【原利土】頸と心第2部 四年後
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のシリーズの続きです
夢を見ていた。
囲炉裏の火が板壁に二つの影を映している。指が肌を辿る感触。背骨の底から這い上がる甘い痺れに身を捩ると、耳元で名を呼ぶ声がした。低く、掠れて──どこか壊れかけたような声。クロ、と。
──クロ。
目が覚めた。
見えたのは、天井だった。忍術学園の教員長屋の、見慣れた板天井。障子の向こうはもう白みはじめていて鳥の声がする。初夏の朝は早い。障子紙を透かした光は部屋の半分まで届き、畳の目を淡く浮かび上がらせていた。どこかで水を汲む音がする。学園の朝支度が、こちらの夢など知らぬ顔で始まっている。
土井は布団の中で仰向けのまま、長い息を吐いた。
「……はあ」
身体が熱い。夢の残滓が皮膚の下にまだ残っている。あの手の感触、掠れた声、身体の奥に満ちていく感覚。四年も前の記憶が眠りの間にこちらを掴み、目が覚めた今になってもまだ指をほどいてくれない。汗を吸った肌着が背に貼りついている。土井は腕を目の上に乗せ、朝の光を遮った。
「……どうしたもんかな」
誰に言うでもなく呟いた。二十三にもなって、閉じた頁の中に置いてきた十八歳との夢で目を覚ましている。しかも身体だけは正直で、その正直さがまた始末に負えない。
土井は溜め息をひとつ吐いて起き上がり、盥の水で顔を洗った。冷たい水が夢の熱を少しずつ剥がしていく。衣を着替え、出席簿を確認し、今日の授業の準備をする。黒ではなく、忍術学園の教師──土井半助として一日を始めるために。そうやって日常の動作を一つずつ重ねるたびに、夢の残りが水底へ沈んでいくようだった。
午前の授業を終え、昼餉を済ませた頃に来客があった。
職員室の障子は半分開けてある。風が欲しかった。六月の日差しが板廊下を焼き、校庭では子供たちが手裏剣を打っている。その声を遠くに聞きながら出席簿に筆を走らせているとき、廊下に足音がした。迷いのない、長い歩幅の足音。
「──土井先生。お時間をいただけますか」
「利吉くん」
障子の桟に手をかけ、六月の光を背負って立っていたのは利吉だった。出会ったとき十二だった少年は既に十六になり、前に会った時よりもさらに背が伸びて、もう随分と土井に追いついてきた。声は低くなり、顎の線も鋭くなった。それでも目だけは変わらない。あの油断のない目だけはそのままだ。
利吉は最近、フリーの忍者として順調に仕事をこなしているらしい。定期的に忍術学園へ顔を出すようになったのは父の伝蔵に報告するためだが、ついでとばかりり土井のところにも寄っていく。茶を飲み、近況を話し、父親に報告をして帰る。ただそれだけの訪れのはずだった。──いつもであれば。
「上がりなさい」
土井は職員室に通し、茶を出した。立ち上る湯気が開け放した障子を抜ける風に流されていく。利吉は正座して茶を受け取り、一口啜った。相変わらず行儀がいい。以前はあった隙もなくなってきた。ただ今日の彼はどこか違っていた。茶碗を畳に置く仕草が、いつもより丁寧すぎるような──。
「……土井先生」
「何だ?」
「私が大人になったらいいと、以前仰いましたよね」
土井は茶碗を持ったまま固まった。校庭の方から子供たちの掛け声と、手裏剣を打つ音が聞こえる。それが妙に遠く聞こえた。何の話だ──と土井は訊かなかった。覚えていたからだ。利吉が何の話をしているのかを、自分は覚えている。
「……言ったか?」
「言いました」
利吉の目は真剣だった。冗談を言っている目ではない。そんなことは言っていないはずだ、と土井は否定しようとした。あれは言いかけて止めたのだ。止めたのに、利吉が「言いかけたということは思ったということでしょう」と詰めてきて、そのまま言質を取られた形になった。四年前のあの秋の夜の会話を、この青年は覚えている。
いや、もちろん覚えているだろう。これは利吉だ。利吉はそういう男だった。一度覚えたことを忘れない。指で覚えた場所を、身体で正確に──。
