因果、それだけ
雪げぬ罪に染まる身に薄衣を着せ
1
京都の春は騒がしいかというと、案外そうでもない。旅行客で溢れかえるのは主に週末であるし、平日にも騒がしいはずの学生たちはある期間を境にパタリと居なくなる、ことはまれだが、落ち着く瞬間がある。授業というやつが始まるのだろう。静馬は静かになった周囲の部屋を思うが、思うだけでやっていることはただ惰眠をむさぼることだけだ。夜はほとんど眠れない。それでもやっていられるのは、ひとえに己が生活の破綻のおかげである。
静馬が京都に越して来て、もう十年となる。
全ての縁と過去を捨て置いて、どこでもいいから一室、と駆け込んだ不動産屋は主に学生を相手に商売をしており、あてがわれたのは学生寮も同然の共同住宅の一室だった。聞けば、住んでいた学生がことごとく郷里に帰ってしまうのだと言う。その理由も聞かずにその部屋で良いと二つ返事をすれば、不動産屋の親父はあからさまにほっとしたような表情で手続きを進めた。どうせ、失敗した自殺の代わりに西へとやってきたのだから、どこに住んだって同じだ。静馬はそんな自暴自棄で契約書も読まずに印鑑を押したのだった。
住んで数日もすれば住んでいた学生が郷里に帰る理由というのも理解が出来た。ただその理由は静馬にとって些細なことであった。
一度、腹違いの兄が押しかけて来た時にはあまりの粗末さに言葉を失い、今すぐ引っ越すよう諭されたが、今のところ引っ越す理由が静馬には無い。大企業の社長をしている兄は多忙を極めている身の上のはずではあるが、それでも定期的に顔を出しては、静馬に引越しを勧めた。
そんな望まぬ来客は何度もあれど、静馬はこの十年、何もしていないに等しい生活を送っていた。ただずっと、ぼんやりと生き、口座を見れば何故か金が入っており、そこからほんの少しの金だけ下ろし、糊口を凌ぐ。そんな具合で生きていた。きっと金は兄が入れているのだろう。桁が間違ってるとしか思えない帳面を見るたびに静馬は気が重くなり、破滅すら出来ない自分の身の上を嘆くことも出来ず通帳を小さな押し入れの奥底に押しやった。
約五畳のぼろ家は、せんべい布団を敷いてしまえばもう足の踏み場も無い。万年床、とは言うものの、実情はもう少し衛生的だ。静馬は布団の上に体を放り出した。
俄に部屋の外が騒がしくなってきた。この部屋には時計が無いので分からないが、窓の外はどっぷり暮れている。この時期に騒がしい帰宅をする奴らは、既に酔いが回りきっている。
もう、そんな時間なのか。静馬は布団に入り、息を殺した。他の部屋のどこかで鐘が鳴る。何らかの時間の、ちょうどを示す音だ。
喧噪が遠ざかる。同時に、無遠慮に扉を開ける音が聞こえる。鍵はしまっていたはずだ。
これが、住人が居つかなかった理由だ。
扉が閉じる音がして、次いで鍵が回った。部屋に入ってきた人物はまっすぐに布団の方へと向かってくる。床板を必要以上に鳴らす足の持ち主は大柄な人間だとすぐに分かる。静馬は布団を少し下げ、この無法者の顔を拝もうとするが、顔は見えなかった。部屋にカーテンは無く、月明かりが入り、指先まで見えるほど明るい。だというのに顔が分からないのは不思議なことだ。
男はかけ布団をはぐ。静馬の体は外気を受けて震える。それを哀れに思ったか、男は労るようにそっと撫でた。撫でた感触はあまりに弱く、生ぬるい風が吹いたかのようだ。男の口が開き、何かを言うように動く。びゅうお、と乾いた風の音が聞こえるばかりで、男の声は聞こえない。男の手は存外優しく静馬の服を脱がせていく。
一枚、また一枚と服が脱がされていくのに、春のいっとう優しい風でも撫でられたような感触しかない。脱がされることを止めようともせず、ただ息を詰める。されるがままの様子に気を良くしたのか、男が笑うような様子を見せた。嘲笑っているのかと思えば、そうではないらしい。男は嬉しそうに唇を求め、何度も重ねていく。それだけ顔が近付いているのに、男の顔は雲でも掛かったかのように見えないままだ。そして何度も繰り返される口吸いで触れる唇も、風が通り過ぎているように心地が良かった。
