待つも奔るも唯一人
しくじった。気付くのが遅すぎた。料理でも食材でもなく、食器の方に仕込まれているとは。贔屓にしているつもりの店だったが、いつ寝返られたのか。儂としたことが見抜けなんだ。
朦朧とする視界に抗い椅子を蹴った、途端に足元がふらつく。テーブルについた手はかくりと折れて、倒れ込む身体を支えられなかった。胃の中身を吐き出せば或いはと思ったが、間に合わなかったか。
「せん……」
先生と言いたかったのであろう秘書が、呻き声と共にくずおれる気配がした。荒々しい靴音と飛び交う怒声が急速に遠のいていく。
別行動の意知は無事だろうか。あやつさえ大丈夫なら、どうとでもなる。意知から、〈あの男〉に、連絡さえ取れれば。
そこまで縋りついて、田沼意次は意識を手放した。
右半身に冷え冷えとした不快感を覚えて、意次はうっすらと瞼を開いた。見慣れぬ光景が焦点を結ぶ。絨毯の一つも敷かれていない部屋に、意次は身体の右側を下にして寝転がされていた。道理でやたらと視点が低い。
反射的に立ち上がろうとして、上手くいかずに膝をぶつける。ふんと鼻を鳴らして姿勢を戻した拍子に、足首の拘束具がちゃらりと音を立てた。背中に回された両手首にも、恐らくは同じ器具が巻かれている。
「お目覚めのようですね。ご気分は如何ですか」
聞き覚えのある声が頭上で響いた。意次の口の中に苦い味が広がる。慣用句としての辛酸と、薬による物理的な苦味の両方だった。
「ああ、実に爽やかな目覚めだ。コーヒーを一杯所望したいところだね。それから皺にならんうちに、スーツにアイロンをかけてもらわねばならんな」
毒づいた言葉は呂律が回りきっていない。意次は心の中で舌打ちした。指先の感覚がまだはっきりしない。野郎、相当キツい眠剤を使いやがったな。意識を喪失してから駄目押しに麻酔を打たれた可能性もある。儂は熊か何かか。
「皮肉を仰る元気はあるようですね。しかしあまりお話しになりませんよう。舌を噛まれます」
「お前さんに言われんでも分かっとるわい」
意次は首を捩って声のする方を振り仰いだ。後頭部をごりごりいわせながら、コンクリートの天井に打たれた黒い点をじろりとねめつける。魑魅魍魎跋扈する政界を長年渡り歩いてきた眼光も、無機物の前では些か効果を発揮しかねた。
「何が目的だね」
天井に取り付けられたスピーカーから物々しい声が降る。
「財務大臣・田沼意次。先月三十日に表明した全面的減税方針、並びに国家財政改革案を直ちに撤回せよ」
「断ると言ったら」
「貴殿の政治家生命はここで絶たれるだろう。脅しではない、我々は貴殿の今後を左右出来るだけの確かな情報を掴んでいる」
意次は隠すことなく片頬を歪めた。どうせ何処かにカメラも設置してあるのだろう。そうでなければ意次が目覚めたことを把握出来ない。
「儂の命運を握れるほどの情報。はて、何のことかな」
「惚けても無駄だ」
「ちがわい。心当たりが多すぎて分からんのだよ」
スピーカーは鼻先で笑った。口調がいよいよ乱暴になる。これとよく似た言葉遣い、よく似た声音で事あるごとに批判してくる同業者を、意次は一人知っている。確かに反田沼派の急先鋒にして代名詞のような存在だが、彼とて暇な身体ではなかろうに。やれやれ、ご苦労なこった。
「賄賂政治家の名に恥じぬ発言だな。ならば説明してやろう。三月前、貴方は営利法人Gグループの創立二十周年記念パーティーに出席した。そして式典の最中(さなか)密かに別室に呼び出され、グループ総取締役から多額の現金を受領した」
ああそのことか、と意次は欠伸混じりにのんびり言った。
「彼とは以前より懇意にしておってな。別な企業の催しで知り合って……そうだな、もう三十年近くにもなるか。彼が独立して会社を立ち上げた時も、ライバル他社に悪質な営業妨害を受けた時も、儂が何くれと手助けしてやった。今回のはその礼ということだったよ。しかしまあ、秘書に報告を受けた時は驚いたね。まさか礼の正体が菓子に見せかけた一千万円だったとは。何せ奴は、中身については一言も教えてくれなかったのだよ」
「貴方は現金と引き換えに、公共事業の際はGグループの子会社・秩父鉱業が手掛ける資材を優先して購入すると約束した」
「お前さん、そりゃ誤解が混じっとる。儂はそんな約束なぞしとらん。手厚い返礼の品を渡された時にたまたま、そういえば良質な鉄骨を扱っとる企業がGグループの中にあったな、とふと思い出して、ちょうど目の前にいた友人に合っているか確認しただけだ」