土井はそこで思考を止めた。今朝の夢がまだ余計なところで混線している。
「……まあ、仮に言ったとして」
「仮にではなく言いました」
「仮にだ。それで?」
「私はもう十六です。大人です」
「十六が大人かどうかは議論の余地があるな」
「元服の年齢はとうに過ぎております」
正論だ。戦の時代、十三、四での元服も珍しくない。忍としても利吉はすでに一人前で、一人で仕事を取り、一人で生活している。大人かと問われれば、世間の基準では大人なのだろう。
「……だがなあ」
「何か問題が?」
「どうも、がっつきすぎな気がしてな」
「私がですか?」
「いや、私がな」
利吉が、何言ってるんだこの人、という目で土井を見た。同時にその目の奥がほんの僅かに揺れる。涼しい顔の下で緊張している。風が吹き込んで利吉の前髪を攫い、その下の目が一瞬だけ剥き出しになった。
「……がっついて、おられるんですか」
「そりゃあな」
土井は茶を啜った。
「時が来たら、こちらから食ってやろうと思っていたんだが」
利吉が息を呑んだ。涼しい顔がかすかに崩れる。こういうところが、まだまだだと土井は笑う。
「だがな」
「……だが?」
「君と来たら、私に房中術のひとつも教わりに来ないし」
再びの『だがな』の中身に、利吉が再び、何言ってるんだこの人、という顔をした。今度は隠しきれていない。耳が赤くなりかけている。
「……失礼を承知で言いますが」
「言ってみろ」
「先生が閨事の指南ができるとは、とても」
「本当に失礼だな、君」
「すみません。服ひとつまともにお洗いにならない方に、色事のなんたるかが分かるとはとても思えず」
「君が私の何を知ってるんだ」
「少なくとも、洗い物が溜まっているのは存じております。先日長屋に伺ったときも着物が三月分は重なっておりました」
土井はむくれた。事実だから反論のしようがない。
いつの間にか校庭の掛け声は途切れていた。休憩に入ったのだろう。急に静かになった職員室に、湯呑みの中の湯が微かに揺れる音だけが残っている。土井は少しばかり視線を自分の衣服に向けて、独り言のように呟いた。
「……気になるか?」
利吉は目を見開いた。涼しい外面が完全に崩れて、一瞬──十二の時の、あの獣のような目が覗く。
「先生……それは」
「──今のは無しだ。帰りなさい」
「いや、待ってください」
「無しだと言っている。帰れ」
「待ってください。今のは」
「聞こえなかったのか。帰りなさい」
利吉が口を開きかけて閉じ、また開いて、また閉じた。珍しいことだった。この小癪な青年が言葉を失うことなど、滅多にない。
「……本日のところは失礼します」
利吉は立ち上がって礼をした。けれども引き戸に手をかけたところで振り返る。廊下の日差しを背に受けた顔は、半ば翳って表情が読めない。
「──先生」
「何だ」
「今のは、無しですか」
「なしだ」
「……本当に?」
「本当だ。帰れ」
利吉は出ていった。足音が板廊下を遠ざかる。規則正しく、一つも乱れていない。あれだけ動揺しても足音には出さないのだから流石だと思った。
土井は一人になった職員室で、茶碗を両手に包んだまま天井を見上げた。湯呑みの中身はもうぬるい。開け放した障子から入る風が机の上の出席簿を探り、頁をぱらりと捲っていく。
少々──傷ついている自分に気づいた。
色事のなんたるかが分かるとはとても。服ひとつまともにお洗いにならない方に。──まあ事実だ。自分は情の機微には疎いし、洗い物も溜める。生活能力に難があることくらい、自覚している。
だが──なんたる事だ。
閉じられた頁の中のあの利吉だって、あれくらいの嫌味は言った。黒の身体が手に収まるだの、犬か猫みたいな名前だの。あの時は傷つきなどしなかった。
なぜだろう、と考えた。答えはすぐに出た。
あの利吉の嫌味には、必ず裏があったのだ。手に収まる、と言いながらその手で黒の輪郭を覚えようとしていた。犬のようだと言いながら、その名を呼ぶ声は壊れるほど切実だった。あの男の言葉の刃の裏には必ず熱があった。嫌味ごと抱きしめられていた。