嬉しそうに体を触る男が目の前にいる。愛していたのだろう。この部屋に、以前居た男を。そして、その男から愛されもしていたのだろう。この体の触れ合いは双方に求めていないと有り得ない。いつのまにか静馬の腕が男の首に絡んでいた。もちろん、静馬の意思では無い。ここに、確かに居たはずの誰かが、他でもない静馬の体を勝手に使って、そうさせているのだろう。そうであるなら、この自分という不必要な意識を失わせてくれたなら良いのに。
触れた箇所は分からずとも体は否応にして高まっていく。男が触れた部分は妙な熱を持ち、静馬の性感を煽るため、声を抑えるのに必死だった。ぼろ家の壁は殊更に薄く、ほんの少しの声でも隣室に届けることは、他でもない静馬がよく知っている。多感な隣人たちにあられもない声を聞かせてしまったら、どんな噂が飛び交うか分かったものではない。そう思い息を詰めるが、声を上げないように体中の力を込めるほどに熱は静馬を煽る。
周囲はいつのまにか見知った部屋では無くなっていた。同じ部屋の間取りではあるが、どこもかしこも新しい。窓はガラスではなく、木戸になっている。灯りはどこだと周りを見渡すと、近くに小さな豆電球がぷらぷらと揺れていた。そんな静馬の動きを嗜めるように、顔も見えない男の唇が上から降ってくる。そうしてきっと二人で笑い合っているのだろう。奇妙な喉の震えを見つめながら静馬は想像した。まだ新築も同然の木の風合いであったの独特な香りを吸い込み、静馬は震える息を吐き切る。
愛した存在をこの世の宝であると雄弁に語る指先は静馬を追い詰めていく。それは快楽でもあり、そして精神的なものでもあった。
いつか、愛した人はいた、はずだった。
もうどこにも無い。愛した人も、愛された自分も。
瞳からは液体が流れ落ちるのが分かる。それを静馬はわざと無視した。いつかは、もうどこにもありはしない。
男が触れる場所は確信に近付きつつある。この悪夢のような時間も、もうすぐ終わる。
「っ、あ」
最後の最後と言ったところで、静馬の口からは小さな声が溢れてしまった。それはこの奇妙な現象に苛まれてから初めてのことだった。
やってしまった。そう思った瞬間、周囲の幻覚は消え失せた。部屋は明るく、窓から差し込むのは太陽の光だ。遠くで鳥の声も聞こえる。
朝だった。
直前まで自身を抱いていた何かは既に影も形もなく、ただ寝汗で濡れそぼった布団と静馬だけが取り残されていた。
2
「相変わらずあのぼろ家に住んでるのか?」
京都駅前の古めかしい喫茶店で待ち合わせた兄は、開口一番そう言った。
冬の一番寒い時期である。着席早々に注文を聞きに来た給仕に、ホットコーヒーを二つ頼む。
「……兄さんには関係無いだろ」
不愉快になりながらもそう答えるが、兄は納得行かない様子で煙草に火を付けた。煙草の煙はゆるりと天井に昇ってゆく。
一年ぶりに兄の顔を見たが、以前会った時よりも顔色が悪い。きっと仕事が忙しいのだろう。ほら見たことか、と静馬は心中で毒づく。
腹違いの兄は正妻の子であり、正しく台場の子として育てられた。私生児として育てられた静馬とは大違いの人生だ。そして順当に家業の建設業を継いだ。家業である台場建設と言えば、東京を中心に大規模なビルの建設を担う大企業である。家業を継ぐことを彼がどう思っていたかは分からないが、静馬にしてみればあんな呪いのような家業とは関係無いほど良い。全てを捨てた静馬とは違い、何も捨てられない兄の姿にいっそ憐憫さえ覚える。
そもそも、兄は昔から捨てるのが苦手な男だった。幼少期は少しばかりの交流をしただけの関係ではあるが、それでも分かる。綺麗だと言っては簡単に様々なものを拾い、捨てるのはその十倍悩む。物でも、人でも。せめて逆であったなら彼の近辺はもう少し静かであっただろう。その騒がしさが、昔から苦手だった。
