6-2 迷宮の彼方へ
「悪魔の証明」という概念を知っているだろうか。「存在するものを証明すること」はその存在を見せるだけで証明できるが、「存在しないものを証明すること」は極めて困難、または不可能であるという考え方だ。
例えば、この世に悪魔の存在を肯定するのなら、それを連れてくることで存在を証明することができる。一方で悪魔の存在を否定するのなら、「存在しないこと」を証明しなければならない。しかし、その不在を証明することは非常に難しい。なぜなら「存在しないこと」を証明するためには、その対象をあらゆる場所で探し尽くし、「どこにもない」ことを確認しなければならないからだ。
その結果、「悪魔は存在しない」と証明できない限り、論理的には悪魔は存在する「可能性がある」という結論に至ってしまうのだ。
鳳子はその概念を知ってか知らずか「一ノ瀬濫觴」という人物の存在を確かめるため、ループし続ける迷宮内のあらゆる場所を徹底的に探し尽くした。しかし、膨大な時間と労力をかけた捜索の末。
「……一ノ瀬先輩はこの迷宮にはいない……!」鳳子は悔しさを滲ませながらたどり着いた事実を口にした。
通常、悪魔の証明の範疇では非常に難しいこの証明に、鳳子は到達してしまったのだ。彼女は迷宮内の全ての人々の行動を観測し、誰が、いつ、どこで、何をしているのかを記憶し、さらにそれが四日間のループの中で完璧に繰り返されていることを確認した。そして、あらゆる可能性を排除した結果、彼女は「一ノ瀬濫觴が存在しない」という事実を証明したのだ。
その結論に辿り着くまでには、鳳子の心は摩耗し、幾度も絶望に襲われた。ついに真実を手にしたとき、鳳子の心は粉々に砕けた。
もしすべてを忘れられたら、どれほど楽になれるだろう。そう考えた鳳子は、記憶をリセットするための薬——「Oblivict」を強く求めた。普段は和希が管理しているため、鳳子がその薬を持つことはない。しかし、彼女はどうにかしてたった一錠だけを入手し、それを常備薬のポーチの奥にそっと隠していることを思い出していた。
ふと、迷宮の住人が一人、通りがかる。だが、その人影は鳳子に目もくれず、まるで決められた動きをなぞるかのように、無表情のままどこかへと消えていった。
その背中を見送りながら、鳳子は顔をしかめ、唇を噛みしめる。この迷宮は形だけの空虚な存在だ。それらは自分の存在を無視し続け、実在しない一ノ瀬先輩を選び続ける。鳳子はこの世界においては他の誰よりも「『実在』の一ノ瀬濫觴」のことを知っているというのに、この世界は「『架空』の一ノ瀬濫觴」を認めている。それは偽物であり、虚飾であり、偶像に過ぎないのに——。
◆
「なるほど、それで君は困っていたわけだね」
カンカン帽子を被った、和風姿の青年――|最上一善《もがみいちぜん》が、にっこりと微笑む。彼の視線は教室の隅に向けられていた。そこには、ひざを抱えて小さく座り込む鳳子の姿があった。
最近、中等部の校舎に幽霊が出るという噂が広まり、ついには掲示板に調査の依頼が出された。彼はその謎を解明するため、今夜、中等部の校舎に足を踏み入れた。そして、2年Be組の教室で見つけたのは鳳子だった。噂の幽霊の正体は、迷宮から帰還してからずっとそこで寝泊りしていた彼女だったのだ。
「……はい。柴崎先生や二次さんのお陰で何とか迷宮からは脱出できたのですが……。家に帰る勇気もなく、誰に頼ればいいのかもわからず……ここでこうして……ずっと考え事をして日々を過ごしていました……。幽霊騒ぎになっているとは知りませんでした。ごめんなさい」
彼女の背中は小さく丸められ、薄暗い光に包まれている。彼女の目は何かに囚われたかのように虚ろで、息を潜めている。空気は重く、彼女の周囲だけが、まるで世界から切り離されたかのような孤立感を感じさせる。
