No title


 夕陽がこの街でいちばんうつくしく見えるというマンションのベランダで、燃え立つような夕映えがひかりの束となって、街をのみ込もうとしているのを何となしに眺めていた。屋根瓦や電柱、立ち並ぶビル群を赤い炎が包む光景は圧巻で、ほんとうにうつくしいものはひとにおそろしさを抱かせるのだと一護はここに住むようになって知った。
 口に咥えたたばこからぷかりぷかりと揺らめく煙が赤に溶ける。くしゃ、と手のひらで握りしめたたばこの箱は空っぽで、このたばこが最後の一本だった。初めて吸ったときは苦くて、煙たくて、涙が出た。それもいつからか、からだに馴染んで、気づけば手放せないもののひとつになって、そして。
「だから、やめとけって言ったンだよ。おまえが手に負えるヤツじゃねえんだ、あの野郎は」
 ほろりとたばこの先端から灰が崩れた。カラカラ、とベランダの扉を開けて隣に並んだのは二年前まで一護が働いていたバーのオーナー、銀城だ。吐き捨てるような言い草に一護は肩をすくめるしかできない。二年前のあれこれでいちばん迷惑をかけたのはこのおとこだからだ。
 一護は左耳のピアスに手を伸ばして、指先でそのかたちを確かめる。ひんやりと冷たいシルバーのフープピアスは二年前から変わらずに左耳を独占し続けていた。周りはろくでもなしのクソ野郎と口を揃えて言う、あのひとが自分に残したたったひとつの──……一護にとっては大切なもの。
「つまらねえ傷、つけられやがってよ」
 もう一度、ピアスに触れる。寝ているあいだに勝手に開けられた穴が一瞬、じくりと熱を持つ。閉じ込めたはずの記憶はちょっとした拍子に蓋が開き、あざやかに花ひらく。
 ぱちん、という音と、にぶい痛みに目を覚ましたのは夜も明けない朝の四時だった。ピアッサーを片手に「ア、起きちゃいました?」とひっそりと子どもみたいに笑ったおとこと、つい先ほどまで舐められ、齧られていた左の耳たぶのじくじくとした疼き。
 ピアスの穴を寝ているあいだに開けられたらしい。消耗したからだと枯れた喉では抗議するのも億劫で、きっとこのおとこは怒られないためにこのタイミングを選んだのだろうなと思った。強かなのか臆病なのか、わかりやしない。
「大丈夫っスよ。膿んだりしないようにアタシがちゃァんと面倒見ますから」
「……毎日来んの、さすがに嫌なんだけど」
 ほぼ入り浸りのやつに何を言ってもむだな気がする、と思いながらおとこに目を向けると、あまりにもうれしそうに左耳を眺めているものだから、何も言えずにくちびるを引き結んだ。
 ふたりともはだかのまま、やわい布団のなかでお互いのぬくもりを抱いて夜明けを待った。ごそごそとおとこが取り出した小洒落た箱にはシンプルなシルバーのフープピアスがふたつ、きれいに並んでいた。
「一週間ほど経てば穴が落ち着くと思うんで、こっちのセカンドピアスをつけてほしいんス。これをアタシだと思って、肌身離さずつけてくださいね」
「四六時中?」
「そう。つけっぱなしでも大丈夫ですよン。一目惚れだったんです。絶対に一護サンがつけたら似合うだろうなァって選んだの」
 指先でピアスを撫でたおとこは流れるように一護のむき出しの肩にキスをした。
「でも、こんな高そうなの貰えねえよ。誕生日でもねえのに」
「アハハ、高くないっスよ。ただアタシが見つけて、キミにつけてほしくて買っただけ。理由なんて、それでじゅうぶんじゃないスか?」
 東の空がぼんやりと白く燃え始めるのが見えた。てっぺんはまだ濃藍色の幕がかかったまま、その下を水が染みるようにゆっくりとすみれいろが満ちている。そっと盗み見た、夜明けを眺めるおとこの横顔は目を離せばいなくなりそうな、おぼろげな色をしていた。