けれども、今日話した利吉はそれをしなかった。嫌味は嫌味で、その裏の熱が伝わらない。あれはまだ子供の癇癪に近い。十六のあの青年は言葉の刃を振るっても、斬った後の傷口を塞ぐ方法をまだ知らない。
──つまり。
土井は茶を飲み干した。ぬるい。腹が立つほどぬるかった。それがあの利吉のぬるさに重なるようで、どうにも余計に苛々した。つまり自分は、嫌味を言われて傷ついたのではない。嫌味の後に抱きしめられなかったことが、物足りないのだ。
「……なんて事だ」
呟きには力がなかった。二十三の教師が十六の若者に嫌味を言われて、抱きしめてもらえなくて拗ねている。閉じられた頁の中の恋の記憶が、今の自分をこんな形で狂わせている。今朝の夢のせいだと土井は思った。あの夢を見なければきっとこんなことにはならなかった。あの手の感触を、あの声を、身体の奥を満たしていたあの感覚を──こんなに鮮明に思い出さなければ。
土井は窓の外を見た。校庭を横切って校門へ向かう利吉の姿が見える。背筋の伸びた後ろ姿と、火縄銃を背負った広くなりつつある肩。六月の陽に照らされたその背中は、十八のあの背中にもう追いつきそうな形をしていた。
日差しの中を歩く利吉は一度も振り返らない。少し言いすぎたかもしれない、と土井は思った。
(いや──)
言いすぎてはいない。本心だ。
土井は出席簿を開いて午後の授業の準備に戻った。手元に集中しようとするものの、利吉の声がずっと耳に残っている。校庭には再び子供たちの声が戻り、手裏剣を打つ音に混じって笑い声がした。何でもない午後が始まろうとしている。
『がっついておられるんですか──』
あの時、僅かに震えた声だった。
***
利吉は忍術学園の門を出て、山道を下りながら考えていた。
──時が来たら、こちらから食ってやろうと思っていたんだが。
考えまいとしたが無理だった。あの声が耳から離れない。茶を啜りながら、何でもないことのように彼は言った。そう、何でもないことのように。あの人はいつもそうだ。とんでもないことを何でもない顔で言う。
利吉は十六になってから、土井を口説き落とすつもりで忍術学園に通っていた。明確な意図を持ってだ。計画的に距離を詰め、信頼を積み、機を見て踏み込む。忍の任務と同じだ。その計画が、今日、根底から揺らされた。
口説き落とすも何も、あの人は最初から──こちらへ手を伸ばすつもりでいた?
利吉の足が止まった。山道の途中で立ち止まり、額に手を当てる。整理しなければならない、と思った。
あの人には忘れられない人がいる。それは確かだ。氷ノ山の生家にいた頃から知っていた。いくつもの雪の日に、彼はもう会えない人のことを想う顔をしていた。あの人の中には誰かがいて、その誰かの影がずっと消えていない。
それなのに自分に触れることについては、何ら問題がないとでも言うような物言いだった。私に房中術のひとつも教わりに来ない。食ってやろうと思っていた。──つまり彼は、忘れられない人のことと利吉のことを、それはそれとして扱っている。心にはほかの誰かがいて、そのくせ目はこちらに向く、というような。
好き者なのだろうかと思ったが、そうであればあんなに身なりに気を遣わないはずがない、と利吉はその線を打ち消した。そうして思考の端で、ふと思った。あれは逆に、欠片も意識されていないということなのではないか。
自分のことを恋の相手として見ていないからこそ、あんなに気安く言えるのではないか。食ってやるなどと冗談めかして言えるのは、本気ではないからだ。本気で人を欲する人間はあんな言い方はしない。あの人にとって自分は、かつての教え子で、弟分で、ただ近くにいる相手。心は別の場所にあって、こちらに向けられているのはその余りのようなもの──。
そう思いかけて、けれども、あの顔がよぎった。
服を洗わないことを指摘した時のあの人の顔。色事のなんたるかが分かるとはとても、と言った時の、あの顔。彼はむくれたのだ。むくれて、それから聞いた。気になるか、と。
欠片も意識されていない相手の前で、あんな顔はしない。あれではまるで──。
