サンクスギビング


Hマートの中は、今日も明るかった。

譲介は、店内をぐるりと回って、トイレットペーパーなどの生活必需品を買い込んで来ると言ってカートを押していってしまったパートナーとは一時別れ、カレーに入れる肉を選んでいた。
マトンか、ひき肉か、それとも鶏むね肉か。
「マトンにしようかな……。」と譲介が呟くと、まるで春風が吹き込んで来たように譲介の前髪が妙な具合にふわりと浮いて、どこかに引っ張られていくような心地がする。
「……なんだ?」
そよぐ風というよりは一種の力、だろうか。譲介の髪は、容赦ない力で、強く引っ張られている。
その得体の知れなさは気に掛かるが、流れに逆らわずに譲介は三歩程右にずれた。身体が動いた先のショウウインドウには、骨付きのラム肉。
今日はそう高くはないな、と思っていると、ターキーばかりが売れる日だから、今日だけのお買い得さと白衣を着た肉屋の店員が言った。
じゃあこれを、と譲介は二人分のラム肉を買って、パートナーを探す旅に出た。
あの人は、生活必需品の棚には、もういないだろう。
どちらかと言えば、普段から、それを口実に自分の好きな物を買いに行くことが多い。彼のマイブームは週替わり、あるいは日替わりとなることが多く、今は何が彼の気を引き付けているのかは、譲介はさっぱり分からない。
この間など、カートに一杯のM&Mの大袋を入れて来たのだ。
譲介は、多少は驚いたけれど、もう少し小さな袋に替えてみては、とは言わなかった。メディカルスクールを出て勤め始めてからというもの、ナースステーションで看護師たちが時々紅茶やコーヒーを飲みながら歓談しているところを眺めていると、そもそもコーヒーを飲むのに甘いものが欲しいと思わないのが、逆に不自然だと感じるようになってきたのだ。
それに、口さみしいなら僕とキスしてください、とはわざわざ口にせずともキスをして貰えるようになった四十の和久井譲介は、愛する人に対して若干寛大になった。
今日も、あの人はまた菓子のコーナーにいるのかも、と譲介は思い、会計を済ませたばかりの肉屋を後にした。
いい匂いをさせている焼きたてパンのコーナーの横を通り過ぎようとすると、譲介はまた、あの髪を揺らめかせる風の気配を感じた。
(今度はこっちか?)
悪戯な風に導かれるままに移動すると、犬猫の食事やトイレの砂などが置いてあるコーナーがあった。
「……あいつの餌、切れてたか?」
あの人が日本にいた頃に一緒に暮らしていた黒猫に似た猫を拾って連れて来たのは、譲介との同居を再開して数年目のことだった。名前はあの人が付けた。
愛する人が世界で一番甘い声で呼ぶ名が自分以外の生き物であるというのはなかなかに堪えがたいことではあるが、人生は妥協が肝心だ。
いや、今は、猫よりも、あの不自然な風だ。
砂なのか餌なのか、ちゃんとこちらにも分かるようにして欲しい、とは思うが、どうしてか、今は、何を思っても、さっきの力が戻ってこない。
「何なんだ、一体。」
「……なァに独り言言ってんだよ、ンなとこで。」
「あ、徹郎さん。あの猫の餌って、今足りてましたっけ。」
頑なに猫と言う譲介のことを、TETSUはいつものようにニヤニヤと笑いながら見ている。
「せっかく買い物に二人で来てんだから、餌も砂も、ついでに両方とも買っちまえばいいだろうが。」
「荷物が増えますよ。」
「ヤワなこと言ってんじゃねえよ。カートと車がありゃ、なんとか家までたどり着けるだろ。」
そう言って、TETSUは棚からいつもの餌と砂を引っ張って手元のカートに積み上げる。生き物と暮らすというのは、こんな風に、人生の荷物が増えるということでもあるらしい。
「砂で隠した下に、今日は何を買ったんですか?」
ドリトスの新しい味らしい、普段とは色違いの袋を譲介は眺める。
「帰ってからのお楽しみがありゃ、荷下ろしも楽しいってもんだ。」譲介のパートナーは、そんな風に鼻歌を歌うように呟いた。笑いながらカートを押していくTETSUの横に並び「今夜はラムのカレーにしました。」と言った。
「羊か、豪勢だな。」
たまには骨付き肉もいい、と言って、パッケージを取り上げたTETSUが顔を輝かせている。
ん?
「えっと、徹郎さん、……もしかして、この肉、普通に焼いて食べたいですか?」と譲介が言うと、彼は苦笑した。
「カレーにゃまあ勿体ねえが、腕を振るうのはおめぇだろうが。精々美味く調理してくれよ。」とTETSUは唇の端を上げた。
なるほど、と譲介は思う。
あの気まぐれで妙ちくりんな風に、何らかの意思があったとしても、結局はこの人が僕の好みを優先してくれることまでは、予測できなかったらしい。
どうしたものかな、と考えながら歩いて、ふたりで、レジ待ちの列の前で立ち止まる。
目が合うと、彼が譲介に微笑む。
それで、心が決まった。
「せっかくの肉ですし、カレーは明日でも構いませんよ。」と譲介が告げると、「愛してるぜ、譲介。」といつものように軽く言って、永遠の恋人は笑っている。
譲介は素知らぬ猫のような顔をして、カートを持つ彼の、血の通う暖かな手に、自分の手をそっと重ねてみた。
Hマートの中には、感謝祭らしい、一際明るい音楽が流れている。

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