捨てられないものの筆頭が自分であることもまた、静馬にとって憐れと思わざるをえない。自分は、今や何も出来ないお荷物だ。今だけではない。彼の人生にとって、自分という存在が利益になったことは無い。どうしたって何の利にもならない。だというのに、忙しいはずの台場建設社長が睡眠時間を削ってでも会う時間を作っているのは、明らかにおかしいことである。こんな自分を捨て置けばいいのに、そう出来ないのはただ彼の性質故だ、そう思えば思うほど、つい、兄の手元を、じっと見てしまう。
視線に気付いたらしい兄は吸うかと聞き、静馬は首を振った。いつのまにか兄に馴染んだ喫煙の仕草は、静馬にとってもう遠いものだ。
静馬が京都に居を移したくらいから、兄は煙草を吸い始めた。それまでは、好きじゃないの一点張りで触れていなかった。その心変わりの真意を静馬は聞いたことがない。ただ、この十年の間で兄は離婚をしていた。元妻とは仲睦まじくしていたように見えたのだが、そうではなかったようだ。しかし人は変わるし、人と人との関係など他人には分からない。子供は兄が引き取り、元妻は郷里へと帰った。聞いてもないのにそんな話をしていたのは、数年前の兄だ。
反対に静馬は、全ての物事に興味が持てなくなった。自殺を失敗し、残った自分には、大きな穴が出来ていた。穴は全てを飲み込み、己を空虚な人間にした。その結果も酒も女遊びも、全てやめた。己が唯一生計立てられると思っていた画業も、一緒に捨ててしまった。あの夏の日、自分を殺そうとして失敗した日から、静馬の手からは全ての現実が転がり落ちていった結果がこれだった。
本当は、それより前からずっとそうなのかもしれない。静馬にはもう何も分からない。ただ、静馬の部屋はいつだって空っぽだ。
兄の持つ煙草から煙が立ち上り、どこかに抜けていく。煙草の香りは不自然なほどにしなかった。静馬の視界が揺れる。テーブルに置いてある古ぼけたライトが、殊更白く明滅した。それをじっと見てしまい、ぼんやりと、意識が遠のく。それは本当に一瞬で、次に目の焦点が合った時、ライトの光は黄色く見えた。全てが現実味が無いように感じられた。
「聞いてる?」
兄の声が聞こえる。聞こえてはいるが、彼の言っている意味は分からない。
「息子がこちらにある大学に行くから、春からこっちで下宿するんだ。静馬、お前も一緒に住んでくれ」
兄の干からびた、厳しい目が静馬を捉える。こんな目をする男ではなかったはずだが、きっと向こうもそう思ってるに違いない。空虚な目をした男と、干からびた目をした男が顔を突き合わせてる状況は滑稽だ。
大学入学ということは、甥は今年十八であるらしい。もう何年も会っておらず、彼から届く手紙も読むだけで返信したことは無い。何故彼は自分に手紙を寄越すのか、それも分からない。自分は一度、彼を殺しかけたというのに。
十年以上前だというのに、鮮明に思い出せる。あの悪夢のような一瞬が眼前に見せられるようだった。当時、兄の別荘に裏手にあった湖で、ボートから身を投げたことを。
水面に浮かぶボートから身を投げたあの瞬間。小さな体が動くのが見え、追ってくるなと祈ってしまった。そう思う気持ちもむなしく、甥の小さな体が静馬を追った。二人とも助かったのは、ただ運が良かっただけだ。
ボートの漕ぎ方を教えたのは紛れもなく静馬だった。自分を置いて、一人でも帰れるように。そうしなかったのはただ幼い甥の善性故だ。その結果、最悪の未来が見えてしまった。彼の善性を想定出来ていなかった。……そんなことがあった別荘は、もうとっくに売りに出されたと聞く。
そんな自分が一緒に住むなんて、そんなこと、許されるはずも無い。静馬は瞬間的に拒否しようとした。
「ああ、分かった」
気付いたとき、静馬の口は全く違うことを言っていた。慌てて訂正しようと思うが、口は動かない。
「良かった……」
