大江戸転生主従パロ利土 手を離す7


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 その日の夜、留三郎が永楽屋を訪れると伊作が先に来ていた。夕方の患者を診終えてから直接来たらしく、奥座敷で帳面を広げて今日の証言を整理している。文次郎は帳場の仕事の残りを片付けている。先に留三郎に話そうと、
伊作は持参した帳面を開いた。
「今日の患者から、新しい話を聞いたよ。甘い匂いがしたと言っていた」
「甘い匂い?」
「うん。上等な香のような香りだそうだ。寺よりはお武家の奥方が焚くような……と言っていた。先日証言してくれた女性にも再度聞いてみたけど、その人も確かに言われてみると甘い香の匂いがしたと」
「武家か……」
 留三郎は腕を組んだ。
「狙われているのが武家なのか、犯人が武家に繋がる人間なのかは分からんが──付け火にしても町人同士の私怨の線は消えそうだな」
「わざわざ火事場に残るほどの香の匂いだしね」
 伊作は帳面を指で辿った。
「犯人が気づかずに残したにしては、ちょっと強すぎる気がする。何か意図があるんじゃないかな」
 留三郎は眉を寄せた。匂いを意図的に残す。そこまでは分かるが、その先が見えない。
「……自身番狙いの武家の仕業と思わせたいのか……文次郎に燃えかすを見せたらもう少し分かるかもな」
「今日持ってきた分?」
「ああ。油紙と木栓の欠片だ。前に持ってきた板片と縄と合わせて四つになる」
「こっちは終わったぞ。待たせたな」
 留三郎が持ち込んだ燃えかすを広げていたのを、帳場の仕事を終えてきた文次郎がしゃがみ込んで拾い上げる。
「油屋の話じゃ、縄はやはり付け火に用いたものだそうだ。だがどうも縄自体に気になることがあってな。荒物屋に口の堅い知り合いがいるから、明日訊きに行こうと思ってる」
 言いながら、文次郎は少し声を落とした。
「お前ら、長次の瓦版は見たか」
「ああ。現場で渡された」
「あれで町の空気は『奉行所狙い』に固まるだろう。だが俺は少し別のことを考えている」
「別のこと?」
「火事の地点を地図に落とすと、自身番の周辺に集中しているのは確かだ。だがそれだけじゃない。出火した建物の種類を見ろ。最初は長屋や町家だったが最近の二件は──」
 文次郎は指を二本立てた。
「物置と裏の納屋だ。人の住む建物から、物を仕舞う建物に変わっている」
 留三郎の目が細くなった。
「自身番狙いは目眩ましで……蔵に近づいている?」
「まだ分からん。だがもしそうなら──」
 文次郎の言葉を遮るように表から声が飛び込んできた。
「火事だ! 火事だぞ!」
 三人は同時に立ち上がった。表に出ると遠くの空が赤く染まっている。
「どこだ!」
 留三郎が通りがかりの男を捕まえて訊いた。
「奉行所のあたりだ!」
 留三郎と文次郎が顔を見合わせた。
「先に行く!」
 留三郎は半纏を掴んで走り出した。
「待って、僕も──」
「伊作は来るな! 火傷の患者が出たら診療所で待て!」
 振り返らずに言い放って留三郎は夜の町へ駆けていく。伊作はその背中を見送り、拳を握りしめた。



 火事は奉行所のごく近くのものだった。今度は通り沿いの商家の裏手からの出火で、火は隣接する物置小屋を焼いてから呉服商の納め蔵に燃え移った。幸い近隣の町人が早くに気づき水をかけたために大事には至らなかったが、物置小屋は半焼し、蔵の扉にも焦げ跡が残った。

