ヴェトアイヴェト(の予定)

 身支度を済ませたマーランを抱き上げて、忘れものはないかと尋ねると、マーランはううんと首を振った。「よしいい子だ」とそのまろい頬に口づける。マーランはくすぐったそうに首をすくめて笑い声をあげた。
「忘れものしても戻ってくるなよ? 今日は父さんが、母さんを独り占めするからな」
 口をすぼませて冗談まじりに言ってやれば、了解とマーランは手をあげた。

 今夜はヴァディヴの家でマーランが世話になることになっていた。はじめてのお泊まりというのもあって、不安はあるものの、家は近いので何かあってもすぐ駆けつけられる。
 ヴァディヴにも何かあったらすぐに呼べと言ってある。付き合いは長いから特に心配もしていない。それにマーランは楽しみで仕方ないらしい。こんなにご近所なのに、数日前から荷物なんか用意して、準備は満タンだ。
「それでは小さい俺の弁護士さん、準備はいいかな」
 マーランを抱き上げてヴァディヴの家まで送り届ける。迎えに行くのは明日の夕刻だ。失礼のないようにな、とだけ伝えて挨拶を済ませると、ヴェトリマーランは足取り軽くして自宅へと戻っていった。

 母さんを独り占めするというのはあながち嘘でもなく、しばらくぶりに愛する人と2人きりでゆっくり過ごせることに浮き足立っていた。
「アイシュ、戻ったぞ」
「大丈夫そう?」
「ああ、もうぜんぜん。寂しがる素振りもなかったよ」
「迷惑かけなきゃいいけど」
 母親の心配は尽きないものだ。台所で夕食の仕込みをしながら、アイシュは顔を少し曇らせた。いつもは強気なアイシュだが、我が子のことになるとやはりそこは不安なのだろう。
「大丈夫だよ」
「あなたよりは、まあ確かに。心配ないわね」
「そんなこと言うなよ。最近は危なっかしいことしてないだろ?」
 食材を洗う両手が塞がってるのをいいことに、脇腹をつつく。驚いたアイシュが背をそらした。
「危ないからあっち行ってて!」
 つんけんしながらも笑うアイシュが可愛くてたまらない。懲りずに周りをうろうろしていると、濡れた指先が水を弾いた。水滴が顔にぴしゃりとかかる。それでも構わずに顔を近づけると、その口を濡れた手が遮った。
「邪魔するなら手伝ってもらえる?」
 よろこんでと濡れた顔でうなずけば、アイシュがまた表情を綻ばせた。

 2人きりの食事の間、家を留守にしているマーランの話をした。息子には好きなことをやらせてやりたい。そのためなら、この村でできる限りの教育を受けさせてやるつもりでいた。
 アイシュは特に教育熱心だから、マーランもきっと利口な子に育つはずだ。
「それでねタラパティ」アイシュは食卓に肘をかけ、前のめりになりながら言った。「私、そろそろ2人目がほしいんだけど」
「んん゛ッ」
 詰まりかけた飯を、慌てて胸を叩いて飲み下す。前々からそんな話は聞いている。むしろ2人どころではなく、それ以上をご所望なのはとっくにわかりきっていることだ。そして今その話をするということは。
「アイシュ、お前それって」
「もちろん、するに決まってるでしょ」
 何言ってるのとばかりに言われてしまう。妻からの夜の誘いにしては、少々ムードがなさすぎやしないだろうか。そんなスポーツをするみたいに言わなくてもいいのに。けれどこれも気丈な彼女らしい。
「それじゃ、これ」
 はい、とコップに注がれたものに首を傾げる。透明だが、うっすらと黄金色をしているそれを差し出して、アイシュはにこりと微笑んだ。
「滋養強壮剤」
「あよよ」
 まいったな、こりゃ今日は寝かせないつもりだぞ。
 愛する人からの刺激的すぎる誘いに、嬉しさはあれど、すでに気圧されている。
 マーラン、お前のママはすごい女だ。
 確かにアイシュと今夜は2人きりで……とは考えていたものの、相手がここまでとは想定外だった。是が非でも搾り取ってやるという気概を感じる。
「アイシュ、俺だって一応、これでも努力はしてるんだぜ」
「わかってるわよ」ふんとアイシュが鼻を鳴らして言った。「けど、最近は歳のせいにして、言い訳ばかりしてる」
『本当はもっと、できる男でしょ』
「おい、今悪口言ったろ?」
 さあねとアイシュが笑って顎をくいと上げた。
 今の流れはぜったいに悪口だ。パンジャブ語がわからなくても、こうも挑発的に誘われたら黙っちゃいられない。

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