「なんなんだ、くそ……」
利吉は足を踏み出した。歩きながら奥歯を噛む。分からない。忘れられない人がいるくせに、房中術のひとつも教わりに来ないなどと言う。単に意識されていないのかと思えば、不安げな顔をする。なしだと言って追い出しておいて、追い返す直前にあの目で見た。気になるか、と聞いた時の目。漏れ出たのは一瞬だけだ。けれども確かにあれは──あれは、不安だった。利吉に身の回りのだらしなさを指摘されて、幻滅されるのが嫌だとでも言うような。利吉にどう思われるかを、あの時彼は気にしていた。
利吉は首を振った。
考えすぎだ。いや、考えが足りないのだ。情報が足りていない。だから分からない。利吉は歩きながら記憶を辿った。記憶力を総動員して、あの人に関する全ての情報を洗い直す。
そもそもだ。
そもそも自分があの人にそういう感情を持ったのは、いつからだった。あの人が自分を見る目が、どこか普通ではないと子供ながらに感じたからだ。彼のそれは普通の「お兄ちゃん」が弟分を見る目ではなかった。時折、ほんの一瞬だけ、熱のこもった目で見る。いつもすぐに逸らされていたが、利吉はそれに気づいていた。
あの頃の自分は何と言った? あの秋の夜。布団に潜り込んで、拒絶されて、腹が立って。
『──私に似た稚児でも、いたんじゃないんですか』
彼は否定した。その声に嘘はなかった。けれども利吉はかつての雪の日のことを思い出す。縁側で並んで座った時。もう会えない誰かを想う顔をあの人がしていた時。利吉が「母が父を恋しがる時みたいな顔」だと言うと、彼は否定しなかった。
そして出立の日の朝。あの人は泣きそうな顔で笑っていた。大人を舐めるな──と言ったあの言葉の裏には、利吉の知らない誰かとの時間があった。
今なら分かる。繋がる気がする。稚児はいない、と彼は言った。でも稚児ではない誰かはいた。あの人の忘れられない人は男だ。男前だったと言っていた。利吉と同じくらい、男前だったと。もう会えない人がいる彼は、十二の自分のことを時折普通ではない目で見ていた。利吉を見る目には確かに熱があった。だから利吉は意識したのだ。
(──似てるのか)
利吉は山道の真ん中で立ち尽くした。
(……そういうことか……)
自分は、あの人の忘れられない人に似ているのだ。十二の子供をあんな目で見るほどに。房中術を教えてやろうと言うほどに。食ってやろうと思うほどに。あの人が自分を欲しているのは──。
(私が、『誰か』に似ているからだ)
利吉の胸の奥で、冷たいものが落ちた。
石を呑み込んだような感覚だった。そう考えれば、理屈は通る。色のある目で自分を見ておいて追い出す理由。気になるかなどと不安げに聞く理由。──全部、自分が「代わり」だからだ。代わりだから欲しいし、代わりだから後ろめたい。
筋が通ってしまう。
「……くそ」
思わず声が出ていた。腹が立つ。誰にだ。あの人にか。自分にか。似ているかもしれない誰かにか。──分からない。分からないが、腹の底がひどく煮えている。
それでも、代わりでも構わない、と思う自分がいた。同時に、代わりなどまっぴらだ、と思う自分もいた。利吉は歩き出した。山道を下りながら奥歯を噛む。次にあの人に会った時に、確かなければならないと思った。あの人が自分を見る目を。あの目が自分を見ているのか、自分の向こうにいる誰かを見ているのかを。
確かめて──もし代わりだったなら。
(追い越してやる)
あの人が忘れられない誰かを。似ているだけの影ではなく利吉自身として。出立の日に叫んだ言葉は、今もまだ利吉の中で生きている。
──お兄ちゃんのもう会えない人のことだって、追い越してやりますから。
あの時は悔し紛れに叫んだ言葉の本当の意味が、今なら分かる。あの言葉がこれほど重くなるとは思わなかった。悔しい。悔しくて、熱くて、でも、確かに──。
山道を下りきった時、利吉は気づいた。
自分の心臓が、狩りをする時よりもなお速いことに。
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