兄は胸をなで下ろした様子でそう言った。そうではない。違う。そんなことが許されるわけがない。早く止めなければ。静馬は両手で止めようと思ったが、口だけでは無く、体全体が自由に動かない。
「兄さんも忙しいだろう? こっちは大丈夫だから。あとで連絡だけくれよ」
思い通りにならないこの体は、何故か良い弟の面までする。気を良くした兄は、何年も見なかった笑顔なんぞを自分ではない誰かに向けて、手まで握ってから金を払い、店を出て行った。残されたのは自由を失った静馬の体だけだ。
静馬だって、別に兄を苦しませたいわけでは無い。思うところはあれど、積極的な悪意の待ち合わせなど無かった。ただ、そうとしかあれぬという息苦しさが彼を縛り付ける。
何らかのものに体を支配された自分とも言えない何かの反応で、兄は喜んで帰っていった。だから、そう、静馬などどこにも必要が無い。
「さて、行くか」
静馬の精神だけを置いて、自分の体と誰かも知らない精神は店の外を目指した。
向かったのは繁華街である。街は夕陽で燃えるように照らされている。男は足取りも軽く街中を進む。自由にならない体を自分のものとは思えない。これは、体が自分のものであるだけの知らない男だ。
「兄のことが好きだったんだ」
聞き慣れた声で、全く知らないことを言う。
「母は後妻で、俺は連れ子だった。兄は死んだ前妻の息子」
聞いてもいないのに、語り続ける。
「線の細い、気難しい人だった。正面で見る時は本当につまらなさそうでさ。でも、笑った時の横顔がびっくりするくらい綺麗でさ。俺はなんて綺麗な人なんだろうって、その度にドキドキしてた」
静馬にはやめてくれと言う口も無い。男は、自重気味に笑う。長いこと使っていなかった頬の筋肉が悲鳴を上げるようだった。
「分かる? 笑う横顔しか見てないってことは、俺を見てないんだよ」
店や人の間を男はひらひらと通り過ぎていく。その度に道ゆく人々の視線が注がれる。ただ歩いているだけなのに、この男の動きは、何故か目を引く。
こんなにも目を引く男なのに、顧みなかった兄とは、どんな男だったのだろう。そして顧みられない男の心境とは。
静馬は顧みられてしまった。そんなものは必要無いのに。自分の人生に必要だったのは、ただ絵画だけだった。だというのに必要もない視線が己を蹂躙し、その結果静馬は逃げるように、見せつけるように、この身を湖に投げ打った。そう、ずっと静馬は蹂躙されてきた。自分の人生に必要がないはずのものたちに。そのことを思い出し、静馬は少し落ち着いた。きっと体が自由になったなら、全身の力を抜いていただろう。蹂躙されるのは初めてではない。己の人生で自由になったことなんて、何一つ無い。
そんなことを考えていると、いつのまにか繁華街も中心に来ていた。そのとき、静馬は見知った顔を見かけた。確か、同じ建物に住む学生だ。男は熱に浮かされたようにじっとこちらを見ていた。嫌な予感が頭を過ぎる。
早く通り過ぎてくれ。目の前にいる男が自分であることに、あの学生が気がつく前に。そんな静馬の気持ちを無視するように、男は学生に笑いかける。ふらふらと操られているような足取りで、学生は男の手を取った。
あれよあれよと、つい最近出来たラブホテルに入った。学生は男を抱くのが初めてだったのだろう。緊張して震える手を男が取り、文字通り手取り足取りだ。
「弟はいるかい?」
知らない男は聞く。
「ええ、二人」
学生は答える。それだけで、男には十分だった。
3
甥との望まぬ同居が決まってしまい、静馬はクサクサとした気になりながら、川沿いを歩いていた。まだ日も高い昼時である。
同居を覆そうにも、昨日の今日で兄に連絡を取るのも気まずい。許可したのは自分の意思では無いとはいえ、あんなにもはっきりと同居を許可したのだ。
常ならば例の幽霊のせいで夜間一睡も出来ず、早い時間の昼寝をしている頃合いだ。しかし昨晩の夜遊びの後、帰ってきたのは日付変更後だったからか、幽霊の夢は見なかった。