教室には、静寂と冷たさが漂っている。窓から差し込む月光が、床に白く淡い光を落とし、机や椅子の影が鋭く伸びている。外は深夜、誰もいない学校の中で、この教室だけがかろうじて存在感を保っていた。壁に掛かった時計が、静かに時間を刻んでいるが、その音さえも遠く、響くことはない。
「ふむ。しかし、その様子では、一人で考えても結論を出すのは難しいようだね。僕でよければ一緒に考えよう。できることがあれば、力を貸すよ」
最上の言葉に、鳳子はわずかに反応を見せた。しかし、まだ迷いがあるようで、視線をそっと冷たい床へ落とし、沈黙を続ける。その様子を見た最上は、そっと鳳子の隣に座り、彼女が言葉を紡ぐのを静かに待った。
「……あの、最上先輩……」掠れた声で鳳子が彼の名前を呼んだ。「なんだい?」と最上は優しく微笑んで彼女を安心させる。その微笑みに、鳳子はついに視線を向けた。
「私と一緒に、迷宮に挑んでくれませんか?」
彼女の瞳は虚ろに揺れながらも、月光を微かに反射していた。鳳子は続ける。
「……解決方法は、あるんです。だけど、私では……私一人では解決できないんです…………! でも、迷宮は解決したい……しなければならない。そう。一ノ瀬先輩は言葉を残しました。だから、どうか、お願いできませんか……?」
その言葉には本物の懇願が込められていた。彼女が本当に迷宮を解決したいと強く願っていることを、最上は理解した。だが同時に、彼女の瞳の奥底に揺れる暗い影も、はっきりと感じ取った。
迷宮から脱出して数日が経ったが、鳳子の心はまだ乱れたままだった。彼女は不安定な状態で、それでも立ち止まることができずに、ただ前に進み続けるしかなかった。その先に救いがあろうと無かろうと。
最上は鳳子の言動を見て、まず彼女から詳細な話を聞くことにした。鳳子は静かに語り始める。迷宮がどのような場所で、そこでどんな現象が起こっているのか。そして、一ノ瀬濫觴が「存在しない」という事実に辿り着いたこと。それにもかかわらず、迷宮の人々は「架空の一ノ瀬濫觴」に投票し、当選し続けているという。鳳子が話し終えるまで、最上はその言葉に耳を傾けながら、頭の中で情報を整理していった。
「それで、君が考えている解決方法とは何なんだい?」と、話し終えた鳳子に最上はそっと問いかけた。
「……投票方式をやめて、勝負事で会長を決めるんです」
「でも、迷宮の人たちは君の言葉に耳を貸さなかったんだろう?」
鳳子は無言で頷き、拳をぎゅっと握りしめた。そして、力強く答えた。
「迷宮の人たちは『架空の一ノ瀬先輩』を認めている。だから、私がその『架空の一ノ瀬先輩』として名乗りを上げます。そして、最上先輩には対抗馬として勝負事に挑んでもらい、勝ってほしいんです」
彼女の作戦を聞いた最上は少し考えた。「架空の一ノ瀬濫觴」の当選を阻止するため、選挙方式を変えるというのは、確かに一つの方法かもしれない。しかし——。
「その提案を受け入れさせるとして、君が『一ノ瀬濫觴』であることを、迷宮の住人たちは認めるだろうか?」
最上の問いに、鳳子は目を鋭く細めた。それは、先ほどまでの迷いに怯えた少女のものとは違い、冷たく嫌悪を滲ませた表情だった。
「認めますよ。だって、あいつら、一ノ瀬先輩のことなんて、何一つ知らないんですもの。きっと姿形も、彼女がどれだけ素敵で、優しくて、解決部を愛しているのか……何も知らないんですよ」
その言葉は冷たく鋭く放たれ、淡々と語られた。
鳳子自身も、歪んだ記憶の中で、一度たりとも一ノ瀬の姿をはっきりと視たことはなかった。彼女と言葉を交わしたのも、文化祭での一度きりだ。だからこそ、鳳子は自分が知るわずかな事実と虚構を織り交ぜ、迷宮の住人たちよりも精巧に「架空の一ノ瀬濫觴」を作り上げ、演じきれると考えていた。
