何をするまでもなく、奇物はその姿を泥に変えていった。
「……これは、いったい」
泥と化した奇物を前に、丹恒は警戒を解かずに眉根を寄せた。握ったままの撃雲の穂先で付近の地面を叩いてみるが何の反応もない。武器を構える必要が無くなったのだと丹恒の直感が告げていた。
未だゆっくりと崩れ往く奇物にそっと近付きながら、丹恒はその中から出てくるはずの穹の姿を探す。黒とは真逆の銀灰色を見落とさないように目を凝らせば、半分ほど姿を消した奇物の中に鈍い輝きを見つけた。
「……! 穹!」
本来ならば泥が消えるのを待つべきなのだろう。何が起こるかわからない以上、それが最適解だということもわかっていた。わかってはいるが、逸る気持ちがそれを許さない。どの程度待たなければいけないのかわからない未来など待ってはいられなかった。
丹恒は冷静さと共に撃雲をかなぐり捨て、泥を踏み付けながら輝きを見つけた辺りへと腕を突き入れる。ぐにゃりとした嫌な感触に思わず眉根が寄った。しかしそれすら無視して腕を掻き回せば、人体特有の肉の硬さが指先に触れた。
「っ、これか……!」
指先の感覚だけを頼りに、恐らくは腕だと思われる部位を掴んで引き摺り出す。顔に飛んだ泥の気持ち悪さなど気にならなかった。そんな些細なことを気にする暇などないと言わんばかりに、丹恒は勢い良く腕を引く。
途端、びちゃりと飛び散る泥。そしてずるりと抜け出た一人分の塊。引いた腕とは逆の腕で受け止め、口元に顔を寄せれば確かな呼吸音が丹恒の耳に届いた。
「……はぁ」
安堵の息がその場に響く。いつの間にか全て泥と化した奇物の上、その中心で丹恒は思わず座り込んだ。
しっかりと抱え込んだ穹の身体からは、トクリ、トクリと穏やかな心音が伝わってくる。まるで眠っているだけのように気を失っている姿に、人の気持ちも知らないでと思わなくもない。だが、それ以上に無事で良かったという気持ちの方が強かった。
丹恒は抱え込む腕の力を強め、逆に力の抜けた首を前へ倒すようにして穹の肩口へ顔を埋める。穹に付着していた泥が顔に付くも、既に汚れているのだから気にもならない。そんなことよりも、泥の臭いで穹の匂いが消えてしまっていることの方が不快だった。
すぐに連れ帰り、泥を落とさなくては――否、此処で落としてしまうか。
丹恒は身体を起こして少しだけ穹を離し、抱えていない方の手で印を組む。途端、雲吟による水がふわりと周囲に浮かんだ。そのまま指を動かせば、従うように動く水の塊が穹の汚れを落としていった。
ついでに自分の泥も落とし、再び汚れぬように床の泥ごと水で包む。
これは後でミス・ヘルタに渡せば良いだろう。
押し付け先を決めて一人頷いた丹恒は、仕上げに二人まとめて余分な水分を抜いた。多少湿気てはいるが、いつも通りの二人の姿がそこにはあった。
「……ぅ……」
「! 穹、俺だ。わかるか?」
同時に、穹から小さな呻き声が聞こえる。目を覚ましたのかと声を掛ければ、閉じられていた瞼がゆるゆると上がっていく。
「……」
「……穹? どうした、何処か怪我……いや、具合でも悪いのか?」
「……」
「穹……?」
しかし、漸く緊張から解放された丹恒の安堵は長く続かなかった。
目は開き、琥珀を思わせる黄金色の瞳は確かに丹恒を見ている。だが反応がないのだ。名を呼べど宙を見たまま動かぬ穹に、丹恒は嫌な汗が流れた。奇物の影響による症状の可能性を考えるも、アーランから預かっていた資料にそのような記載はなかったと記憶している。
まさか過去に例のない症状が出ているのか。
丹恒は再び血の気が引いた。もしそうであるのなら、急ぎヘルタに診せた方が良いだろうとも思った。病気の類いならナターシャや白露といった医師の出番だが、原因が奇物ならヘルタが最適だ。彼女と関わりたがらない丹恒であってもそれくらいは理解している。
「……穹、少し抱えるぞ」
恐らく反応はないとわかっていながら、丹恒は一応の声を穹へと掛ける。この状態で歩かせるのは危険だと判断したからだ。
丹恒はほんの数秒考え、穹の顎と腕を自分の肩に乗せる形で前抱きにする。意識がはっきりしていない人間の抱え方は限られる。かといってヴォイドレンジャーが未だ闊歩する場所で武器を持たないのは愚行だ。片手で武器を扱えるこの抱え方が恐らくは最適解であった。
されるがまま、しがみつくことすらない穹に丹恒は唇を噛む。まるで人形のようだと一瞬でも思った自分に吐き気すら覚えた。
「……大丈夫だ。すぐ、元に戻してやる」
自身の不安を打ち消すように呟いた言葉に返事はない。穹を落とすことなく、且つできるだけ早く。歩き出した丹恒の足音は、いつもより幾分か大きく鳴っていた。