目が覚めれば土曜の昼、隣室から若い男数人の声が聞こえて来ていた。きっと学友でも来ているのだろう。ただ聞こえるだけならば良いが、とにかく騒がしい。騒がしい上に話の内容が若い男性複数人が集まったに相応しい下劣さで聞くに耐えない。静馬は早々に自室を見限り、冬の鴨川沿いを暇に任せて散歩してみることにした。
冬の川沿いは、なんだかがらんとしていた。空は遠いし川の水量は少ない。木々も夏より薄着で、総じて寒そうに見える。しかしその寒さが、静馬を慰めるような気もした。もう騒がしいのは懲り懲りだった。
そうして周囲を見渡しながら散歩していると、川上から川沿いを歩いてくる男を見かけた。その男には見覚えがあった。彼は十年以上前、静馬が画家として生計を立てていた時分、静馬の絵を高く評価してくれていた画廊の男だった。確か静馬よりも二十ほど上だ。男も静馬に気付いたようで、驚いた様子で駆け寄ってくる。
「今までどこにいたんだ!?」
男は勢いよく静馬に言い寄った。そういえば、彼に自分が京都に居を移したことを連絡した覚えはない。彼が語るには、静馬が筆を折ったと言う噂を聞いてから、ずっと探していたのだと言う。殴ってでも目を覚させなければいけないと思ってなあ。そんな物騒な言葉を使ってまで熱弁する男をじっと見ると、遠目には気付かなかったが、彼の着ている紺色のセーターからは水がぽたぽたと滴っていた。黒の短髪の毛先からも同様だ。上から下までじっと見ると、男はどこもかしこもずぶ濡れだった。そんじょそこらのずぶ濡れ具合ではない。彼の向かってきた方向を見ると、通ったであろう道が転々と足跡が残っているほどだ。
「……お前はなんでそんなに濡れてるんだ」
聞いてはみるが、男は特に気にしない様子だ。
「あ? ああ……さっき足を滑らせてね。いやそんなことどうでもいい。今どこに住んでるんだ? ここら辺か? 何か描いたものがあったら見せてくれ、うちで売ろう」
「絵はない。家は、もう少し行った先の……」
「よし行こう」
「おい、ちょっと」
男の勢いは尋常では無い。その勢いに慄いているうちに腕を強く掴まれて、静馬としてはどうしようもない。自宅とは全く真逆の方向に進もうとする。
「……どこに行くんだ。そっちは逆の方向だ」
「あ、すまんすまん」
明るく謝る男は悪びれる様子も無く、話を聞く様子も無い。明らかに男はおかしかった。これを街中に放置するのも心配だ。今は無関係とはいえ、過去には食い扶持の面倒を見てもらったこともある。過去は捨てた、そうはいってもこの様子がおかしい男を完全に無視するのも忍びない。静馬は結局男を引きずるような形で、自宅へと戻ることとなった。
男を連れて戻ったとき、既に隣室は静まり返っていた。静馬が家を出てからまだ数時間と経っていない。
男は物珍しい様子で辺りを見渡していた。その足元からは、未だに水がポタポタと滴り、部屋を濡らす。そんな様子に静馬は眉根を寄せた。
「……おい」
「結構良い部屋に住んでるなあ。うちはもっと狭くてさあ」
こんな狭い部屋に対して妙なことを言う。男は静馬を見ることもなく、ずかずかと部屋に入り込む。床は、濡れ続ける。話を聞く様子もない男に静馬は溜息を吐いてタオルを投げつけようとした。
次の瞬間、男はこちらを向いて大股で近づいて来た。おかしいと思う前に男の両手が静馬の体を押し倒す。その手は生きている人間とは思えないほど冷たい。静馬はよろけ、敷きっぱなしの布団に背中を強くぶつけた。男からは絶えず水が溢れ、静馬に降りかかる。耳元で、水の流れる音が聞こえる。
どういうことだと問おうとしたが、既に強い力で両腕を掴まれており動けそうもない。文句を言おうと口を開いた瞬間、ごぽ、と水泡のくぐもった後が聞こえた。自身の口に水が入り込んだ音だった。流れのある水の中に、静馬は、いた。
見上げれば、水面はすぐ頭上にあった。あと数センチで水面にたどり着くはずなのに、手を伸ばすことはできなかった。静馬は何もできず、遠ざかりつつある水面を見つめるしかできない。
