寝坊
――仁志、お前、それ流行るで。
それは久しぶりの「オレだけに向けられた」笑顔だった。
そんでもそれが、落語ではなく、苦し紛れに場を取り繕うために出た言葉のせいだったことで、後になって、嬉しさよりも、悔しさがこみあげて来た。
そう、オレは悔しかったのだ。
おいオヤジ、無責任なこと言うなや、また落語が嫌いになるやんけ。
あの時言えなかった悪態を、面と向かって口にしようとしたところで目が覚めた。
「何や、夢か……。」
夢枕に立ったその顔が、あまりにもカラッとした笑顔だったから、オレは、これが夢の中だということも、オヤジを病で亡くしてもう数年が経つことも、すっかり忘れてしまっていた。「腹立つなあ。……文句のひとつくらい言わせろや。」
ポポッポポウ、と土鳩が鳴く中で顔を上げ、目やにがついた目を擦ってから壁掛けのカレンダーに目を遣る。
「……案外分かり易いやっちゃな。」
オヤジの月命日には、仕事のマークがついていた。
今日はオヤジではなくて、おかんの月命日だ。
しゃあないな。
今日は昼か夕方か、どっちゃでもいいけど、仏壇拝みに行くか、と布団から起き上がる。ついでにおばはんの顔も見に行ってやらんと。
最近は、部屋に仏壇を置くような家もほとんどなくなってもうて、もう半分年金暮らしみたいなもんや、そうなると、みかんやら菓子やらがやたらと高いように見えてくるねん、と愚痴を言っていた。それでも、相も変わらず、日暮亭景気で賑わう界隈にぽこぽこと出来た新しい店にやたらの浮気もせずに寝床一筋で通っている様子ではあって、それならオレが差し入れしたらんとな、という気持ちがある。
寝床にも顔を出すなら、四草のヤツを誘ってみるか、と思ったが、朝から仕事があると言っていた日が今日だったかもしれない。
日暮亭では最近、草々の一家があの二階から居を移してからというもの、『落語の朝活』と称して早朝寄席などをやっている。
これまでは十時過ぎから始めていた朝一番の番組を、平日は、仕事の前に聞いて行けるという七時台に持って来たのだ。
割引の利く十時からの会を楽しみにしていた高齢者層には不満の向きもあるらしいけれど、この大都会、梅田に通うサラリーマン世代や、近所に住む早起きの暇人が、木戸銭を一枚払って一日を生の落語で始めるという試みは、始まって三か月、割と受け入れられているようだ。
木戸銭を五百円玉一枚にするか千円札にするか、というので揉めてはいたが、小学生も聞きに来れるようにしたらどうやろ、という子ども代表の鶴の一声で、安い方に決まってしまった。
四草は、宵っ張りのくせに、キャリアの短い噺家が多く出ると聞いた途端に、食いつきが良くなって、久しぶりに目下の人間にうどんを奢らせる機会がやって来たとばかりに、やたらと早朝寄席に出たがっているのだ。
無名の新人連中の出番ばかりなら、落語好きの物好き連中で見に来る常連の顔が固定されてしまうものだが、界隈の落語通以外の間にも顔の知られている四草が出るとなると話が違う。当初に想定した以上の盛り上がりになってしまい、落研に所属しているような演者を兼ねた学生アルバイトだけでは手が足りなくなってしまった。早朝に前の道路に大渋滞を引き起こすほどの日暮亭を誰が切り盛りするかという話になったのだが、これには「はいはいはい!」と若狭が勢いよく手を挙げた。
上の子が自分で弁当を詰められる年になったせいもあってか、平日夜のシフトを、独演会やら特別興業がある日だけに絞って、毎朝毎朝、朝もはようから六時に出勤しているという。子どもの面倒を見るのをサボりたいという目論見が半分の四番弟子と違って、うちの末っ子になった妹弟子は、若い頃と変わらない頑張り屋さんのままだ。
一時は、その粘り強さを、眩しすぎて見てられんと思ったこともあったけど、今はもう違う。
「……オレも気張らな、あかんな。」
何か腹に入れて仕舞うか、と思って冷蔵庫を開けると、ほとんど水と酒しか入ってなかった。牛乳が飲みたい、と思えば四草のとこに行くしかないのだ。
昨日買って来た卵も、牛乳も、全部あいつの家の冷蔵庫だ。
「どないなってんねん。」と一人でツッコミ役をして頭を抱えてしまった。
するのは久しぶりとあって、緊張して寝床で酒を引っかけてから帰って来たとはいえ、これでは、皆、お前にやる~、の一八である。
せめて牛乳くらいはこっちに置いとくべきか、と考えた記憶はある。もう十五の子どもでもないオレが、1Lのパックをひとりで飲み切れる気がしない、と言って隣に押し付けたのだ。まあ、オレにとって、牛乳だの卵だのがただの口実であることをそろそろ認めるべきやろうとは分かってるけど。
あの顔が毎朝見たい、というのが、そもそも重傷や。
寝癖で跳ねた髪と不機嫌そうな寝起きの顔が、隣に座るおちびより可愛く思えて来たのがいつからだったかは、もう覚えていない。
「……オレも大概やな。」
髪を掻いて、流しで顔を洗う。
水をもう一杯飲んで、とりあえずパジャマを着替えるか、と思って振り返ると、座布団の上に四草のジャケットが置いてあるのが見えて、手に持った水のコップを落としそうになった。
――お前何やってんねん……!
朝までいます、と寝ぼけたことをいう男の背中を、お前はもう「お父ちゃん」やろが、とぐいぐい押して隣に帰らせたとき、確かにジャケットは着てなかった気がする。
ほとんど服を持たない四草のアウターは、ワンシーズン一着切りだ。
ぼんやりとジャケットを見ていると、隣から物音が聞こえて来た。
「草若ちゃん、はよう来てや! 卵焦げてしまう~!」とSOSの声。
うわ、日本家屋、壁が薄過ぎるで。
……若狭も草々も、あいつらどうやって子ども作ってたんやろ。
「今行くわ!」と返事をして、恋人か家族かイロかも分からない、長い付き合いになった男のジャケットを引っ掴む。
朝やな、と思いながら、パジャマのままで部屋を出ると、隣からは、こっちの頭の中をかき回すような平兵衛の声が、また聞こえて来た。「ネボウヤデ!ネボウヤデ!」
ああもう、うるさいわ。
「おはようさん、入るで?」と隣の部屋をノックすると、どうぞ、という可愛い子どもの声が中から聞こえる。
背中に回した手に持ったジャケットをどんな算段で誤魔化そうか、と考えていると、中からオムレツの匂いが漂って来た。
確かに、何かが焦げた臭いような匂いも漂ってきていて、「まだまだやなあ」とオレは目を細めた。
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