✦ 二 ✦
「丹恒! 穹が何も反応しなくなったってどういうこと?!」
「……三月」
騒がしい足音と共にアスターの用意した部屋へと入ってきた少女に、丹恒は俯いていた顔を上げた。彼女の名を呼ぶ表情は暗い。朝食の席で会った時と比べて疲れ切っている丹恒に、なのかは一瞬驚きの表情を浮かべた。
しかし、丹恒の正面――椅子に腰掛けた穹の姿を目にした途端、その花貌を強張らせる。穹は力無く手足を投げ出し、椅子の背に凭れ掛かっていた。ぼうっと宙を見ている瞳に光はなく、まるで宝石を嵌め込んだ精巧な人形(アンティークドール)のようだ。あまりにも普段と異なる姿に、なのかは真剣な表情で丹恒へと尋ねる。
「……ねぇ、本当に何があったの? そこに居るの、本当に穹、なんだよね……?」
「……ああ。彼が穹であることは間違いない。ただ……何故こうなってしまったのかは俺にもわからないんだ。ミス・ヘルタにも診てもらったが……」
わからなかったのだと首を振った丹恒は表情を苦しげなものに変える。奇物との遭遇の後、穹を診たヘルタの答えは「わからない」だった。あの奇物は入手したばかりでまだ不明点が多く、詳しく調べようにも奇物は泥と化してしまった。一応調べてはみるが、わかることはほぼ無いだろうというのがヘルタの見解である。
だが、わからないからといって仲間を――漸くできた親友を諦めることなどできるわけもない。丹恒はなのかが訪れるまで、このまま元に戻らないかもしれないという暗い思考を打ち消すように穹の名を繰り返し呼び続けていた。丹恒が疲れ切っていたのは、反応のない相手に呼び掛け続けるという行為による精神的疲労によるものだ。
大まかな話の流れから凡その現状を察したなのかは、顔色を悪くしながら丹恒へ尋ねる。
「それってつまり、何でこうなっちゃったのか原因がわからない限り、穹は元に戻らないかもしれないってこと……?」
「……いや、それすらわからないそうだ。原因が判明しなければ元に戻らないのか、それとも時間の経過で元に戻るのか……現状では判断が付かない、と」
丹恒はなのかから穹へと視線を戻す。
「仮に時間の経過であったとしても、いつ戻るかはわからない。次の瞬間か、それとも明日か。もしかしたら一月後かもしれないし、一年後や十年後かもしれない」
「そんな……」
「逆に適した処置を施す必要があるのなら……死ぬまでこのままだと、ミス・ヘルタはそう言っていた」
タイムリミットが無さそうなのが唯一の救いだね。無表情にそう告げたヘルタを丹恒は思い出す。果たしてそれが本当に救いであるのか、丹恒にはわからない。
確かに限られた時間の内で解決せねばという焦りはないが、答えがあるかもわからない探し物をすることが辛くないわけでもない。興味が尽きない限りは探してあげるとヘルタは言っていたが、その興味だっていつ途切れるかわからないのだ。彼女に全てを任せるわけにもいかない。穹が元に戻る日を迎えるには、丹恒達が原因と対処法を見つけられるか否かに掛かっている。
「……でも、それならこれからどうするの? 穹、何も反応しないんだよね? そんな状態で列車に乗せて大丈夫なのかな……」
「……何も反応しないわけでは、ない」
「えっ、そうなの? でも、姫子のメッセージには、」
「本当だ。ただ……」
丹恒は言葉を濁すと、「見た方が早い」と言って穹の方へ向き直る。
「……穹、こっちを見てくれ」
そっと告げられた言葉に、今まで動きのなかった穹がぴくりと身体を震わせる。そしてそのまま、緩慢な動きで首を動かすと、宙を眺めていた瞳を丹恒へと向けた。
何をしても反応がないものだと思っていたのだろう。なのかは丹恒の言葉に反応した穹の姿に目を丸くする。
「動いた! えっ、ちゃんと反応はするってこと?」
「ああ。会話の類いはできないが指示には従うようだ。ただ、あまり複雑過ぎる内容だと途中で動かなくなる」
「できるのは簡単な指示だけ……なんだか、まるで|機械人形《オートマタ》になっちゃったみたい」
「姫子さんもそう言っていた。だからこそ、これを反応と言って良いかわからなかったんだろう。自主的な動作でない以上、そこに意思があるとは言えないからな」
もう良いと穹に告げれば、丹恒を見ていた瞳が再び宙を見る。|機械人形《オートマタ》になったかのようだという言葉は言い得て妙で、現在の状態は待機モードといったところか。言われるがままにしか動かない穹に歯痒さを感じながら、丹恒はなのかにこれからの話をする。
「穹をどうするかだが、姫子さんとヴェルトさんは二つ選択肢があると言っていた」
