あなたの紫煙/聡狂(2024.03.07)

 夜道を歩く聡実の鼻を独特のにおいがくすぐって、あ、と思った。
 知らない民家の庭先、塀をへだてた向こうから紫煙が揺れている。聡実は足を急かして、呼び出された記憶を引き剥がすように離れた。
 ちょうど三年である。あの八月に狂児と最後に会ってから。夏の真ん中だけあって、夜になってもさほど気温が下がらず、蒸し蒸しと身体にまとわりつくようで気持ちが悪い。はよ帰って風呂入りたいわ、と考える脳のすみっこで、いまだにあの紅がリフレインしていた。
 高校三年生ともなれば、塾に通い詰めて受験勉強に追われる生徒が大半だろう。無論聡実もそうで、学校の教科書と塾の参考書をリュックに背負い、日も暮れ切った中で家路を急いでいた。
 煙草を見ると思い出す。「中学生にタバコの匂いつけて家に帰らすわけにはいかんなぁって」と言って、結局一度も、一度も聡実の前で吸うことはなかった。
 あの人、どんなの吸うてたんやろ、と思う。狂児がたった一回しか出さなかったあの箱から、銘柄にあたりをつけることはできたけれど、それがどんなにおいがするのか、隣にいてどんな気分になるのか、聡実は知らないままになった。コンビニのレジの向こうを首を伸ばしてそっと窺ってみるとき、いつも息をひそめる。面影を探していることがバレないように。
「ムカつくわ、」
 どこにいるか見当もつかない人に向かって呟く。今もまだどこかで生きているのだろうか。それとも、もうカラオケ大会は欠席して良くなったんだろうか? 三年も経つのだから、そろそろ忘れてもええんちゃうん。自分に対してそう感じているのに、聡実はどうしても、一瞬で過ぎ去ったあの夏を、どこにも置いていくことができないのだった。



 建て付けの悪い窓をガタガタと言わせれば、狂児がこちらを振り向いた。「匂いつくよ」、言いながらいつの間にか部屋に持ち込まれていた灰皿で揉み消す手首を掴みたい衝動に駆られる。
「もうはたち越えてます」
「せやけどなんか、聡実くんから煙草の匂いすんのはな〜」
「ほな、自分がやめたらええんちゃいますか」
「ははは」
 何がおもろいんかわからん。横腹を肘でつついて隣に並んだ。聡実の住むちいさな居室のちいさなベランダで、狂児は何度も紫煙をくゆらせていたが、そこに侵入したのは初めてだった。直径一センチにも満たない、細くて短い棒を手にするときだけ狂児のテリトリーと化す、部屋の区切られたそとがわを窓を隔ててぼんやり眺めていた。
「……煙草、見るだけで狂児のこと思い出すんや」
「へ〜……ほんまに?」
「嘘ついてどうすんねん、六年前からずっとやで」
 狂児は瞠目して、そうか、とつぶやく。さして遠くもない地面にふいっと視線をやって、目尻がすこしだけゆるむ。
「……何見てんの」
「なあんも見てへんよ」
 同じものを、と思って身を乗り出すが、追った先には何も見つけられなかった。狂児はとっくに聡実に向き直っている。どんなん吸うてんの、数年来の疑問に答えを得るのはきっと簡単で、でももっと話すべきことがあるような気がして、聡実は黙って黒い瞳に焦点を合わせた。
「……そんな見つめられたらおじさん穴開いてまうわ〜」
 いつも通りの顔で笑う狂児が軽口を叩く。それにひどく腹が立ったから。
「穴、開いてるやろ」
「ええ! どこ、」
 続く言葉を遮った。あ、煙草って結構マズいんかも。

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