「ほざくな!」
拳を叩き付けたと思しきざらついた音が響く。同時に嫌な高音がうわんと部屋中こだまして、意次は派手に顔を顰めた。
「おい、マイクの前で怒鳴るな。こっちはまだ誰かさんに盛られた睡眠薬が切れていないんだ。全く、老体を労ろうとは思わんのかね」
続く罵声を聞き流しながら、意次はなるべく高速で頭脳を回転させた。明晰な思考を妨げていた靄がようやく晴れてきたのだ。
まず現時点の状況は、財務大臣が出先での夕食中に誘拐され脅迫を受けている、という絶望的なものだ。家中の混乱やマスコミへの流出を懸念すべきところだが、意次はさほど心配していない。自分が留守にしている間は、意知が万事上手くやってくれるだろう。あれは本当に良く出来た息子だ。たまさか彼が自分の長男として生を享け、己の跡継ぎを志してくれたことを、意次は何事につけ感謝させられている。
となると問題は意次自身の身の安全だが、これも意次はさして憂えていなかった。意知が真っ先に父の危機を伝えるであろう当てと、その人物は必ず自分を救出しに来るという確信を持ち得ていた故である。そしてその人物の腕前にも盤石の信頼を置いていた。今の意次に可能な唯一の行動は、〈彼〉が駆けつけるまでの時間稼ぎだ。
ただ一つだけ、溶けない不安があった。意知にまで魔の手が及び、彼が自分と同様に捕らわれている可能性だ。その時は部下の誰かがこの事態を〈彼〉に知らせる手はずだが、それは意知が無事だった場合よりも格段に遅くなるだろう。身内の混乱も多少は免れ得ない。意次は優秀な部下、党内の味方を多数抱えているが、意知に敵う腹心の者などいるはずもなかった。
尤も、今到着を待ち侘びている男だけは例外だ。如何なる時も意次の意をほぼ正確に汲んで動くことが出来るが、政界とはまるで縁遠い場所にいる。自分との間に何一つ憚る必要の無い、肝胆相照らす仲の男だった。
「聞いているのか、田沼意次!」
「あーすまん、さっぱり聞いとらん。もう一度初めっから喋り直してくれんかね」
伸ばした足の踵を起点にして、どうにか意次は身を起こした。床に這いつくばったままでは風邪を引きかねない。
「……貴方の選択肢は二つに一つだ。我々の要求に従うか、拒んで職を失うか。予め宣告しておくが、抵抗だの交渉だの無駄なことは考えず、素直に従っておくのが吉だぞ。我々は先程の件を即座に記者どもへ知らしめることが可能である、この動かしがたい力関係をくれぐれもお忘れなく」
「儂が今『はい仰せのままに致します』と頷いたところで、その後約束を守るとは限らんだろう。解放さえされれば裏切る確率の方が明らかに高いぞ」
「安心しろ、ことは貴方がそこに転がっている間に片付く。『財務大臣による緊急声明原稿』なら既に用意してあるからな」
意次は長々と息を吐いた。
「お前さん方よお……仮にも頭で勝ち上がってきた人種だろい。勝負敵にゃ言論を以て戦おうとは思わんのかね」
「理想論だな。政治家が水面下で根回し手回しを尽くすのは、国を問わず古来よりの習わしだろうが。真っ向勝負のみで政敵が減るなら苦労はしていない」
貴様のような人種なら百も承知のはずだが、と言いたげにスピーカーはせせら笑う。意次こそ詭弁であるのは骨身に染みて理解している。助けは、まだか。
「そりゃまあそうだがね。打って出るにしてももう少し賢い方法というか、折角の出来た脳みそを有効に使おうや、と言っとるんだよ。こういう狡い、強引な手段じゃなくてな」
「政界の金脈を押さえている貴方に言われたくは――」
噛み付く怒声を遮り、スピーカーの向こうで凄まじい爆発音が轟いた。意次は反射的に耳を塞ぐ。びぃんと鳴った空気の震えが収まってから、はたと気付いて、まじまじと己の両手を見つめた。手首に拘束器具の残骸がぶら下がっていた。
自由を得た手で足首の拘束具を外す。このご時世の常というか、どうやらこの器具は電子式のようだ。捕縛対象に近付くことなく、遠隔操作で開閉出来る。即ちハッキング技術を持った者にも、同じことが出来るという訳だ。
靴裏の感触を確かめながら肩幅に床を踏みしめ、そろそろと立ち上がる。出し抜けに壁の一部が吹き飛んで、まだ足元の覚束ない意次は危うく腰を抜かしかけた。立ち込める埃を背負って現れた人影は、気楽な調子でひょいと片手を上げた。
「いよーう。っと、これぁ財務大臣様相手にゃ軽すぎるか。昔の癖が抜けなくていけねぇや」