水面が揺れ、人影が落ちる。その光景を静馬は見たことがある。自分を追って水面に落ちた、小さな体を。
ゾッとして、もがいた。助けなければと思った。だというのに体は動かない。体のどこかしこにも水がまとわりつく。体中の穴と言う穴に、意思のある水が入りこむような感覚があった。このまま骨の髄まで貪られ、何も残らないとすら思うほど。目が無理やり開けさせられ、人影の顔立ちも分かる。
それは画廊の男だった。そのとき、静馬はこの男の訃報を受け取った時のことを思い出した。実家に届いた訃報を、佐清がわざわざ送って来たのであった。何故、今まで忘れていたのだろう。
良い顔しいで、自分の見る目を信じていた男だった。自信家で、静馬の絵も大口を叩いて引き取っていたが、借金があると言う噂はずっと絶えなかった。……彼は、海に身を投げたのだろうか。口の中に入り込む水が塩辛く、苦しい。
そうか、お前、死んでいたのか。
全身を蹂躙されながら、静馬は苦々しく思った。もう描かない自分を殴りたかった男は、死んでも強くそう思っていたようだ。あまりに一方的で苛烈な感情に反吐が出そうになる。
身を任せる他無い激流を耐えていると、そのうち後頭部が砂利にぶつかった。勢い、水が口の中に入り込む。その水は淡水だった。動かなかった体が動き、足がつく。そこは川の底だった。立ち上がれば浅い川の中心で、静馬は一人で立っていた。
からっ風が吹いた。静馬は寒さに体を震わせながらも、なんとか土手を這い上がる。こんな寒空でずぶ濡れでは人の目は引くし、何より寒い。何故自分がこんな目に合わなければいけないのか。そう思いながらも自宅に着くと、二通の手紙が届いていた。
一通目は画廊の男の七回忌を伝える手紙だった。そういえば、一周忌や三回忌の手紙も届いたような気がする。そのどれにも行かなかったし、今回も行くつもりはない。ただ、男が言っていたこの部屋より狭い場所、と言うのは、もしかして骨壷のことを言っていたのだろうか。
手紙の最後には、ご丁寧に、もし何か絵を仕上げていたら持ち寄ってくれと書かれている。封筒の裏を見れば送り主は死んだ男と同じ苗字の男の名前だった。息子なのだろう。意思は確かに継がれているようだ。だからなんだとばかりに静馬は手紙を破り、オイルの尽きそうなライターを取り出す。ヤスリを何度も擦って、どうにか炎を付ける。平皿の上で手紙はすぐに燃えて、炎が消えるのを見届けて静馬はやっと肩の力を抜いた。
二通目は、同居することになってしまった甥からの手紙だった。静馬は少し考え、丁寧に手紙を開けた。そこには右肩上がりで勢いの良い、若者の字が並んでいる。
叔父さん
お久しぶりです。いかがお過ごしでしょうか。父から同居の話を聞いたかと思いますが……
4
甥からの手紙を受け取ってから数日が経った折、静馬にもう一通、手紙が届いた。安紙で作られた封筒は乾燥した指に引っかかり、簡単に血を滲ませた。
世捨て人としてやっているはずの静馬がこんな頻度で手紙を受け取るなんて珍しいことではあったが、その差出人の名前を見て納得と不愉快を同時に味わうこととなった。差出人の名前は、母親のものだった。彼女は静馬が人生の足を踏み外したのが気に入らないようで、定期的に恨みの言葉を綴った手紙を送りつけていた。彼女の手なりの文字で書かれた自分の名前を目に入れることさえ辟易し、最近は専ら読まずに捨てているわけだが、差出人住所が実家からどこか知らぬ病院になったことには気付いていた。彼女は何らかの病に罹っているのかもしれない。それでも母親に会う気になるどころか手紙を開ける気にもならず、ただ放っておいてくれと思うだけだ。
静馬にとって、彼女は母親とは名ばかりの女だ。静馬の存在を文字通り道具としか見ていない彼女の人生がどれだけ素晴らしいものであっても、惨めなものであっても、自分には関係が無い。そう思うことでやっと、静馬は平静を保つことが出来た。