 報せを受けて留三郎が駆けつけた時にはすでに鎮火しており、他の火消したちが後始末をしていた。留三郎はまず物置小屋の焼け跡を一通り見てから蔵に向かった。
 納め蔵は漆喰の白壁に囲まれた立派な土蔵で、大口の反物を扱う老舗の倉庫として使われている。壁も屋根もほぼ無傷だったが、扉だけが黒く焦げていた。
 留三郎はしゃがみ込んで扉の框を調べた。
 焦げ方に違和感があった。隣の物置小屋から火が移ったのなら、蔵の壁のうち物置に面した側が先に焼けるのが道理だ。だが壁はほとんど損傷がなく、焼けているのは扉の下部から框にかけての一帯だけだった。しかも扉の下端に沿って帯状に油の痕がある。
(類焼じゃないな)
 隣から火が回ったのではなく、蔵の扉際に直接油を引いて火を点けている。物置小屋の火は目くらましだ。出火が物置と蔵でほぼ同時だったとすれば、周囲の者は当然大きく燃えている物置の方に気を取られる。その隙に蔵の扉際を焼き、物置からの類焼に見せかけたのだろう。だが燃え跡は嘘をつかない。火の回り方が物置側からではなく扉の正面から始まっていることは焦げの濃淡をたどれば分かる。そして扉際に残った油の帯は、これまでの現場と同じ手口だ。
 留三郎は立ち上がって蔵の全体を見渡した。壁は分厚い漆喰で覆われ、扉は欅の一枚板で金具も頑丈な造りだ。この蔵を本気で焼くなら扉際に油を引く程度ではまるで足りない。犯人もそれを承知のはずだ。
「……燃やす気なら、もっと燃える」
 留三郎は呟いた。
 犯人はこの蔵を焼き落とすつもりで来たのではない。蔵の扉際を焼いた時にどう燃え、どこまで火が通り、どの程度の痕が残るかを確かめに来たのだ。しかもそれを物置小屋の火事に紛れ込ませて、蔵が狙われたとは思わせない形で。だが自身番狙いと思われるのに奉行所が動かないのはなぜだ。誰かが指示系統を抑えているとしか思えなかった。
 町家、物置、そして蔵。犯人は対象を変えながら手口を磨いている。蔵を試験しつつ、それを類焼に見せかけるだけの計算がある。
(次はもっと上手くやってくるだろう)
 そしてその時が「本番」だ。

 ふと留三郎は、人混みの中に小平太の姿を見つけた。同心の装いで現場を見回っているが、傍には上役の年嵩の同心がいて蔵の主人に詫びを入れている。この蔵は御用達筋と付き合いのある店らしく、上役はそちらの対応に手一杯で焼け跡を見てもいなかった。
 小平太がこちらに気づいて離れた場所まで歩み寄ってきた。
「小平太」
「見たか、あの扉」
「ああ、見た」
 留三郎は声を落とした。
「物置からの類焼じゃない。蔵の扉際に直接油を引いてある。物置の火は目くらましだ」
 小平太は懐から帳面を出し、扉際の焦げ、金具の変色、油の帯、類焼の不自然さ、と留三郎の所見を書き留めていった。
「厄介だな。見かけが類焼だから上はそう思い込んでる。わざわざ蔵の扉の『焼け方』まで調べる者はいない。あの上は面子を汚されるのを嫌うんだ。私が進言しても却ってこの後動きにくくなるだけだろう」
「お前が控えに残してくれれば、それでいい。今はまだ泳がせる段階だろう」
「ああ。だがこの件は瓦版でも大きくは扱えんな。御用達の蔵に類焼したとなれば筋からの圧がかかる」
「このあたりはお前の管轄か?」
「そうだ。正確に言うとあの上役の管轄だ。もしかすると犯人はそのあたりも計算しているのかもしれない」
「下手すると……内部犯か」
「それはまだなんとも言えんな」
 小平太は帳面を懐に戻し、焼け跡を一度振り返ってから上役のもとへ戻っていった。


***


 翌日、伊作の診療所に昨夜の火事で負傷した手代が訪れた。物置の消火を手伝った際に腕に火傷を負ったのだという。蔵の主人が伊作のことを知っていて寄越したらしい。
 火傷は腕と手の甲に及んでいたがいずれも浅く、薬を塗って布を巻けば数日で治るだろう。伊作は手当てをしながらさりげなく尋ねた。
「火が出た時、あなたは近くにいたんですね」
「ええ。物置から火が出たんで水を被って駆けつけたんですが、間に合わなくて」
「火が出る前に何か気づいたことはありませんか。匂いとか、人影とか」
 手代は少し考えた。
「匂いはありました。油の匂いです。それと──甘い匂いがしました。線香というか、もっといい匂いの……何て言えばいいか。あまり嗅いだことのない匂いなんです。とにかく油と一緒にふわりと」
(三人目だ)
 場所も日時も違う火事で三人が同じ証言をしている。油と甘い匂い。これで手口の同一性はほぼ確定したと言ってよかった。
 伊作は帳面に書き留めながら手当てを終え、手代を送り出した。一人になった診療所で帳面を広げ、先日からの証言を並べ直す。「お香のような」「お武家の奥方が焚くような」「線香よりいい匂い」。表現はそれぞれ違うが指しているのは同じものだろう。
(香りか香りの元が、何かの役割を果たすんだろうか……)
 まだ特定には至らない。けれども匂いの正体が分かれば犯人に一歩近づけるはずだった。留三郎に伝えなくてはと思いながら、戸口に次の患者の姿が見えて伊作は帳面を閉じた。