巻き舌混じりに喋りながら、つかつかと人影は歩み寄ってくる。奇抜な服装に、奇妙な髪形の男だった。
やたらめったら高いヒールのロングブーツで、散らばった瓦礫を器用に越えてくる。敵地にもかかわらず纏っている服は色鮮やかで、しかも大量にびらびらした装飾が付いていた。幾つかは隠しポケットになっているのだと以前聞かされたが、それを差し引いても着用者の趣味に素直過ぎるデザインだ。一本に編んだ長髪を後頭部で丸め、金の簪を何本も刺して留めてある。大急ぎで駆け回ってきたためだろう、ほどけかかった団子から毛先が肩に落ちていた。
立ち止まった足で瓦礫と拘束具の欠片を踏み潰し、待ち望んだ男はにかりと白い歯を見せた。
「では改めて。田沼様、お迎えにあがりました」
この早さからすると、幸いにも意知は無事だったようだ。男の一動作毎に揺れて弾む簪を、意次は無断で引き抜いた。しゅるんと気味の良い音を立てて髪が滑る。失くされてはたまったもんじゃない、これは意次が贈った高級品なのだ。
「挨拶なんぞ別にどうでも構わんがの。もうちっとばかし静かに登場出来んのか、源内」
「そういうのは俺の好みじゃないんで」
平賀源内は軽く肩を回して、さながら騎士の如く意次の手を取った。
「さーてと。逃げますよ、田沼様」
源内が不敵に笑った。意次も微笑む。部屋の内でも外でも警報が響き渡り、増え続ける足音は皆こちらを目指している。それでも意次の胸に恐怖は湧いてこなかった。
「頼んだぞ、源内」
捕らわれていた施設の屋上で空を仰ぎ、意次は呆れかえっていた。迫ってくる無骨な羽音に負けぬ程度の声量でぼやく。
「なんでヘリコプターなんだ。もっと効率の良い移動手段は他にいくらでもあるだろう」
「やだなあ、田沼様ともあろう御方が。ロマンってやつですよ、ろーまーん」
節を付けて楽しげに口ずさみ、ついでのように源内は言い足した。屋上に辿り着くまでの逃走劇で髪紐が切れてしまい、長髪は無造作に流されている。
「最新の光学迷彩を俺手ずから施してますから、レーダーには引っ掛かりません。そんでもってこの施設の対空設備は全てお釈迦にしてあります。全機能回復には早くて三日」
それを早く言わんか、と返そうとして止めた。この男は人を驚かせるのが生きがいなのだ。最前地面が揺れたのだって、階下の何処かで仕掛けた罠に追手が掛かったと見て間違いない。どこまでも爆発の好きな男だ。
頭上の『ロマン』もとい機体が降下し始めた。揃って見上げる意次達の服が、風を受けてはためく。
「ねえ、田沼様」
なびく髪に半ば面を覆われながら、源内は唐突に呟いた。
「人が空飛ぶ夢見て、何が悪いんですかね」
その声音は、常の如くからりと乾いていた。革靴の踵を鳴らして、意次は一歩源内の方へ近寄る。ヒールのために身長はおよそ同程度に並んでいた。
「何も悪くありゃせん。お前みたいな生き方の人間がいたって良いじゃないか」
「俺ぁ社会のはみ出しもんでさぁ。どうしようもねえ男ですぜ」
「儂がついておる」
腕を回して、意次は源内の薄い肩を抱いた。轟音の元でも聞き取れるよう、髪を払って耳を出す。
「儂はお前を支える。だからお前も儂を支えろ。それで何か不満があるか」
源内は目を閉じて、緩やかに頭をもたせかけた。意次の腕の中で、くつくつと笑い声を噛み殺す。
「参りましたね。田沼様も十分どうしようもねえお人だ」
「ああ、そうだな。揃いも揃って、どうしようもない奴等だ」
寄り添う二人の前に、縄梯子がするすると降りてくる。意次は操縦席に座しているであろう顔見知りの人物を慮った。ロマンを追い求めるのは結構だが、付き合わされる方は大変だ。その程度で音を上げるようでは、源内の配下など務まるべくもないとはいえ。
先に上らせた意次の背中を追いながら、源内は声を張り上げた。
「あ、そうそう田沼様。ヘリに乗ったらオールバック直した方が良いですよ。今のままだとすれ違った人間が全員色気で卒倒します」
意次は視界で踊っている前髪をちらりと上目に見やった。手で撫で付ける程度では、またすぐに落ちてきてしまうだろう。やはりワックスが必要だ。というか先に風呂に入りたい。
「まあ妬くな。後で簪を返すから、そん時に直しとくれ」
満更でも無い意次の口ぶりに、世紀の天才発明家はきっぱり無視を決め込むことで応えた。
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