開けていない手紙を強く握ったまま、静馬はヤケクソの気持ちで夜の繁華街へと繰り出した。
繰り出した街はなんだか妙に輝いて見えた。美しい、羨望、と言ったものではなく、光源が多くなったかのようだった。以前ここを訪れたのはほんの数日前、兄と会った日のことだ。望みもしないワンナイトで歩いた街は、今よりも少し薄暗かった。あの日入った真新しかったはずのラブホテルは、開店から数年が経ったように真新しさが鳴りを潜めている。こんな短い間で、店が落ち着く訳もない。
あの夜、自分の体が歩いた街は、いつのものだったのだろうか。何も分からない。何も持たず、何物からも顧みられない静馬には、何かが分かるはずもない。ただ、この街に欲望が渦巻いているのは事実だ。静馬は強く握りしめすぎてシワだらけになった手紙を、欲望の掃き溜めにしか見えぬ側溝に躊躇なく落とした。
場所は違えど、このような繁華街には幾度と無く顔を出していた時期があるので、歩くのに躊躇は無い。客引きの男の声を無視しながら通りを歩く。とはいえ、当時とは見える景色が違うのも事実だ。当時の自分は、結局のところ、過去にも、未来にも、現在にも、反吐を吐きたくてたまらなかった。だからこそ破滅を求めて練り歩き、方々に迷惑をかけ、それでも尚止まらないボールのように転がり続けていた。今の静馬には、吐く反吐すらありはしない。
静馬は狂乱に満ちた店々を冷ややかに横目で見ながら素通りする。袖を引かれるような感覚はあるが、全てを無視した。どうにも気が向かなかったのだ。
そのうち、とある通りに出た。見たことのない小道だ。明るい繁華街の裏、と言えば当然汚い路地を想像する物だが、その通りは舗装もされていない割に小綺麗な様子で、ただそこにあった。静馬は何も考えずにその通りを歩いたが、なんだか舗装されたアスファルトよりもずっと歩きやすい。
すいすいと歩けば、暖かな橙の光の列が見える。静馬はふらふらとその光に吸い寄せられる。その光とは、古臭くも丁寧に普請された瓦屋根の店々であった。それぞれの屋号を見てみるが、何やらひらがなに似た読めない文字で書かれており、読めるものは何もない。はてここは、と思う内に、静馬は一際目に付く店を見つけた。
目に付くと言っても、その店は平屋の家屋で、華美な様子はない。引き戸のすぐ横に読めない文字の書かれた木板が立て掛けられている。書かれているのは屋号であろうか。戸の向こうからは、何やら美味しそうな香りがする。そのとき、腹がぐう、と鳴った。そういえば起きてから何も食べていない。
この店は小料理屋だろうか。静馬が気になり、引き戸に手を掛けようとした瞬間。戸がひとりでに開いた。
扉の向こうから顔を出したのは、和服の女性だった。吊り目で、口の大きい女だ。お客さまですこと、と大きな口をよく動かして言った。続けて、お待ちしておりました、確かにそう言った。予約など、もちろんした覚えはない。誰かと間違えてはいないか、そういう前に、女将と思われる女は静馬を一番奥のお座敷に案内した。
奥の座敷にいたのははっきりした顔立ちの、洋装を着た知らない男だった。
人違いだ、と言うよりも前に、襖を閉められた。静馬は居心地悪く部屋を見渡した。座敷の机の上には小ぶりの鍋に入れられた湯豆腐と、熱燗が置いてあるのが見える。
上から下まで視線で舐められるような視線が体を這った。
「これは質の良い。やはりこの店は良いものを揃えている」
男がそう言ったと思えば、静馬に向けて手を伸ばされる。自分は飯を食いに来ただけなのだが。手を弾くと、生きも良いのか、と言って大きく口を開けて笑う。牙がきらり、と光った。
「あなた、名前は?」
「……なんで言う必要ある?」
「確かにそうだ」
男は機嫌良さげに良い、汁物を啜る。その間も男の視線は静馬に注がれ続けている。居心地の悪さに、身を捩った。
「君は魅力的だね」
「……」
静馬は何も言わなかった。内面も知らないのに何が魅力的なのだろう。いや、知らないからこそ魅力的なのだろう。