鳳子はその考えを最上に共有した。最上は彼女の中に、狂気じみた盲目的な信仰心を感じ取った。それはもはや偶像崇拝に近いものだった。だからこそ、この鳳子であれば「架空の一ノ瀬濫觴」として成り代わることができるかもしれない。しかし、それだけではまだ十分ではなかった。
「もし迷宮の住人たちが君を『偽物』だと言ったら、どうする?」
「その時は、本物を連れてきてもらいます。私が偽物かどうかを証明するためには、本物を連れてこなければならない。でも、迷宮に一ノ瀬先輩がいないことを、私が完璧に確認しました。だから、迷宮の誰にも私が偽物であることは証明はできません」
鳳子はにっこりと笑いながら答えた。
「なるほど。悪魔の証明だな……。誰も君が『一ノ瀬濫觴』ではないと証明できない以上、君が『一ノ瀬濫觴』となる……。でも、その行動は、君自身の存在証明を揺るがすかもしれないが、その点についてはどう考えているんだい?」
「だからこそ、最上先輩が必要なんです。迷宮内で、あなた一人だけが『私が一ノ瀬濫觴ではない』という真実を知っている。貴方が知るその真実が私を守り、そして勝利することで、迷宮は解決されるんです」
自信に満ちた鳳子の表情には、もはや先ほどまでの虚ろな影はなかった。彼女の瞳には、純粋に迷宮を解決したいという強い意志が溢れていた。最上はしばらく考えた末、にっこりと微笑み、口を開いた。
「いいだろう。困っている後輩を放っておけないし、頼まれてしまったからには協力しよう」
「本当ですか! ありがとうございます!」
◆
解決部の待合室には一人、最上が立っていた。夕暮れの光が窓から差し込み、彼の姿を柔らかく照らしている。彼の手には一つのチェス盤が握られており、この教室で鳳子がやってくるのを静かに待っていた。
あの夜、勝負の方法はチェスに決められた。理由は単純で、会長や部員を預かる者を決めるにふさわしいゲームだと二人が考えたからだ。そして、決められた通りに駒を動かせば、最上を確実に勝たせることができるからだった。
チェスをしたことがないと言っていた鳳子に、最上は棋譜のメモを用意して渡していた。その通りに動かせば、たとえルールを知らなくても、この作戦は成功する。そしてあの夜から二日後――すなわち今日、鳳子から「棋譜を暗記しました」というLINEが最上の元に届いた。それは、迷宮に挑む準備が整ったという合図だった。
だからこうして、最上は鳳子が現れるのを待っていた。やがて、待合室に一人の少女が現れた。最上は一瞬、彼女が別人のように見えたが、すぐに鳳子だと気づいた。
「お待たせしました、最上先輩」
鳳子は無邪気に微笑んだ。そんな彼女には、明らかな変化があった。最上はすぐ気付き、それを指摘する。
「おや、ピアスをあけたのかい?」
「はい! 一昨日、大切な人に開けてもらったんです。それで昨日は一緒にお洋服を買いに行くのに付き添ってもらって……あ、このピアスはその人に選んでもらったものなんです! 私の宝物です!」
そう言って、鳳子は両腕を広げ、くるりと回って自分の姿を最上に見せた。いつも少しボサボサだった彼女の髪は、今日に限ってはきちんと櫛とオイルで整えられ、上品な雰囲気を醸し出していた。普段は黒いセーラー服を着ていたが、今日は白いブラウスに黒いリボン、さらにメガネとニット帽まで身に着けていた。イメチェンと呼べば聞こえはいいが、これは……。と最上は、虚ろな瞳で微笑む鳳子をそっと見つめた。
「さあ、行きましょうか、最上先輩」
「ああ、そうだね。一ノ瀬君の残した言葉を、果たしに行こう」
そして二人は、迷宮へと足を踏み入れていった。
powered by 小説執筆ツール「arei」