***


 利吉が渡り廊下で留守居役の家老とすれ違ったのは、蔵の棚卸しを終えた翌日の朝のことだった。白髪交じりの小柄な老人で、土井家の江戸屋敷を長年切り回してきた古参である。立ち居振る舞いに無駄がなく、屋敷内のあらゆる手続きはこの老人の目を通さなければ動かない。蔵の棚卸しは家老の直属の重臣から命じられたもので、当然この男も把握しているだろう。家老は利吉の手前で足を止め、微かに眉を寄せた。
「山田殿。少しよろしいか」
「はい」
「失礼だが、衣に蔵の匂いが移っておられる」
 家老は鼻先で軽く手を振った。
「樟脳というのはなかなか落ちぬものでな。ご自分では気づかれぬかもしれぬが、屋敷に仕える者がいつまでも蔵の臭いを纏っていては、奥方様や家中の手前よろしくない」
 家老はそう言って懐から小さな絹の袋を取り出した。薄紫色の絹で、掌の中に収まるほどの大きさだ。
「衣の内に忍ばせておかれよ。樟脳の臭いも紛れるであろう」
 利吉は両手で受け取った。袋を鼻に近づけると、白檀と丁子を合わせた甘い香りがした。
「かたじけなく存じます。最近は町でもよく見かけますね、こうした匂い袋は」
「ああ、近頃は町方でも流行っておるようだな。もっともこちらのものは屋敷の調合だが」
 その口調には、そこらの市井の品とこの屋敷のものを一緒にされては困ると言う矜持が感じられた。家老はそれだけ言って足早に去っていった。
 利吉は匂い袋を懐に入れた。絹を通して白檀の甘さが微かに胸元へ届く。
 ──忍が香など──。
 そう思いかけて、やめた。護衛の任を外され蔵の埃を払わされているおのれが、忍の矜持を持ち出して何になる。自分はただ言われた通りにすればいいのだ。
 利吉はそのまま歩き出した。奥方の部屋が廊下の先にある。今日も雑務の言いつけがあるはずだった。