「匂い立つものがある」
すん、と鼻をすすったのは静馬の方であった。
「食べるかい? この店で出てくるのは全て一級品だ」
静馬の様子を勘違いしたのだろう。男は湯豆腐を分け皿に装う。しかし静馬は食べる気にならなかった。店に入る時に感じた空腹は、都合の良いことに身を潜めていた。
その代わり、と言うと語弊があるかもしれないが、別の欲が頭をもたげていることに、静馬は気付き始めていた。
「……ああ」
男は何かに気付いたように微笑んだ。わざわざ立ち上がり、静馬の隣へとやってくる。静馬も上背がある方だ。そんな静馬と同じ程度の背丈の男であった。
部屋の奥には布団が一枚だけ敷かれているのが見える。つまり、そういうことだ。
男の手が静馬に触れる。その手は緩く静馬の頬を温めた。気もそぞろにしながら思い出していたのは、甥からの手紙の内容だった。
『静馬さんと、ずっと話したかったんです。』
その文章を読んでから、ずっと恐ろしかった。自分が、まるで価値があると思わせるのはやめてほしかった。
『物件を決めるため、そちらへと向かいます。静馬さんも一緒に如何ですか。』
指定された日まで、もう五日もない。静馬の体が恐怖で震えた。
「誰のことを考えているんだい?」
「……あんた、以外のこと」
肺の中の空気を吐き出すと、熱い息が喉を通る。男は仕方が無いとでも言うように唇を重ねる。
意味もなく、価値もない。意思など求めないでほしい。目の前の男が求めているのは、ただ伽藍堂の体だけだ。だから静馬もこうして体を開け渡すことが出来る。伽藍の体を求めた男に欲を高められた体は怠く、自分のものではないように感じられた。
夜も更け、障子の向こうが明るくなっているのが見える。布団の上、隣に横たわった男が言う。
「君、もうこんなところには来ないようにね」
静馬は何故、と言わなかった。当たり前だ、こんな人ならざる者しか居ないような店に、二度と来るものか。今は気味が悪く仕方が無いのに、店に入る前は何故か全てが魅力的に見えていた。
そのとき、急に強い眠気が静馬を襲った。意識が遠ざかっていく。最後に見えたのは、一晩ずっと見ていた男の寂しげな顔だった。
目が覚めたとき、静馬は山の中にいた。ここがどこか、静馬にはすぐには分からなかった。ただどことなく見覚えがある。冬だから、木々の様子も分からない。ぼんやりと周りを見渡して、やっと今自分がいる場所が、自宅から三十分ほど歩いた山の山道であることに気付いた。なんだか、大変なものに巻き込まれた気がする。薄ぼんやりとした記憶が静馬に傾れ込む。人間かも分からない男に、一晩抱かれた記憶は、ただ重たい。
そのとき、静馬さん、と、自分を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのない、しかし確かに知っている声だ。
兄の声に、よく似ている。
辺りを見渡すと、自分や兄とそっくりの、若い男が駆け寄ってきた。甥、なのだろう。面影はあるが、それよりも兄と自分によく似ていた。随分と高くなった背を見て、長い年月を感じる。お久しぶりです、そう言う男に返事もせずしげしげと見つめてしまう。そういえば最後に会ったのは声変わり前だった。
しかし彼が来るのは三日後のはずだ。そう戸惑っていると、彼は困ったように笑った。
「手紙を見てないんですか?」
どうやら彼は一通目の後に、もう一通送っていたらしい。若者は座り込んだ静馬の手を掴んで立たせようとした。手を握った瞬間、体に感じていた圧力のようなものが全て消え去った。体が軽くなったかのようだ。だと言うのに、静馬は立ち上がれなかった。腰が抜けているのだ、と気付くのに、ほんの数秒が掛かった。
どういうことだと甥は笑った。そんな彼に、静馬は何も返せず、ただ彼の抱き上げる腕に従うしかなかった。
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