 まばゆい朝日がおとこの髪をふちどる。彼をかたちづくる要素だけ見れば、天使のようだ。あわい髪いろとふわふわした猫毛。グレーを帯びた翡翠の瞳、白い肌。このひとは遠くない未来、きっと自分を置いてゆく。そんな予感が胸を衝いたのを覚えている。
「浦原さん、」
 媚びた声にならないよう、口にした名前。酸素を奪うように彼のくちびるが覆い被さる。触れた舌からはいつもたばこの苦い味がした。吸ってみたいと言うと、ピアスの穴は勝手に開けるくせに「こんなのからだに毒だからダメ」と常識人ぶって、遠ざけた。
 冷たい足を絡めて、産み落とされる朝を横目に生ぬるい海に揺蕩う。このひとがふつうのひとじゃないことぐらい一護にもわかっていた。言いたくないことは無理に話さなくていい。もし彼が話してくれたときは受け止めようと物分かりのよいふりをして、ほんとうはこわかっただけだ。深淵を覗いたとき、彼がおなじように見つめ返してくれなかったらとおそれた。
 もし、その恐怖を飛び越えていたなら、あのひとの孤独を、空っぽを、満たせたなら、結末は変わっただろうか。
「何、考えてる?」
 記憶に沈み込んでいた一護を呼び覚ます銀城の声と、違うセブンスターの香り。
「別に、何も」
「嘘つけ。まだ未練タラタラってわけかい」
「うるせえな。もう吹っ切ったっつったろ」
「じゃあそのピアスは何だよ。吹っ切ったヤツはフツーそういう相手に貰ったモンはつけたりしねえんだよ」
「これは……その、いいんだよ。貰ったんだから俺のモンだし。つけようが、外そうが俺の自由だ」
「減らず口が」
「放っとけ」
 振り返ると、空っぽになったリビングがある。ひとりで暮らしていたときよりも、あのひととふたりで過ごした思い出のほうが遥かに多い。彼のぬけがらがあちこちに落ちていて、いっしょにつくった朝食はあのひとのほうがおいしかったし、ソファで見た映画はどれも内容を覚えていない。気づけばあのひとの体温にぐずぐずに溶かされて、エンドロールばかりを見る羽目になったから。
 これを未練と言わずに何と言うのだろう。割れたティーカップはもう元には戻らないのとおなじで、原型を留めないほど粉々に砕けてしまった破片をどれだけ痛みに耐え、拾い集めたとて決しておなじにはならない。もうあの日々は還らないし、元には戻らないのだ。
 だから、この部屋を出て行く。もしかしたら、なんてうすっぺらい期待を二年間もし続けた。バカだよなあと自分でも思う。インターホンが鳴るたびに駆け出しては、落胆することの繰り返し。ここに来るわけないのに。そして、諦めたあとは思い出に満ちたこの部屋で停滞を選んだ。いらないと捨てたおもちゃを誰が惜しいと思うのだろうか。
 ある日を境に毎日のように届いていたメッセージは徐々に減り、彼がこの部屋に通う頻度は少なくなった。漂う女物の香水はむせ返るほどつよくて、「臭え」とシャワーを浴びさせても残り香は消えないままで。恋人なら、言うべきだった。浮気じゃないのかと。言えなかったのは自分があのひとの恋人ではないとうすうす気づいていたからだ。
 そのころの自分はどこかこわれかけていたのだろう。好きだった。あのひとがどうしようもなく、狂おしいほどに。はつこいの終わらせ方を知らないまま、変に拗らせた。ついに電話がつながらなくなって、ああ、あのひとはここにおれを捨てて行ったんだなあと思った。
 それでも、一護は確かめたかった。あのひとが自分をどう思っていたのか。勝手なことをするけれど、ほんとうに嫌なことはしなかったやさしいひとだ。だから、もしかしたら荒事に巻き込まないようにと遠ざけたのかもしれない。あの、たばこのように。