 奥方から命じられたのは、屋根と植木の点検、それから土井の書斎の整理だった。利吉は午前のうちに屋根の瓦と庭の植木を確認した。どちらも異常はない。それから土井の書斎に入ったのは昼過ぎだった。以前にも片付けたが、まだ奥の間の書庫の整理が残っているのだという。
 部屋の奥の襖を引いた瞬間、墨と紙の匂いが鼻を打った。それは土井がこの部屋で書き物をしている時に漂う空気そのもので、利吉は敷居の前で一度息を止めた。主のいない書斎に彼の匂いだけが残っている。その不在が、このところずっと鈍く痛んでいた胸の底を突いた。
(整理を……しなければ)
 文机の前に座って書付の束に手を伸ばすと、最初の一枚で指が止まる。穏やかで丁寧な筆運びの中に最後の一画だけ僅かに跳ねる癖。読むまでもなく若の手だと分かる筆跡。利吉は書付を一枚ずつ分け、書棚に仕舞うものを整理していった。書棚の書物を並べ直し、硯箱を拭き、筆を整える。土井がどの筆を好むかも利吉は知っている。穂先の繊細な鼬毛の細筆を手紙に使い、白狸毛の太筆は寺子屋の手本を書く時だけ出す。手を淀みなく動かしつつも、一つ仕事を終えるたびに利吉の胸の奥は一つ軋んだ。知っているのだ。この人のことを。筆の好み、書付の癖、硯に墨を擦る時の肩の傾き。それらを誰よりも近くで見てきたのは自分だった。けれどもそれは傍に仕えていたから知り得たことに過ぎず、仕える必要がなくなれば消えていく知識でしかない。
 そのとき廊下側から気配がして、利吉は振り返った。見れば奥方が顔を覗かせている。
「山田殿。進んでいますか?」
「はい。おおよそ片付きました」
 部屋に入ってきた奥方は、書斎から続く整えられた書庫を見回して僅かに目を見開いた。
「山田殿は本当に手際がいい。半助が頼りにするのも分かります」
 その言葉に、利吉の手が一瞬止まる。
「……恐れ入ります」
 奥方に悪意はない。彼女から見た事実を述べただけだ。だからこそ言葉が痛く、利吉は短く答えて頭を下げた。
 奥方は棚の方へ歩きながら、こちらもお願いします、と壁際を指し示した。壁際には書物と巻物が乱れて積まれている。読んだ後にきちんと戻さなかったのだろう。相も変わらず若は片付けが苦手だ。
 利吉は棚に向かった。巻物を一つずつ手に取り、内容を確かめて元の位置に戻す。機械的な作業だったはずのその手が、ふとある巻物の前で止まった。
 それは開かれたままの絵巻だった。描かれた図案に見覚えがある。蛇と稲穂が絡み合うように配された意匠──蔵の奥で手に取った、あの櫛に彫られていたものと同じ。利吉が絵巻を手にしたまま動けずにいると、奥方が傍に来て絵巻を覗き込んだ。
「ああ、それはクシナダヒメの櫛の図案ですね」
 利吉が顔を上げるのに、奥方は続けた。
「スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した折、クシナダヒメを櫛に変えて髪に挿し共に戦ったという話は聞いたことがおありでしょう。蛇は脱皮を繰り返すことから、生まれ変わりの象徴とされています」
 奥方は絵巻の蛇を指でなぞった。
「稲穂は豊穣と繋がりの証。この意匠は古くから領地の村で縁起物として櫛に施されてきたものです。櫛は『奇し』とも読みますね。不思議な、まれなる縁が絶えず続くようにと──そういう祈りを込めた品の絵です」
 利吉は黙って聞いていた。
 胸の奥で何かが疼いた。奥方の言葉のどこかが針のように刺さっている。どの言葉なのか利吉自身にも分からなかった。けれども脳裏にあの夢が蘇った。桜の下に倒れた男の掌に握られた櫛。蛇と稲穂。あの男は櫛を胸に抱いたまま動かなくなった。最後に浮かんだのは穏やかに笑うあの人の顔だった。
 掌がじわりと熱くなる。蔵の暗がりであの櫛を握った時と同じ熱さだ。
「山田殿?」
 奥方の声で、利吉は我に返った。
「いえ──失礼いたしました」
 小さく頭を下げた利吉に奥方は怪訝そうな顔もせず、絵巻を巻き直して棚に戻すよう言い残して書斎を出ていった。
 利吉は蛇と稲穂の頁をもう一度見た。生まれ変わり。まれなる縁──その言葉が重く胸の底に沈んでいくのを、利吉はただ受け止めた。なぜこれほどに重いのか、それは分からないままだった。


***


 日が暮れ、書斎の整理を終えて自室に戻った利吉は着替えのために帯を解いた。衣を脱いで畳の上に置く。その拍子に、懐から何かが転がり落ちた。先程家老から賜った匂い袋だった。
 薄紫の絹が、畳の上にぽつりと落ちている。拾い上げると一日じゅう衣の内にあったせいか体温で香りが温まっており、白檀と丁子の甘さが指先から立ち上って鼻に届いた。
 蔵の匂いを消すように、と、家老はそう言った。樟脳の匂いがみっともないから消せと。蔵の匂いは棚卸しの間に利吉の衣に染みついたものだ。蔵の中で埃を払い、帳面を繰り、衣装箱を開けた。あの黄楊の櫛を手に取ったのも蔵の暗がりだった。全て土井家の蔵だ。土井家に仕えてきた年月が、土井家の命を受けて作業をする中で身体に移った匂い。
 それを消せと言われたことについて、朝は何も感じなかった。言われた通りにすればいいと思っていた。けれども一日を終えた今、この小さな袋が朝とは違うものに見えた。
 書斎で土井の筆跡を見た。筆の好みも書付の配置も知っている。奥方に「手際がいい」と褒められた。手際がいい。何年もかけて覚えた癖を知っているから、手際よく片付けられる。ただそれだけのことだ。
 蔵の棚卸しをした。けれどもその匂いは消せと言われた。護衛を外された。視察にも連れていかれなかった。縁談を勧められた。若に仕える忍である自分が、一つずつ静かに拭い取られていくかのようだった。
 窓の外はもう暗い。若が発った方角の空には星も出ていなかった。匂い袋を畳の上に置くと、白檀の甘い香りが暗い部屋に漂った。書斎に残っていた墨と紙の匂いとは何もかもが違う匂いだ。この香りは屋敷の調合なのだと言う。利吉がこれまで築いてきたものよりも、ずっと長い歴史がこの香にはあるのかもしれない。それはそっそりそのまま若が背負っているのものの重さなのかもしれなかった。

 翌日。町でまた新たな火事が起きたという報せが屋敷に届いた。





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