「二つ? ……それって、このまま乗せるか、それとも降ろすかってこと?」
「ああ。宇宙ステーションに置いていくのも一つの選択肢だ、と。いつ何処で解決策が見つかるかわからない以上、多数の奇物を所有する宇宙ステーションで経過観察してもらうのが良いのではないか、ということらしい」
「それは……確かに、そうかもしれないけど……」
丹恒の言葉に、なのかは眉根を寄せて言葉を濁す。彼女の顔には苦々しい表情が浮かんでいた。内容の正しさを理解する反面で、感情が追い付いていないことがわかる表情だった。
「……でも、ウチは嫌だよ。だって、こんな状態の穹を置いていくなんて、」
「……そうだな。俺も……、嫌だ。穹を置いて行きたくはない。だから、三月さえ良ければだが、俺はもう一つの選択肢を選びたいと思っている」
「丹恒がわざわざそう言うってことは、ただ列車に乗せるだけ、じゃないんだよね?」
「ああ。穹を列車に乗せるのであれば、彼に指示を出す人間が必要だ。そうでなければ、穹は人間にとって必要な行動を何一つとしてできないだろうからな」
「……つまり、ウチと丹恒で穹の面倒を見るってこと?」
「簡単に言えばそうなる。三月には、俺では気の届かない箇所のサポートを頼みたい」
主な面倒は俺が見るつもりだと付け加えながら、丹恒はなのかの目を見つめる。その瞳の真っ直ぐさに、なのかは意外そうな表情を浮かべて少し考える素振りを見せた。
なのかとしては、穹を連れて行くのなら可能な範囲で面倒を見る気ではあったのだ。簡単なものに限られるとしても、指示に従って動いてくれるのであれば負担は小さい。非力な女の身であったとしてもある程度の面倒を見ることは可能だろう。
それに、姫子やヴェルトだって頼めば手伝ってくれるであろうことは想像に容易い。四人――パムを数に入れて良いのであればプラス一人――で面倒を見ると考えれば、そこまで苦でないだろうこともわかっていた。
それらを考慮した上での提案かと思っていたというのに、丹恒は自分が主だって面倒を見ると言う。彼の面倒見の良さについては自身の経験からよく知っているが、それでも一種の固執を感じさせるような発言が意外に思えた。
なのかのそんな心情を知ってか知らずか、丹恒はじっと返答を待つ。その表情に迷いはなく、可否に関わらず自分で穹の面倒を見るのだろうと思わせる意思の強さが見て取れた。
なのかは腰に両手を当て、片頬を膨らませながらじとりとした目で丹恒を見つめ返す。
「丹恒、ウチの答えは関係ないって顔してるじゃん」
「関係なくはない。三月が手伝ってくれるのなら大いに助かるからな。俺だけでは気付かない点がどうしても出てくる」
「まあ、良いけどね! どちらにせよ断るつもりはないし……穹がいない旅なんて、今更想像付かないもん!」
「……ありがとう」
なのかの答えに丹恒はわかりやすく安堵の息を吐いた。
彼女の言う通り、なのかの答えがどちらであろうと丹恒は穹の面倒を見るつもりでいた。姫子からも既に許可を得ているため、あとは丹恒以外の人間に助力を頼むかを決めるだけではあったのだ。
だがしかし、一人で世話を焼くよりも複数人で分担したほうが小さい負担で済むのも確かだ。穹にしてやれることだってその分増えるのだから、任せても不安にならない相手へ助力を頼むほうが良いに決まっている。
なのかの性格を考えれば万が一にもあり得ないと思ってはいたが、彼女に断られなくて良かったと丹恒は思った。
「それじゃあ、穹はこのまま列車に乗せるってことで、必要な物資はウチが代わりにお願いしとくね。丹恒も何かあるなら一緒に頼んでおくよ?」
「そうだな……では、ここに記した物を頼む」
「オッケー! ウチに任せておいて!」
なのかは差し出されたメモを受け取ると、ぱちんとウインクをしながら部屋を出て行く。丹恒を気遣って明るく振る舞っているのだろうことがわかる行為に、丹恒は感謝の念を抱きながら再び穹へと視線を戻した。
「……穹」
相変わらずぼうっと宙を見つめる瞳に煌めきはない。名を呼んでも煌めきは戻らず、丹恒を見ることすらない。
ぐっと唇を噛み締め、眉間に皺を寄せながら目を閉じた丹恒は思う。
笑みがなくとも、言葉が返らずとも、この手を掴まずとも構わない。ただ、どうか、せめて。その瞳が感情に煌めき、丹恒を丹恒としてわかったうえで見てくれれば良い。
そんな丹恒の願いなど知らぬと言うかのように、穹の瞳は未だ何処を見ることもなく。煌めきの代わりに濁りのみを帯びていた。
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