 それならば、自分はどんなことがあってもそばにいたい、いさせてほしいと伝えたい。見くびるな、と胸ぐらを掴み上げたい。そんなふうにつらつらと脳内で膨らませた物語は妄想甚だしく、失笑に値するものだった。
 銀城にも「もうやめとけ」とどれだけ言われたかわからない。しつこく探し回る一護をうっとおしく思ったのか、あのひとは一度だけ一護の前に姿を現した。彼は、つめたく、底のない暗い海のような目をして、ため息を吐く。聞き覚えのある仕方ないなァと諦念を乗せたものではなく、それは嘲りと怒りを含んでいた。
「キミ、迷惑なんですよ」
「……え、」
「だから、迷惑だと言ったんスよ。ちょっとからかって、遊んで、そんなおもちゃをやったら恋人気取りっスか? ワラエナイ。あちこちでアタシのこと探し回って、ホントにいい迷惑」
「──……」
「わかりませんか? 飽きちゃったんスよね。キミ、どこまでも普通ですし、セックスだってツマラナイ。あーもしかして、クセになっちゃいました? 男同士のセックス。オンナノコ、抱けなくなったらアタシのせいですもんね。最後にもう一度抱いてあげましょうか」
 つらつらと淀みなく放たれることばの刃は才覚に一護のこころを刺し貫き、切りつけた。傷口から血が流れ出るようにあふれ出る悲しみが止まらない。心臓を直接握りつぶされているみたいに痛くて仕方がなかった。でもそれ以上に、羞恥と情けなさに涙が出そうになった。
 いくらでも確かめる機会はあったのだ。それを無視し続けていたのは自分だ。付き合う、など一言も口にしていないのに、ベッドのなかの睦言を本気にして。だとしたら、この行動は浦原にとって迷惑極まりないだろう。「相手のセフレが本気になっちゃってさァ」「遊び相手に本気になるわけないじゃん。なあ?」居酒屋で交わされるよくある会話どおり。顔を見ることもできず、汚れたスニーカーのつま先をじっと見つめていた。
 勘違いして、押しかけて、恥ずかしい。ぎゅ、と握りしめた手をほどいて、震える息を吐き出した。
「……迷惑かけて、ごめん」
 あのひとが何かことばを発する前に背中を向けて、走り出した。地面を打つはげしい驟雨のなか、びしょ濡れで帰った一護は案の定、風邪をひきしばらく使いものにならなくなった。
 こころに刺さった棘は抜けないまま、それから二年。恋心というのはしぶといもので、本人からトドメを刺されたくせに忘れられない。けれども、この想いに一区切りをつけるのは必要なことだった。どんな生き方をしようと、それは自由だ。どこかで生きているだろう不器用なあのひとを想ってひとり生きていくのも、このまま忘れて新しい人生を歩むのもいい。
 フィルターぎりぎりまで吸ったたばこの吸い殻を、携帯灰皿にねじ込んだ。「こんなのからだに毒だからダメ」鼓膜によみがえる、こちらを甘やかす声。あのひとがよく吸っていたラッキーストライク。でも、もういらない。
 街を燃やし尽くした夕陽は沈み、夜を連れた宵闇が濃く迫っている。別れはすぐそこだった。
「一護」
「んあ?」
「これ、餞別にやるよ」
 ぽん、と投げ渡されたのは黒いひとつ石が嵌められたシンプルなピアス。夜より深い黒にオニキスだろうかと首をかしげるが、銀城は詳しく語る気はないらしく「つけるも外すもおまえの自由だ」と口角を吊り上げて笑った。
「そろそろ行くぞ。空港まで送ってやるよ。そういやどこ行くんだっけ?」
「双子の片割れがドイツにいるんだよ。アクセサリーデザイナーやっててさ。そこに転がり込む予定」
「帰ってくんのか」
「……しばらくは帰んねえかな」
「そうか」
 ベランダの鍵を閉め、荷物を手に深く息をする。もう一度、ピアスに触れた。
「さよなら、」
 

 
 


 

powered by 小説執筆ツール「notes」